大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第5章21~34節

2022-05-11 18:12:06 | マルコによる福音書

2022年5月8日日大阪東教会主日礼拝説教「あなたはほんとうに生きていますか」吉浦玲子

【説教】

 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」

 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

【説教】

 今日お読みした聖書個所で、癒された女性に主イエスはこのように語っておられます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 人間は誰でも病気にかからず元気に暮らしたいと願っています。しかし、多くの人は病気にかかるのです。病気にかかりたくてかかる人はほとんどいないと思います。少なくとも重篤で長期間、日常生活に支障をきたす病気にはなりたくないと思います。不摂生が病気の主たる原因であるなら「あなたの生活を整えて、もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」ということは言えるかもしれません。栄養や休養や運動に気を配って生活をして元気に暮らしなさいということは分からないでもありません。しかし人間の体は不思議なもので、持って生まれた体質や様々な条件によって、似たような生活をしていてもある人は元気で、ある人は病気になります。そして今日の聖書個所に出てくる女性は12年も患っていたことが記されています。多くの医者にかかったとありますから、できる限りの手は尽くしたのです。そのうえで病気は治らなかったのです。出血が止まらないということは、律法で汚れた者とみなされることでした。汚れた者は信仰共同体から排除されるのです。ですから、この女性が好き好んでこの病になったわけではありません。病になるような特別な不摂生をしたわけでもないでしょう。そもそもこの病気の原因は分からなかったのです。なのに主イエスは「もうその病気にかからず」とおっしゃるのです。かからないですむ具体的な手立てがあるように思えないのになぜ主イエスはこのような言葉をおっしゃるのでしょうか。

 そのことを心に留めながら、今日の聖書個所を読んでいこうと思います。主イエスは湖を再び舟で北西に進まれ、イスラエルの地に戻ってこられました。湖の南東側の異教の地では、主イエスは悪霊を追い出されたにもかかわらず「この土地から出ていってほしい」と言われました。それに対して、ユダヤの地では主イエスの周りに大勢の群衆が集まってきました。主イエスに癒してもらいた人々、主イエスに悪霊を追い出していただきたい人々、主イエスの話を聞きたい人々、そのような人々が大勢集まってきたのです。その大勢の人々の中で、二人の人が今日の聖書個所では描かれています。会堂長のヤイロという人と、出血の止まらない女性です。この二人は相互には関係のない人です。その二人の物語が並行して進んでいきます。

 最初に登場するのはヤイロで、瀕死の状況にある娘を救ってほしいと願います。主イエスはヤイロと一緒に出掛けます。一刻を争う状況でした。急ぐ主イエスとヤイロに群衆も従ってきて押し迫ってきたとあります。急ぐ主イエスたちにとっては歩きにくい、邪魔な状況です。そのような状況の中で、十二年間出血の止まらない女性が群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れたとあります。さきほど申し上げましたように、律法によれば出血のある女性は汚れているので、本来、このようなことをしてはならないのです。汚れた人間が他の人に触れると、その触れられた人も汚れるからです。汚れた人間は共同体の中に紛れ込んではいけないのです。しかし、主イエスに触れた女性はたちどころに癒されました。

 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と聞かれました。その時、主イエスは歩みをとめておられたでしょう。一緒にいたヤイロは気が気でなかったと思います。娘の命が危うい、一刻を争うときに、「わたしの服に触れたのはだれか」などと悠長なことを主イエスはお聞きになっているのです。そもそも群衆が主イエスに押し迫っている状態で、誰が降れたかなど問うのはナンセンスであり、弟子たちも「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」と驚きます。おそらく主イエスは、誰が触れたかはお分かりだったと思います。しかし、敢えて問われたのです。女は自分の身に起こったことが恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。ここで分かることはこの話は女性の病気が癒されてよかったで終わる話ではないということです。女性が恐ろしくなったのは、自分に神の業が起こったことを感じたからす。そしてまた自分が律法に違反したことも知っていたので震えながら出てきたのです。

 そして正直にすべてを語った女性に主イエスは冒頭に語った言葉をおっしゃいます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」もちろん女性に信仰がなかったから病気になったわけではありません。しかし、女性は主イエスの福音を聞いたわけでもありません。自分の罪を悔い改めたわけでもありません。ただ主イエスに触れようとした、病気が治りたい一心だったのです。しかしその女性が主イエスに触れた、それを主イエスが「あなたの信仰」とみなしてくださったのです。私たちは自分の信仰が立派とかだめだとかいろいろ考えるかもしれません。祈りが足りない、聖書の学びが足りない、奉仕が足りない、そんなことを考えるかもしれません。しかし、信仰というものは主イエスに触れようとすることなのです。自分の人生の中で、日々の生活の中で、主イエスにほんの少しでも触れようとするとき、それを主イエスが「あなたの信仰」だとご覧になってくださるのです。

 息子が小学校の低学年くらいのころ、一緒に近所に買い物に行くとき、道で手をつないで歩いていました。ところが、ある時、息子がぱっと手を離すのです。あれ?と思ったら、向こうから友達がやってくるのです。ははあ、友達にお母さんと手をつないでいる姿は見られたくないのだなと思いました。そういうのが恥ずかしい年ごろになったんだなと感じました。その後、その友達がいなくなったら、また、手をつないでくるのです。かわいいようなおもしろいような気持でした。もっと小さいときであれば、どこでも誰の前でも親と手をつないでいたのです。そして当然ながら、もっと大きくなると親とは手などつながなくなります。陳腐なたとえかもしれませんが、神の子供とされている私たちは幼子のように神と手をつなぐのです。心置きなく主イエスに触れるのです。人の目を気にするとき、私たちは神から手を離してしまうのです。神から手を離し、自分一人で立派な信仰者としてふるまうのです。そこには本当の信仰がありません。

 一方で、神に触れるということは畏れ多いことのように感じられるかもしれません。実際、旧約聖書を読みますと、神とは聖なる方であり触れることはおろか、顔を見ることもできないお方と考えられていたことが分かります。<神の顔を見たら死ぬ>そう考えられていました。実際、神は聖なるお方です。罪ある人間がそもそもは触れてはならない存在なのです。しかし、主イエスが来られ、神と人間の間を隔てていた罪を主イエスご自身が引き受けてくださいました。ですから、主イエスのゆえに私たちは神と触れることができのです。そしてまた主イエスに触れることを通して私たちは神を知ります。主イエスに触れることのないものは神を知ることができません。 人生の歩みの中、主イエスから手を離して自分の足で歩いているつもりになっている、それは愚かなことです。人の顔ばかり見て主イエスに触れることのない信仰生活、それもむなしいことです。さきほども申し上げましたように、この出血の止まらなかった女性は、何か信仰的なことをしたわけではありません。福音を聞いて信じたからでも、悔い改めたからでもありません。ただただ主イエスに触れたのです。そこに癒しと救いが訪れました。

 触れる触れるというと、じゃあどうやって触れるのだ、自分は主イエスに触れてるのかどうか分からないと思われるかもしれません。でも考えてみてください。これまで神に守られたこと、神に助けられたことは数多くあったのではないでしょうか?人間の顔や自分の行いばかり見ていたら、神の助けや恵みは分かりません。日本人にありがちなことですが、神に助けられているのに「皆さんのおかげです」と周囲に気遣ってばかりいるとき、神の助けが分からなくなってしまいます。でもほんとうに神に助けられている、そのことを知る時、すでに神の方から、主イエスの方からあなたに触れてくださっていたことが分かります。信仰がないにもかかわらず、悔い改めが不十分であるにもかかわらず、自分の罪ゆえ自業自得のように苦しんでいるにもかかわらず、主イエスがすでにあなたに触れてくださって救ってくださっていることに気付くのです。繰り返しますけど人間ばかり見ていたら、どれほど信仰的行為を行っていても生涯あなたに主イエスが触れてくださっていることを気づくことはありません。神がすでに触れてくださっていることに気づかない、それが罪であり、人間の病です。

 「もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と主イエスがおっしゃった「その病気」という言葉は「あなたの病」「あなたの苦しみ」ということです。つまり神と離れていることからくる病、苦しみのことです。主イエスを知る前の人間の根源的な病のことです。その根源的な病から解放されて、まったく新しい人間として健やかに暮らしなさいと主イエスはおっしゃっているのです。この女性は病が癒される、いってみればご利益を求めました。しかし、主イエスが与えられたのはそれ以上のことでした。まったく新しくされて、根源的な健やかさをいただくことでした。体の病であれば、ふたたびかかることもあるでしょう。どれほど体が健康であっても、最後には人間は肉体的には死ぬのです。

 しかし、その死を打ち破ってくださった復活の主イエスが触れてくださった。だから私たちは新しく生きていくことができるのです。そのとてつもない恵みに感謝するとき、私たちはおのずとみずからもまた主イエスへと触れる存在になるのです。神がしてくださったことを素直に喜ぶ心、自分の業でも誰かほかの人の業でもない、神の業を喜び祝うとき、私たちはすでに神に触れているのです。

 「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」


マルコによる福音書第5章1~20節

2022-05-11 16:38:38 | マルコによる福音書

2022年5月1日大阪東教会主日礼拝説教「正気に戻った男」吉浦玲子

【聖書】

 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

【説教】

<墓場に住む人>

 主イエスと弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸、南東部にありますゲラサ人の土地に着きました。主イエスが舟から上がられるとすぐに汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきた、とあります。汚れた霊とは悪霊であり、人間に災いを起こす霊のことです。神の霊ではなく、悪しき霊です。

 この悪霊に取りつかれた人は墓場を住まいとしていた、とあります。これは象徴的なことです。墓というのは「死」を象徴する場所です。そこにこの人はいました。それは、この人は命ではなく、死に捕らえられていたということです。生物学的には生きていましたが、この人の日々は死に捕らえられていました。完全に正気を失い、自分で自分を全くコントロールできない状態でした。通常の社会生活ができない状態で、周囲の人々に迷惑をかけないためであったと思われますが、足枷や鎖で縛られることもあったようです。しかし、足枷や鎖で縛られても、それらは破壊され、「だれも彼を縛っておくことはできなかった」とあります。では、彼は縛られることなく自由であったかというと、もちろんそうではありません。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあるように、自分で自分を害する行為をしていました。それは本人が望んだことではなく、汚れた霊がさせていたことです。彼を支配していた悪霊の力を周囲の人も本人もどうすることもできなかったということです。

 こういった悪霊という存在は現代に生きる私たちにはとらえにくいところがあります。聖書のこういう記述を読むと、科学の進んでいなかった時代において、原因の分からない病気や現象を悪霊の仕業と考えていたのではないかと思ったりします。しかし、たしかにこの世界には悪しき霊が働いているのです。私たちを傷つけ、苦しめる存在があります。それはある時は心身の病として私たちを苦しめます。もちろんすべての病が悪霊の仕業というわけではありません。特に注意をしないといけないことは、ある種の精神的な病を悪霊の仕業だと考えることです。しかしまた、同時にたしかに私たちの命を損ないような力は現代においても働いています。

<レギオン>

 主イエスはおっしゃいました。「汚れた霊、この人から出て行け」。この悪霊に取りつかれた人は不思議なことに、この言葉を聞いて「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」と言いました。かまわないでほしいのなら、自分から近くに来なければよいのに、走り寄ってきたのです。これは汚れた霊は、自分が主イエスには歯が立たない相手だということが分かっていたということです。先週、主イエスが夕方、わざわざ舟を出して、このゲラサ人の住む土地に向かわれ、嵐にあわれた箇所を読みました。主イエスは、おそらく天候が芳しくないことはご存じの上で舟を出すように弟子たちに命じられ、この土地に来らました。この悪霊に取りつかれた人を救うためです。そのことは悪霊の側も分かっていたのです。自分を苦しめる「いと高き神の子イエス」が来たことを。そして勝ち目がないことを。

 また不思議なことに、主イエスはこの汚れた霊に名前をお聞きになっています。名前があるということは、人格的存在、というと変ですが、この汚れた霊は意志をもった存在だということです。そしてまた名前を聞くという行為は相手への優位性を示しています。主イエスはこの点においても悪霊より上の立場なのです。そして悪霊が答えた名はレギオンと言いました。「大勢だから」と霊は答えます。これは<もろもろの悪霊>ということです。もともとレギオンとはローマの軍隊の一軍団をさす言葉です。一レギオンには四千から六千人の兵士がいたようです。それだけの悪霊がこの人を支配していたのです。このレギオンは「自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願」いました。ここでも、あくまでも主イエスが圧倒的な権威を持っておられレギオンより優勢なのです。

<目に見えない王国>

 さきほど申し上げましたように、たしかに悪しき霊の力というのはこの世界にあるのですが、神の力に対抗する悪しき力があって、その二つの勢力が拮抗してこの世界で戦っているというわけではないということです。善悪二元論的なことを聖書は語っているわけではないのです。世界は神によって支配をされています。しかし、たしかに悪しき力は今も働いています。終末の時、神の救いが完全に完成するとき、その悪しき力は完全に取り除かれます。しかし今は、その悪しき霊が働くことを神がおゆるしになっているのです。

 そう考えますと、私たちの世界には、悪しき霊が満ち満ちているように感じます。ウクライナのこと、コロナのこと、さまざまなことを考えますと、なにか深い闇で世界が包まれているように感じます。人の心も荒び、ニュースやネットなどを見ていますと、ひどい事件や発言が目につきます。この世界は神の力ではなく、悪霊の力によって支配されているのではないかと思うようなことが満ちています。

 ところで、数年前、壮年婦人会で「ヨハネの黙示録」を学んだことがありました。その時、参考にしたのが「小羊の王国」という本でした。その中で語られていたことは、黙示録が描く終末の時まで、たしかに悪しき力がこの世界に満ちるのです。悪の王国が成長していくのです。悪霊の力が増大していくのです。福音書の中のたとえ話で申しますと、毒麦が成長していくのです。実際、この世界には、毒麦が満ちて、いまもどんどん成長しているように見えます。良い麦はほとんど見えないように感じます。しかし、「小羊の王国」の作者は言うのです。終末に向かって、キリストの王国、つまり小羊の王国もまた成長しているのだ、と。毒麦がたわわに実っているようで、実は、それ以上に良い麦が育っているのだと。

 これは単なる楽観論ではないのです。なぜなら、たしかに、2000年前、キリストは来られ、良い麦の種を蒔かれ、それは今も増え続けているからです。そしてその王国は肉眼で見えず知性でも理解をすることはできないけれど、たしかに成長しているのです。それは単にキリスト教の信徒数が増えているとか、教会が栄えているということではなく、神の御業が今日においても豊かに進んでいるということです。一見、悪に打倒され廃墟のようにみえるところにすでに豊かに良い麦が実っている、目には見えないけれど、すでにキリストの王国はこの世界で成長しているのです。私たちが信仰の目を開けているとき、それに気づくことができます。

<悪霊を追い出されては困る?>

 さて、このゲラサ人の土地は、異教の土地でした。つまり神を知らない土地でした。神と関係なく生きていけるのです。レギオンは主イエスに「かまわないでくれ」と言ったとありましたが、これは、「わたしとあなたは関係ないだろう」という意味の言葉です。さらにいえば「いと高き神の子」という言葉は、よその神に対して言う言葉です。レギオンにとって、主イエスは、自分とは関係のない神、離れてほしい神なのです。ゲラサ人の土地は神から離れていた土地であったゆえですから、レギオンにとって居心地がよかったのです。そして、豚の中に乗り移らせてほしいとレギオンは願います。主イエスがお許しになると、レギオンは豚に乗り移りますが、その数が二千匹だったと書かれています。その豚が湖の中になだれ込んでおぼれ死にました。豚は律法においては汚れた動物でした。この異教の地では豚が飼われていて、その豚もろともレギオンは滅びました。この場面は、強烈です。二千匹もの豚が湖になだれ込む状況は恐ろしい光景です。それだけの力がこの男性を縛り付けていたということです。

 そしてこの男性はレギオンから解放されました。しかし、これでめでたしめでたしではありませんでした。レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気に戻った様子を見て、そしてそれが主イエスがなさったことだと知ったこの土地の人々は、主イエスに出て行ってほしいと言いました。これまで悪霊を追い出された主イエスを見たユダヤの人々は「ここにずっといてもらいたい」と主イエスに願いました。しかし、ここでは出ていってもらいたいと言ったというのです。二千匹の豚が溺れ死ぬという状況があまりに凄惨でおぞましく、強烈だったので、人々は恐れを覚えたのかもしれません。あるいはまた、この地方では豚が飼われていましたから、二千頭もの豚が死ぬということは経済的損失と考えられたのかもしれません。

 普通に考えますと、悪霊が追い出されることは喜ばしいことです。しかし、人間にとってそれは必ずしもそうではないのです。私たちは墓場には住んでいません。裸で叫んだり自分を傷つけたりはしていません。周囲の人々が足枷や鎖で自由を奪おうとしているわけではありません。しかしまた、私たちもキリストを知る前は、墓場に住んでいたと言えます。私たちはそれなりに心身が健康であったとしても、けっして自由な存在ではありませんでした。罪に縛られ、この世に縛られていました。私たちはこの社会の様々な制約の中で生きていました。それを不自由に感じる心ももちろんありましたが、一方で、そこから解放されることを心から望んでいたわけでもない側面もあったのではないでしょうか。レギオンが汚れた豚の中に入りたかったように、罪の世界にとどまりつづけること、悪事をやめないことは心地よかったと感じていた側面があったのではないでしょうか。そう感じさせられていたこと自体がまさに悪霊に支配されていたということです。

 かまわないでくれ、わたしとあなたに何の関係があるのだ?そう神に向かって叫んでいたのはレギオンのみならず自分ではなかったでしょうか。神の支配より、レギオンの支配の方が心地よい、神から離れている方が自由で楽しい、そういう思いが人間の中にはあるのです。実際に主イエスが来られても、主イエスに自分の日常から出て行ってもらいたいと願うのです。それはクリスチャンであっても同様です。あまり使いたくないいやな言葉に「日曜クリスチャン」「サンデークリスチャン」という言葉があります。普段は神とは関係のない生活をしながら、日曜だけは教会に行って、クリスチャンらしく振舞うクリスチャンのことです。普段は神様にかまわないでくれという態度で、その罪滅ぼしのように日曜だけ教会に来て、それでちょっとすっきりした気分になって帰っていく。こう言われると、特に会社員時代の自分を振り返りますと胸が痛いところがあります。日々のしんどさ慌ただしさのなか、日曜の礼拝だけは守る、それだけで精一杯というところが正直ありました。しかし、日々のしんどさ慌ただしさの中、毎日ほんの少しでも、一瞬でも立ち止まる、そして神を向く、その心があるとき、私たちは日曜クリスチャンではありません。

<正気に戻る>

 私たちはキリストの前にあって、このレギオンに取りつかれていた人のように、正気に戻るのです。こういうと少し変な言い方になりますが、教会は日常と離れた清らかな空気を味わうためではなく、正気に戻るために来るのです。この悪しき霊が跋扈する世界に生きて、私たちはともすれば正気を失うのです。そしてレギオンにコントロールされるのです。ですから私たちは教会でキリストと出会い、そしてまた日々においても祈りにおいてキリストと交わります。十字架から復活されたキリストは死ではなく命を与えてくださる方です。レギオンをも追い出される方です。私たちは安心してよいのです。この世を支配する悪しき霊に怯えて生きる必要はありません。そして悪しき霊と自分で戦う必要もありません。ただ、キリストと共に生きるのです。キリストの命に自分がすでに入れられていることを確信して生きるのです。墓場ではなく、光に満ちたキリストの王国、小羊の王国に私たちは今生かされています。

                               


マルコによる福音書第4章35~41節

2022-05-11 15:44:23 | マルコによる福音書

2022年4月24日日大阪東教会主日礼拝説教「なぜ怖がるのか」吉浦玲子

 主イエスの弟子には、ペトロをはじめとして漁師たちがいました。もともと彼らはガリラヤ湖で漁をしていました。現代のガリラヤ湖周辺ではペトロにちなんだピーターズフィッシュというものが食事として提供されるようです。これは大型の淡水魚を料理したもので淡水魚の割にはそれほど臭みもなく食べられるもののようです。そのような魚が捕れるガリラヤ湖を中心にした地域は自然が豊かで美しいところであったようです。しかし一方、ガリラヤ湖は、海抜がたいへん低く、谷底にあるような地形で、周囲から吹き降ろす風によって荒れることもよくあり、急に天候が変わることもあったようです。

 今日の聖書個所では、ガリラヤ湖を船で渡っていた時、嵐に見舞われたことが描かれています。プロの漁師であったペトロたちが怯えるほどの嵐だったようです。舟の中まで水が入り水浸しになりました。ところが、あろうことか主イエスは眠っておられたのです。艫(とも)とありますから船尾の方で、枕までして熟睡しておられました。弟子たちはそのお姿を見て「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びます。弟子たちは必死に舟に入ってきた水をかき出したり、転覆しないようにどうにかバランスを取ろうと必死だったでしょう。しかし、主イエスは寝ておられるのです。これまで、さまざまな奇跡を行ってこられたイエス様、きっとこの方なら今のこの状況をどうにかしてくださるに違いないと弟子たちは思っていたでしょう。しかし、頼りにしている先生は、こともあろうに、眠っておられるのです。さらに言えば、「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったのは、主イエスご自身でした。わざわざ日が暮れる頃に、舟を出そうなどとおっしゃらなければ、このようなことにはならなかったのです。プロの漁師であったペトロたちは、ひょっとしたら、天候に不安を覚えていたかもしれません。そのようななか、舟を出した責任者であったからこそ主イエスへ「どうにかしてくださいよ」という思いもいっそうあったでしょう。にもかかわらず主イエスが寝ておられることに対して「わたしたちがおぼれてもかまわないんですか」という批判めいた言葉は出てきたのでしょう。

 私たちは主イエスがどのようなお方は、一応、知っていますし、この物語の結論も知っていて、慌てふためく弟子たちの信仰を情けないなと思ってしまうかもしれません。しかしやはり、わたしたちでも、嵐にあうような緊急事態を体験するとき、やはり慌てふためくこともあると思うのです。神を信じていても、キリストがともにいてくださると信じていても、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫ぶようなことがあると思います。叫ぶならまだいいです。そこに主イエスがおられることすら私たちは忘れて、あたふたしてしまうこともあるかもしれません。

 叫ぶことなく、「海に沈むのも神の御心」というような悟りきったような態度を神は求めておられません。これは神の前で最も不信仰な姿です。叫んだらよいのです。どんどん叫ぶべきなのです。神は私たちの意表を突くやり方で敢えて嵐を起こされるお方だからです。この舟は次の聖書個所を見ると、ゲラサ人の地方に向かっていました。そこはガリラヤ湖の東側で、イスラエルではなく異邦人の地でした。その地方では律法で汚れたものとされている豚を飼っていたようです。弟子たちはおそらくそんなところに行きたくはなかったと思います。しかし、主イエスは「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったのです。なぜ主イエスはそこへ向かっておられたのでしょうか。主イエスは基本的には十字架におかかりになる前はイスラエルへと福音宣教をなさっていました。それがわざわざゲラサの方へ向かわれた、ということには、いくつかの理由があるかもしれませんが、ひとつには、そこに救うべき人がいたからだと言えます。救うべき魂があるとお考えになったから、主イエスはその汚れた異邦人たちの地へと向かわれたのです。

 逆に言いますと、救うべき魂のところへ行かなければ嵐にはあわなかったのです。宣教をしなければ嵐にはあわなかったのです。イスラエルの中にとどまっていれば安全だったのです。しかし、主イエスは舟に乗ってでかけられました。主イエスと共に生きていくということは、主イエスと共に宣教をすることです。そしてそれゆえに時に嵐にあうこともあるのです。直接的な宣教ということだけではなく、皆さんの日常の生活においても、主イエスと共に歩むということは、時として、行きたくない「向こう岸」に行かされることでもあります。当然、舟に乗りさえしなければ、嵐にあって水浸しになることもありません。しかし、主イエスと共に歩むとき、乗りたくない舟に乗って、行きたくないところに行かされるようなことも時としてあります。しかもそこで嵐にあってしまうのです。

 舟は教会を象徴するともいえます。教会もまた、風に翻弄される落ち葉のように、嵐の中で水浸しになってしまうことがあります。しかしまた教会も、安全地帯にとどまっているならば、主イエスのご意志に従って生きているとは言えません。時として「向こう岸」に渡らねばならないときがあります。いつもいつも荒海に出ていくわけではありませんが、ただひたすら安全な陸にとどまっていることは、主イエスの御心ではないのです。

 しかしまた一方で思います。やはり、「向こう岸」に渡るのはしんどいではないか、と。せっかく信仰をもって歩んでいるのです。普段の生活で厳しいこと、つらいことは山のようにある、せめて信仰においてはほっとしたい、慰められたい、つらい思いをしたくないと正直思う心もあると思います。わざわざ「向こう岸」にはやっぱり渡りたくない、そんな思いもあるかもしれません。

そう思いつつ、今日の聖書個所を読み進みますと、結局のところ、嵐は主イエスが「黙れ、静まれ」とお𠮟りになると静まったと記されています。そして主イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちにおっしゃいます。しかし、これは、ほら、イエス様を信じていたら困難から守られるんですよ、弟子たちのような不信仰ではいけませんよ、いつでもイエス様を信じて生きていきましょうねという単純な話ではないのです。

 私たちは「向こう岸」に渡らなくても、陸にいても十分にしんどいことはあります。にも拘らず、なぜさらに「向こう岸」に渡るのでしょう。苦労に苦労を重ねるようなことをしないといけないのでしょうか。そうではないのです。自分が安全だと思うところにとどまっているとき、神の豊かさが見えないのです。ひとつところにとどまって舟を出さなければ、嵐にはあわないし、そこでそこそこ生活ができているかもしれません。しかし、主イエスに従って舟を出すとき、はじめて、嵐の中でも守られる神の現実を知らされるのです。舟を出さなければ、慣れた陸の生活ならば、そこでしんどいことがあっても、自分で頑張ってどうにか切り抜けていくような感覚になると思います。もちろんそこでも神の助けはあるのですが、しかし決定的な神の働きは分かりにくいのです。そしてそこでは神の救いの業が見えないのです。

 旧約聖書では、出エジプトした民は、荒れ野で神からマナを降らせていただいて食べ、また岩から水を出していただいて飲みました。旅立った者には神の御業があらわされるのです。そもそもエジプトにとどまることは奴隷であり続けることでありました。それでも、エジプトでは肉鍋を食べることができました。実際、出エジプトした民は、荒れ野を旅しながら、エジプトの肉鍋の方がよかったと文句を言いました。エジプトで奴隷としてこき使われる生活と、荒れ野を旅する生活、一見、どっちもどっちだなと感じるかもしれません。しかし、荒れ野を旅する民には昼は雲の柱、夜は火の柱として、神の守りがありました。申命記8章に、モーセはその荒れ野の旅を総括してこう語っています。「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」荒れ野の旅には確かに苦労があった、しかし、旅立った者の着物は古びず、足がはれることもなかった、たしかに神の守りがあったことを思い出しなさいと、モーセは語ります。今日の聖書個所で言えば、たしかに舟を出してあなたたちは苦労をした、水浸しになって怖い目にあった、でも、守られたでしょう。そう主イエスはおっしゃるのです。「まだ信じないのか」という言葉は諫めておられる言葉に聞こえますが、「あなたたちは、もう信じることができるのではないか」という言葉でもあります。あなたたちは信じて、旅をすることができる、これからも舟を出し続けることができる。恐れる必要はない、そう主イエスはおっしゃるのです。だから私と一緒にこれからも舟を出そう、旅立とう、と主イエスはおっしゃっているのです。苦労に苦労を重ねるために旅立つのではないのです。鍛錬や修行ではないのです。神の救いを見るために旅立つのです。

 私たちはいま奴隷ではありません。しかし、さまざまに現実の中で縛られている側面があります。さまざまな制約や不便や欠乏があります。病などの身体的な苦しみもあります。しかし、主イエスと共に旅立つ時、私たちは意外なことに、これまで自分を縛っていたものから、自由にされるのです。旅立ちはしたものの、主イエスは眠っておられて、私のことなど忘れておられるように思える時があっても、実際は、私のために働いておられることを知るのです。そして神の救いを見るのです。私がすでに救われていることを見、さらに誰かが救われることを見るのです。

 さきほどの申命記の聖書個所で昔、別のところで説教をしたことがあります。その時、少し個人的なことをお話ししました。私の息子が中学生のころ、不登校になって学校に行かなかった時期があります。思春期と反抗期で、いろいろと荒れていて、ある時、私に腹を立てた息子が玄関のところの壁を拳で打って、壁が何か所か壊れてへこんでしまいました。その当時、私は非常に困ってしまって、市の不登校相談窓口とかにも相談したりしたのですが、すぐには解決しませんでした。一年半後に不思議なありかたで子供は学校に行くようになったのですが、数年後、その壁のへこんだ部分を見ているとき、さきほどの申命記の箇所が響いてきたのです。「あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」自分ではあの当時、とても苦労をした気がしていたのです。たいへんだったと思っていたのです。いや実際母子家庭でしたし、たいへんだったのです。経済的なこともありましたし。でもわかったのです。確かに着物も古びなかったし、足もはれなかった、嵐の中で水浸しの舟のような日々でしたが、たしかに守られていたことがわかったのです。

 私たちは主イエスと共に歩むとき、嵐を避ける生き方ではなく、もっと大胆に漕ぎ出す生き方になるのです。嵐の中にあっても、荒れ野の中にあっても、けっして打ち捨てられることはないからです。その時々に、不安にあって叫ぶことはあるでしょう。しかし、主イエスがおられるのです。嵐は静まるのです。そして、恐れることはない、信じなさい、そうおっしゃるのです。ですから私たちは大胆に舟を出します。

 

 


ルカによる福音書第24章13~35節

2022-05-11 15:21:58 | ルカによる福音書

2022年4月17日日大阪東教会復活祭礼拝説教「心は燃えていたではないか」吉浦玲子

 肉体をもって復活をされたイエス・キリストはさまざまな形で弟子たちと出会ってくださいました。復活のキリストとの出会い方はマグダラのマリア、トマス、ペトロ、それぞれに違いました。今日、出てくる二人の弟子たちともまた特別な出会い方をされました。復活のキリストは、一人一人と特別に出会ってくださるのです。逆に言いますと、一人一人と特別に出会ってくださるからこそ、私たちは復活のキリストを信じる者とされるのです。

 さて、弟子たちはエマオという村に向かっていました。エマオはエルサレムから10キロほどのところにありました。彼らはエルサレムから離れようとしていました。先生として仰いでいた主イエスが捕らえられ十字架におかかりになり死んでしまわれた。その衝撃と悲しみの中で、そしてまた同時に、エルサレムにいては自分たちの身にも危険が迫るかもしれない。いろいろ混乱する思いの中で彼らは、エルサレムの町から去っていきました。

 彼らは主イエスの逮捕から十字架までの一連の出来事をどう受け止めていいか、まだ分かっていませんでした。19節を読みますと「行いにも言葉にも力のある預言者」だと彼らは主イエスのことを思っていたことがわかります。彼らは実際多くの素晴らしい主イエスによる奇跡の出来事を見て、この方こそイスラエルを救ってくださる、力強い預言者だと信じていました。そしてそれまで聞いたことのない神の国の話も聞きました。主イエスの言葉は知識や学問によるものではない、権威ある神の言葉だと感じて彼らは聞いたのです。この先生は、ほかの先生とは違う。大きな力を持っておられるお方だ、どこまでもついていこうと彼らは思っていたでしょう。しかし、その主イエスが、死んでしまった。それも英雄のような最期ではなく、みじめな罪人として、もっとも恥ずべき十字架刑を受けて死んでしまわれた。「この一切の出来事について話し合っていた。」とあるように、彼らは互いに論じ合いながら歩いていました。しかしいくら論じ合っても、せんないことでした。

 そんな彼らに「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた」とあります。「しかし、弟子たちの目は遮られていて、イエスとは分からなかった」のです。不思議なことです。ヨハネによる福音書では復活のキリストと出会ったマグダラのマリアもまた最初、相手が主イエスとは分からなかったと記されています。復活のキリストは十字架の前とお姿が変わっておられたわけではありません。しかし、二人の弟子たちもマグダラのマリアも分からなかったのです。

 二人の弟子は、イエスから「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と聞かれると「暗い顔をして立ち止まった」とあります。弟子たちは暗い顔をしていたのです。マグダラのマリアも墓の前で途方に暮れて泣いていました。復活のキリストがそばにおられても、目が閉ざされているとき、人間は明るくはなれないのです。暗い顔をしたり、涙を流すのです。これは私たちのキリストとの出会いとも同じです。そもそも二人の弟子たちはエルサレムで婦人たちが「イエスは生きておられる」と言っていることも聞いていたのです。誰かとの別れがあったり不幸に見舞われたとき、それでもその悲しみから心を整理して立ち直ろうとしているところに、その悲しみの根幹に関わる事柄で理解しがたいことを聞くと、当然余計心は混乱します。立ち直ることが難しくなります。彼らにとって復活についての言葉はいっそう、そうだったでしょう。弟子たちも心はさらに混乱し、顔はいっそう暗くなりました。しかしまた復活という神の現実を知らない限り、人は本質的に暗い顔をするのです。私たちもまた、キリストを知る前、暗い顔をしていたのです。

 その暗い顔をしていた弟子たちに、主イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります。聖書についてなんと主イエスご自身から講義していただけたのです。今日の週報の表紙に弟子たちとエマオに向かって歩まれる主イエスの姿を描いたロバート・ズンドの絵画を印刷しています。美しい明るい春の道を三人がいきいきと語り合いながら歩む様子が描かれています。これは画家の想像力によって描かれたもので、実際の、エマオへの道がどのようであったか、三人の様子はどうであったかはわかりません。しかし、今日の聖書個所の最後にあるようにこのとき弟子たちの「心は燃えていた」のです。しかし、主イエスご自身が主イエスご自身について語られる言葉を聞きながら、なお弟子たちは、語っておられるのが復活の主イエスであることが分かりませんでした。復活のキリストを復活のキリストとして知るためには聖書の学びを超えた何かが必要なのです。

 彼らは目指す村に近づいたとき、先に行こうとされる主イエスに「一緒にお泊りください」と申し上げます。主イエスから話を聞いていた彼らの中に少し変化が起こりました。暗い顔をしていた彼らは客人として主イエスをもてなそうという気持ちがわいてきたのです。「一緒にお泊りください」主よ、共に宿りませ、そう彼らは言ったのです。

 今日は歌いませんが1954年の讃美歌39番に「日暮れて四方はくらく」という讃美歌があります。「日暮れて四方はくらく/わがたまはいとさびし/よるべなき身のたよる/主よともにやどりませ」という詞になっています。この讃美歌は静かなメロディーとあいまって、情感的に歌われることが多いと思います。この世をよるべなく生きる私たちと共に、神様、ともにいてくださいと切々と響いてくる讃美歌です。ちなみに豪華客船タイタニック号が海に沈んでいくとき、甲板で音楽家たちが最後まで演奏を続けた逸話は有名です。その時、演奏されたとされる曲の一曲は「主よ、みもとに近づかん」という讃美歌だと言われます。しかし、この「日暮れて四方はくらく」も演奏されていたという生存者の証言もあるそうでうす。たとえ暗い冷たい海に放り出されようとも、なお共にいてくださる神がおられる、パニックと恐怖の中で、この曲を人々がどのように聞いたのか想像もできません。しかしなお、絶望的な状況の中で神がおられる、命と死を超えて共に宿ってくださる神がおられる、それは私たちの希望です。その希望に揺るぎはありません。しかしまた私たちはこの讃美歌をあまり情緒的に聞いたり歌うことには注意をせねばなりません。主が共に宿ってくださる、ということは復活のキリストが共に宿ってくださるということです。二人の弟子たちのようにみ言葉を聞く者と共に宿ってくださるということです。人生の荒波の中、神が共にいてほしいということ以上に、復活のキリストがはっきりと見えるように、共に宿ってくださいと願うのです。まだしっかりと復活のキリストを見ることはできない、あるいは頭での理解でしかないかもしれない、しかし、少しずつみ言葉によって変えられて行っていく、確信はもてない、ちょうど夕暮れ時のくらい景色がはっきりしないような心のうちに、復活のキリストに「共に宿ってください」「一緒にお泊りください」と願うとき、主は共に宿ってくださるのです。そして復活という神の現実、肉体をもって復活してくださったキリストの現実を教えてくださるのです。復活のキリストにどうぞ私の内側にお入りくださいと扉を開ける時、その最初は洗礼の時とも言えますが、肉体をもって復活をされた主イエスは私たちと共に宿ってくださいます。

 さて弟子たちと家に入られた主イエスは不思議なことにその食卓において、客人ではなく、主人のようにふるまわれます。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」と食卓の主導権を握っておられます。そしてまさに主イエスがパンを裂かれたその瞬間、二人の弟子たちの目は開かれました。ここで分かることは人間の目が開かれること、復活のキリストを理解することは、キリストの側の働きかけによることなのだということです。どれほど勉強して聖書の知識を積み上げても、復活のキリストを自分の内にお招きし、そこでキリストご自身が働いてくださらなければ復活のキリストを知ることはできません。

 一方、復活のキリストを知ることは肉眼でキリストを見ることとは関係のないことが、二人の弟子たちがイエスだとわかったとたん、その姿が見えなくなったことからわかります。実際、復活のキリストと共に道を長い時間歩いたのに、彼らはそれが復活のキリストだとは分からなかったのです。しかし、キリストによって目が開かれました。そして彼らはエルサレムへと引き返しました。復活のキリストの弟子として生きることを選択したのです。彼らはもう暗い顔をしていませんでした。肉眼でキリストを見ることなくても、復活のキリストが共に宿ってくださり、これからも共にいてくださることを知ったからです。私たちもまた復活のキリストを肉眼で見ることはできませんが、復活のキリストの弟子となることを選択した者たちです。

 「道で聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」そう彼らは喜びの声をあげます。まさに傍らで主イエスの声をきいていたとき、すでに心は燃やされていたのです。自分自身が洗礼前、母教会に通っていた時、今思えば、確かにあの時、私の心は燃えていました。阪急電車の岡町駅を降りて母教会までの10分弱の道のりでした。まだ洗礼を決意していなかった時ですら、すでに今思えばキリストによって心を燃やされていました。あの阪急の駅から母教会までの道が私にとってのエマオへの道でした。みなさんにもそれぞれに心を燃やされたエマオへの道があったと思います。週報の表紙の絵のように生き生きと語り合っているそんなエマオへの道があり、今もその道が続いています。

 心が燃えていた、という言葉は、口語訳や文語訳では「心の内が燃えていた」と心の内側という言葉になっています。実際、ギリシャ語の原文でもそのようになっています。心の内側ですから、外からぼうぼうと燃えているような燃やされ方ではないのです。炭火が静かに赤く燃えるように、あるいは小さなともし火がともされているように燃やされるのです。燃えていない信仰などはありません。燃えていないひんやりとした信仰などはありません。形式的には厳粛だけど、内側は燃やされていない、そんな信仰はありません。ただ静かにお行儀よく学んだり祈ったり奉仕をするのが信仰ではありません。復活のキリストに内側で燃やされ、共に宿っていただく。そこに救いがやってきます。十字架の前のキリストの言動を知っていた弟子たちは目は開かれなかった。人の言動によって人間が変えられることもありますが、それは救いには至らないのです。復活のキリストによって心の内側を燃やされない限り、まことの救いには至らないのです。まことに救われた弟子たちがすぐさまエルサレムに戻ったようにそこにはダイナミックな動き、豊かな感情の働きが伴います。復活のキリストと出会うことはそのあなたの心が内側で燃やされることです。そしてキリストによって変えられることです。一人一人のエルサレムに向かうことです。私たちは今日も復活のキリストと出会い、心を燃やされます。

 


マルコによる福音書第4章26~41章

2022-05-11 14:33:58 | マルコによる福音書

2022年4月10日大阪東教会主日礼拝説教「さあ、収穫の時」吉浦玲子

【聖書】

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

【説教】

 本日は棕櫚の主日です。主イエスがエルサレムに入られたとき、群衆が熱狂したことを福音書は語ります。ヨハネによる福音書には、人々は棕櫚-新共同訳ではなつめやしと訳されていますが―の枝を振って迎えたとあり、そこから棕櫚の主日といわれるようになりました。今日、講壇の脇にも教会の庭から手折ってきた棕櫚の枝を置いております。この棕櫚の枝を振るというのは、紀元前164年の歴史的な出来事からきているそうです。紀元前164年、当時、異教徒に支配されていたイスラエルにおいて、マカベヤのユダという人が戦いに勝利し、エルサレム神殿を奪還したのです。それまでエルサレム神殿にはギリシャの神ゼウスの像が置かれていたそうなのですが、この紀元前164年、ようやく神殿を取り戻すことができたことを喜び祝って人々は神殿奉献記念祭を行いました。その祝いの祭りの時に人々は棕櫚の枝を振りました。つまり棕櫚の枝を振るというのは、イスラエルが民族的独立を果たすということと強く結びついたことだと言えます。人々は主イエスが、マカベヤのユダのようにイスラエルをローマから解放してくださる人だと期待してエルサレムに迎えたと言えます。

 そのようにエルサレムに迎えられたのち、主イエスは、不思議な言葉を語られました。これも有名な言葉です。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これは主イエスの十字架を示された言葉でした。ただおひとりの神イエス・キリストが十字架で死なれる、そのために多くの者が実を結んだ、永遠の命を得たということをあらわす言葉です。

 この「一粒の麦が死ななければ」という有名な言葉について、皆さんは不思議に思われませんでしょうか。麦を土に落ちることは麦が死ぬことでしょうか。現代の日本人は普通そのようにとらえないと思います。その麦が芽を出すのであればその麦は死んではいないと考えるのが普通でしょう。理科の時間に種子の発芽ということを学びます。種が芽を出すこと自体はなんら不思議なことではありません。しかし、聖書の時代の人々は、土に種を蒔くことは、種が死ぬことだと感じていたそうなのです。それは種の上に土をかぶせたり、土に埋めたりすることが埋葬に似ていたことからきているとも言われます。そして死んだと思われていた種から芽が出るということは当時の人々にとっては、大変な不思議だったのです。それは人間を超えた神の業と考えられていました。

 今日の聖書個所にも種を蒔く話が出てきます。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とありますが、死んだはずの種が芽を出す、どうしてそのようなことが起こるのか知らないというのは当時としてたいへんわかりやすいたとえ話でした。しかもその芽は成長していくのです。茎、穂、そして実が実り、収穫となるというのです。

 このたとえ話を、すべては神様のなさること、神様に任せておけばうまくいく、神にゆだねましょうという風に理解しようとしますと、少し無理があります。実際のところ、人間は、種を蒔くだけではなく、雑草をとったり、肥料を与えたり、害虫がつかないように気を配ったり、台風が近づいてきたら植木鉢を移動させたり、風除けを準備したりします。そのように手をかけても、虫にやられたり、うまく生育しなかったりします。2018年の台風の時の教会の中庭のミモザの木のように倒れてしまうこともあります。私たちの日々のさまざまなことにおいても同様です。どれほど手をかけ、心をかけてやってきたことでも、うまくいかないことはごく普通にあります。ようやくもうすぐ花が咲く、実を結ぶ、成功するだろうというときに、思いもかけない妨害にあうこともあります。七転び八起きなどと簡単に言いますが、七回も転んだら、たいてい嫌になります。それをまだ神の時が来ていないだとか、このことは神の御心ではなかったのだと納得しつつ歩んでいくのは、なかなかにしんどいことです。

 そもそも、成長する種というのは何を意味するのでしょうか?これは神の国のことです。マルコによる福音書における主イエスの宣教の開始の言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」にあるように、神の国は近づいているのです。しかも神の国は今はまだ遠くにあって少しずつ近づいてきているというのではなく、すでにこの現実の世界に、突入してきていると言っていいように近くにあるのです。そしてなお、その神の国は成長しているのです。

 現代を生きる私たちにはとてもそのようには思えません。ウクライナのこと、新型コロナ感染症のこと、さらに特に日本においては、もともと自然災害が多いことに加えてさらに最近は全国で地震が頻発していること、そういうことを考えますと、この世界には恐怖と不安にみちみちているとしか感じられません。神の国どころから悪魔の国、闇の勢力が支配力を増しているように思えるくらいです。しかし、これは、今日の聖書個所の前のともし火のたとえ話にも通じることですが、神の業が「隠されている」ことによります。神のともし火は燃えていても、時が来るまで、それは人間の目から隠されているのです。しかし、たしかに神の国は成長し、神のともし火は燃えているのです。

 これは単なる楽観主義ではありません。神の国はかつてエルサレムに入られる主イエスを「ホサナ」と棕櫚の枝を振って歓迎した群衆が考えるようにはやってこなかったように、現代の私たちにも私たちが考える形ではやってこないということです。しかしまた、たしかに蒔かれて死んだ種が、すでに新しい命として芽吹いているということです。

 さらに次の「からし種」のたとえ話でも同様に、とても小さな種が「どんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」ように成長することが語られています。からし種は実際、ごまよりももっと小さな種です。それがとても大きく育ち、鳥たちが巣を作れるような枝を張るように成長するというのです。

 そもそも成長というと私たちは夢を見るのです。子供たちが成長するように背が伸び、知恵がついていくようなイメージです。あるいは右肩上がりに経済が成長して、収入が増え、暮らしが豊かになっていく、昨日より今日、今日より明日と進歩していく。そこに私たちは社会の希望を見ていたかもしれません。高度経済成長期に生まれた私はかつてのその空気の中で育ってきたといえます。でも今、私たちは知っています。ひょっとしたら未来においてふたたび高度経済成長が起こるかもしれないし、バブルが来るかもしれない、しかし、そこに希望の本質はないことを知っています。ごく当たり前のことながら、子供の成長が無限に続くわけではありません。身長も伸びなくなるし、歳月がたてば、子供だった人間も今度は老いていきます。心身が衰えていきます。そして誰もが等しくやがて死を迎えます。社会も人間も右肩上がりの時ばかりではないのです。そのように目に見える状況には希望の本質がないことを私たちはこの世界で生きながら、否応なく知らされます。

 しかし聖書は見えない成長を語ります。神が成長させてくださる希望を語っています。そこに人間の目に見える右肩上がりはありません。しかし、たしかにそこに神による成長があるのです。キリストが死んでくださった。私たちもまた、洗礼において、キリストと共にひとたび死にました。私たちひとりひとりも、土に落ちた麦です。死んだ麦なのです。そしてまたキリストの復活にもあずかり、今、新しい命を生かされています。ひとたび死んだ麦であれば、キリストにあって、成長していくのです。その成長は背が伸びるとか、賢くなるとか、収入が増えるとか、人格が円満になるということではありません。神の国への希望が増し加えられるということです。心にある未来への不安が希望に変えられるということです。永遠の命の確信が増し加えられるということです。

 そして繰り返し言っていることですが、それは単なる気持ちの持ち方の問題ではありません。現実は暗澹としていても、希望を持ちましょうということではありません。目には見えないけれども、信仰において、すでにあるたしかな希望を見ましょうということです。気休めや現実逃避ではなく、今ここにある神の現実を見ましょうということです。

 自分を誇ったり、逆に自分の足りなさ、ふがいなさを嘆くとき、神の現実は見えません。自分にばかり目が行っているからです。私たちはたしかに現実生活において、土を耕し、水をまき、肥料を与えて生きていきます。がんばっていても巨大な嵐や地震にも見舞われます。私たちは日々たしかに労苦をします。その労苦だけを見ているとき、神の現実は見えません。視点を神のほうへ、キリストへと移すのです。そのとき新しい現実が見えてきます。カメラのフォーカスを合わせるように、神へと、十字架で死なれたキリストへと目を向けます。そこに愛があります。まっすぐに自分へとむけられている愛があります。バケツでそこにいる誰彼に水をかけるような愛ではありません。一人一人に違うやり方で、一人一人に特別に与えられる愛があります。私のために死んでくださったキリストの愛があります。その愛ゆえ、私たちは生きていきます。肉体の死の間際であっても、なおその愛はたしかに私たちへとむけられています。私たちは自分に向けられているキリストの愛を知るとき、はっきりわかるのです。ここがすでに神の国であること、そしてその神の国がとてつもなく成長していることを知ります。今も神の業がみちみちていることを知ります。神の業が満ち満ちているからこそ、私たちが人生において労苦する働きも何ひとつ、土に落ちて死ぬことはないのです。私たちの働きが大きかろうが小さかろうが、神が成長させてくださるのです。