2021年2月7日大阪東教会主日礼拝説教「罪の告白」吉浦玲子
【聖書】
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。
また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。【説教】
<病のいやしとは>
今日の聖書箇所では、パウロの手を通して病人の癒しが与えられたことが記されています。病の癒しのついては何度かお話ししてきたことですが、こういう箇所を読みますと信仰が深ければ病気が癒されるのだろうか、病気が治らないのは信仰が足りないからだろうかと思ったりします。あるいはここの教会の牧師は、病気を治すこともできない、力のない牧師だと考える人もあるかもしれません。逆に、病の癒しなんて、原始教会時代の特別なことであって、現代ではそんな非科学的なことはありえないと考える人もあるかもしれません。
教会は病院ではありませんし、牧師は治療家でもありません。教会は魂の救いを人々に与えるところであって、牧師はそのための福音を語る者です。しかし、愛と憐れみに富みたもう主なる神は、一人の人間の罪を赦すために、福音へと導くために、さまざまな手段を使われます。その手段の一つとして、奇跡的な病の癒しというものもあります。それはたしかに、今日においても、起こりうることです。
実際、私自身も癒された経験はいくたびかしていますし、祈りによって、祈った相手のお具合が変わったということはあるわけです。しかしそのこと自体に過度な意味を持たせることは危険です。病気が治ることだけが、神を信じる目的ではないからです。症状が治まることが信仰の証しではないからです。神は、病気というものを通じて、一人一人の人間に問いかけられます。ある場合は癒され、またある場合は、病気と共に生きていくことを求められます。いずれにしても、そこに神の愛が示されているのです。
さて、パウロを通して神の癒しの業はすさまじい力を見せました。「パウロの手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。」というところだけを読むと、なにか怪しい新興宗教の話のようにすら聞こえます。
ここで悪霊と出てきますが、悪霊というと、おどろおどろしい感じがありますが、人間を神から引き離す力を表しています。そのような力はたしかにこの世界に働いていますが、それは神によって取り除かれるものなのです。
<イエスの名によって>
さて、先週は、イエスの名による洗礼について聖書から聞きました。<イエスの名>というとき、そこにイエス・キリストの現実的な力があります。イエスの名による洗礼は、イエス・キリストご自身に人間がどっぷりと浸されることでした。今日の聖書箇所ではいやしの業についても「イエスの名」によってなされていたことがわかります。イエス・キリストご自身の力によっていやしていただくということです。パウロ自身がなにか魔術的な力を持っていたわけでなく、パウロを通して、イエス・キリストの力が働いたのです。
ここで不思議なことが書かれています。ユダヤ人の祈祷師たちが「試みに、主イエスの名を唱えて、パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ったというのです。祈祷師たちは、たしかにパウロが宣べ伝えているイエスという名前には力があると考えたのです。そのイエスの名によって、パウロと同様に病人をいやせると思ったのです。この祈祷師たちにとっては、イエスの名、イエスの力というのは、アラジンの魔法のランプのなかの魔人のようなものであったのでしょう。その力を利用し、自分の願いをかなえるための存在だと祈祷師たちは考えました。祈祷師たちは病気を治したり不思議なことをして見せて、金銭を稼いでいたでしょうから、イエスの名は飯のタネになると思ったのです。
しかし、彼らは逆に悪霊からひどい目に遭わされます。イエスの名、イエスの力、すなわち、神の力は、悪霊をはるかにしのぐものです。しかし、その力を、自分の利益のために利用しようとしてももちろんうまくいかないのです。「彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」とあります。少々滑稽な状況です。私たちはこの祈祷師たちのような馬鹿げたことはしませんが、しかし、よく考えたらまったくこういったことは私たちと関係がないわけではありません。
旧約聖書の出エジプト記に十戒という神の戒めがあります。そのなかに「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあります。これは分かりにくい戒めですが、<みだりに唱える>というのは自分の勝手に唱える、とか、自分の利益のために唱える、ということです。まさにユダヤ人の祈祷師たちが、今日の聖書箇所でおこなったようなことです。自分たちの金もうけのために、イエスの名を利用しようとしたのです。
私たちも、神が私たちのために良いことをしてくださるなら従いましょう、私たちの思い通りにしてくださらなかったら従いません、と考えるならば、神の名、イエス・キリストの名を、自分のご利益のために利用しているのです。みだりに神の名を唱えているのです。
そしてみだりに神の名を唱えることは実際のところ危険なことでもあります。この祈祷師たちのように、むしろ悪しきものに巻き込まれてしまう場合があるのです。人間の力ではないものをみだりに求める時、ひとときはことがうまくいったとしても、滅びにむかっていくのです。
<恵みを知った時罪を知る>
さて祈祷師たちは逃げていったわけですが、聖書は、「悪い人間は退散しました」というところで終わっていません。パウロを通したいやしの業、祈祷師たちの失敗と退散、これらのことを通して、人々に神への恐れが生じたのです。「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシャ人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。」
神は恵みを与えてくださるお方です。私たちはその恵みを喜びます。しかし、それがほんとうに神の業だと知った時、恐れが生じるのです。ペトロが主イエスに従って漁をしたら、とんでもない大漁でした。そのことを通してペトロは神への恐れを抱き、また自分の罪を知りました。
今日の聖書箇所でも「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」とあります。ペトロがおびただしい魚を獲ったあと、主イエスの足もとにひれふし、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言ったように、神の力を知った人々は、罪を告白せざるを得なくなるのです。神の方を向くということが回心、悔い改めですから、当然、そうなるわけです。神の方を向くとき、わたしたちは、おのずと自らの罪を知らされるのです。
罪を知った時、それは心の中で反省をして終わるのではありません。生き方が変わっていくのです。クリスマスの時期に読まれる聖書箇所で、幼子イエスを東の国から訪問してきた占星術をしていた学者たちが、主イエスと出会い、主イエスに黄金・没薬・乳香を捧げて、自分たちの国に帰っていきました。黄金・没薬・乳香は占星術に使う道具であったとも言われます。彼らは自分たちがこれまで生きて来た占星術の道具を主イエスに捧げて帰っていったのです。つまり占星術をすることをやめて、新しい生活をするために帰っていったのです。今日の聖書箇所でも、「魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨が五万枚にもなった。」とあります。魔術を行っていた者たちが、魔術を行うために必要だった書物、銀貨五万枚の価値があったものを焼き捨てたというのです。当時の銀貨の種類はいくつかあって、それぞれに価値が異なるものですが、聖書に出てくるデナリ銀貨として考えると、おおむね、銀貨一枚は当時の労働者の日給でした。銀貨五万枚というと、140年分の賃金ということになります。ちなみにイエス・キリストが、裏切ったユダによって売られた値段も銀貨30枚でした。こういうことを考えますと五万枚とはとてつもない枚数です。逆に言いますと、五万枚の銀貨を元手にできるほど、魔術を使える者たちはお金を稼いでいたということです。そしてまた多くの人々がその生活を捨てたということです。漁師だったペトロが舟を置いて主イエスに従ったように、主イエスに罪の告白をした人々はそれまでの生き方を捨てて主イエスに従いました。
<明け渡す生き方>
さて、エフェソの人々は、悔い改め、主の言葉に生きるようになりました。そもそもこの世界は神が御支配されています。その神の支配に従わない時、つまり祈祷師たちのように自分の都合の良いように利用しようとするとき、かえって悪しき力に、悪霊のような者に支配されるようになります。わたしたちは、神のご支配のなかに自分を明け渡します。神に自分を支配していただくのです。支配されるというと不自由なことのように感じますが、むしろそれは不自由からの解放なのです。天地創造なさった神に自分をゆだねるとき、私たちはむしろ自由を得るのです。
しかし一方で、これは難しいことでもあります。御心を問いながら、神に従って生きているつもりでも、実際は、自分の思い、自分の考えで歩んでしまうことは多いのです。熱心に祈り、一生懸命に奉仕をしているつもりでも、結局のところ、自分に固執した生き方をしてしまうことがあるのです。これは教会のあり方においてもそうです。教会をよくするためにと言いながら、実際は自分にとって心地の良い教会を作りたい、そのような人間中心の思いで教会が動かされ乱れていくこともあります。そういうとき、神はストップをかけられます。個人にも教会にも「やめよ」とおっしゃるときがあるのです。
詩編第46編11節に「力を捨てよ、知れ/わたしは神」という言葉があります。この「力を捨てよ」ということは「やめよ」ということです。口語訳では「静まれ」と訳されていました。私たちは自分が熱心で一生懸命な時ほど、意識的に力を捨て、静まらねばなりません。それができないとき、私たちは場合によっては強制的に神からストップをかけられるときがあるのです。否が応でも、今までの生き方を変えざるを得ない状況に置かれる時があります。自分自身を振り返りましても、たとえば、望まない形での職場の異動、左遷やリストラにあったとき、自分を振り返らざるを得ませんでした。子供がまだ小学校の低学年だったとき、所属していた事業部が赤字で、多くの人員が異動になりました。私自身も子会社に出向になりました。その子会社は通える距離にはあって、会社の規定では引っ越しを伴う異動ではありませんでした。しかし、通勤時間は一時間ほど長くなりました。それで、新しい職場に近いところに引っ越すことにしました。引っ越し費用も家賃も負担が大きかったのですが、振り返りますと、そのことを通して神は私に「やめよ」と生き方の変革を迫っておられたのだと思います。
神から「やめよ」のご命令もまた恵みです。そのことを通して、自分の欲望やちっぽけな思い込みから解放され、この世界の悪霊から自由にされて生きていくのです。そして神のご支配のもとに生きる時、私たちは本当の自分の願いをも知ります。そして心素直に神に自分の願いを申し上げることができるようになるのです。新しい道を神が拓いてくださるのです。