大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第5章35~43節

2022-05-15 13:38:56 | マルコによる福音書

2022年5月15日日大阪東教会主日礼拝説教「タリタ、クム―起きなさい」吉浦玲子

 会堂長のヤイロは娘の病気のことが、気が気ではありませんでした。彼は主イエスの前にひれ伏し、娘を救ってほしいと願いました。彼は会堂を司り、礼拝を指導する立場の人でした。さらにはその地域の訴訟の裁定にもかかわる有力な人物でした。しかし、多くの有力な人々は、3章の会堂での出来事にもあるように主イエスを憎み殺そうとすら考えていました。その状況の中、ヤイロが主イエスに関わるということは、自分の立場を危うくすることでもありました。しかしなおヤイロはひれ伏して願ったのです。愛する娘の命がかかっていたからです。それに応じて、すぐに主イエスは一緒に来られたのですが、群衆が押し合い圧し合いして進みづらいのみならず、途中、十二年間出血の止まらなかった女性とのやり取りもあり、なかなかヤイロの家にたどり着きません。ヤイロにしてみれば一刻を争う状況で、主イエスはいかにものろのろとされているようなのです。

 そこに会堂長の家から人々が来て、娘の死を知らせました。ヤイロはどれほど無念であったでしょう。群衆がいなければ、そしてまた出血を癒された女性に時間を取られていなかったら、ひょっとしたら娘は助かったかもしれません。会堂長の家から伝えに来た人は「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」といいます。丁寧な言い方ですが、主イエスに来ていただいても、もう無駄ですということです。現代でも、臨終が確認された者に対して、医者はそれ以上の医療行為はできません。もうお医者さんの手を煩わせることはないでしょう、と人々は言うのです。

 しかし主イエスは、これに対して不思議な態度を取られます。すでに娘は死んでいるにもかかわらず、主イエスはヤイロの家に行かれます。私たちは主イエスがどなたか知っており、ああここから奇跡が起こるのだと思います。しかし、ヤイロやヤイロの周りにいる人たちは、いくら主イエスがこれまで多くの病の人を奇跡的に癒されたとしても、まさか死んでしまった人間をどうにかできるなどとは思いません。そう思うのは普通のことです。

 「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉も不思議です。ヤイロたちはこのとき、恐れてはいないのです。娘が生きているときであれば、娘が死んでしまうのではないかということを恐れていたでしょう。もう、恐れるもなにも、すべてが終わってしまったのです。ゲームオーバーなのです。ここで何を信じろというのでしょうか。

 主イエスは会堂長の家に着いて、人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」とおっしゃいます。人々はイエスをあざ笑ったとありますが、人々の態度はけっしておかしなものではないでしょう。実際、少女は息を引き取ったのです。それは間違いのないことでした。それを眠っているだけだなどという主イエスに対して、何を言っているのだ?!という思いになるのは当たり前です。大事な家族が息を引き取って悲しんでいる人々のところへ、変な宗教家が入り込んできて、「死んだのではない、眠っているのだ」などと言ったら、普通怒って追い出すでしょう。しかし、ヤイロはそうはしなかったのです。娘を失ったショックもあって、ただただ主イエスのなさることにおろおろと従っていただけかもしれません。しかし、彼の耳には「恐れることはない。ただ信じなさい。」という言葉が響いたのです。その意味はわかりませんでしたけれど、主イエスの恐れることはない、という謎のような言葉を確かに聞き、信じる者としてついていったのです。主イエスに従った、ということが、ヤイロの信仰なのです。信じるとは、主イエスに従うことであり、主イエスの業を見るということです。

主イエスは人々を外に出し、子供の両親とペトロとヨハネとヤコブの三人の弟子だけを連れて子供のいる部屋に入っていきました。主イエスの圧倒的な権威ある態度です。ちなみにペトロとヨハネとヤコブの三人はこののち、山の上で主イエスのお姿が変わられるとき、そしてまた十字架の前にゲツセマネで祈られるときも、主イエスと共にいます。多くの弟子の中から特別に使徒として十二名が選ばれ、その中でもさらにペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は特別に召されたと言えます。弟子たちに上下関係があったわけではありませんが、主イエスが神から来られたことを示す特別な時に、この三人は目撃者としてそばにいることを命じられたのです。そこで主イエスがお示しになることがきわめて特別なことゆえ、神の神秘に深く関わることゆえ、限られた者だけに示されたのです。

 さて、これらの者たちの前で、子供の手を取って「タリタ、クム」と主イエスはおっしゃいます。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」という意味であると書かれています。「タリタ、クム」は主イエスの時代、ユダヤの人々が使っていたアラム語です。ヘブライ語に近い言葉ですが、主イエスの時代には歴史的変遷の中、旧約の時代のヘブライ語ではなくアラム語が使われていたのです。新約聖書は当時、ローマ帝国の支配していた地域で広く使われていたコイネーギリシャ語という言葉で書かれていますが、何か所か、主イエスがお語りになったアラム語そのものが記されている箇所があります。その一つがこの「タリタ・クム」です。決定的な神の業と、その言葉そのものの簡潔な音の響きがあいまって、あえてアラム語のまま、ここには記されているのでしょう。

 実際のところ、「タリタ・クム」起きなさいという言葉で死んだ人が目を覚ましてくれたらどんなにいかと思います。仮死状態であったならば別ですが、たしかに息を引き取った人が「起きなさい」という言葉で目を覚ますことは、この世界においてはありません。私たちはともすれば、まあイエス様だから何でもできるよねとあっさり読んでしまうかもしれません。イエス様すごいねと。逆に、いや科学の進んでいない当時、やはり仮死状態のようなものであったのではないかと考えたりするかもしれません。

 仮に本当に死んでいた人間が生き返ったとして、それは神の御業としてそれ自体が決定的なことでしょうか。もちろん愛する人が目を覚ます、それは親しかった者たちにとっては決定的なことです。しかし、考えてみますと、たしかに少女は目を覚ましましたが不死になったわけではありません。これからこの少女が健やかに過ごしたとしても、何十年か後にはやはり死ぬのです。死の病から回復することはたしかに素晴らしいことですが、人間はどこまで行っても肉体の死から解放されることはありません。その死の時が数十年延びたことが決定的な神の業でしょうか。

 主イエスは起き上がり歩き出した少女に食べ物を与えなさいとおっしゃいます。これは少女が肉体的に健やかであり、ごく普通に生活できる存在として目を覚ましたことをあらわしています。しかし、また同時に、あっさりした内容でもあります。死者が目を覚ましたということが劇的には描かれていないのです。食事をする、ごく当たり前のこととして描かれています。マタイによる福音書によれば、主イエスが復活の時、弟子たちにかけられた言葉が「おはよう」でした。またルカによる福音書によれば、復活の主イエスは焼き魚をお食べになったという記事もあります。復活、死からの蘇りというとき、主イエスは何か特別な荘厳なことをおっしゃったりなさったりするのではありませんでした。

 しかしながら、矛盾するようなことを申しますが、やはりこの場面では決定的なことが語られているのです。主イエスは死を打ち破られるお方であることが語られています。人間が、まことの命、永遠の命に生きるものへと変えてくださるお方なのだと語るのです。私たちには肉体の死がやってきます。しかしまた私たちも聞くのです。「タリタ、クム」という言葉を。この地上での命を終えて、しばらくの眠りの後に「タリタ、クム」という言葉を聞くのです。そして永遠の命をいただいて起きるのです。この少女のよみがえりは、私たちもまたよみがえることのさきぶれ、保障として私たちに語られています。またキリストの復活のさきぶれとして語られています。もちろん神である主イエスは、肉体の死にも勝利されるお方です。しかし、聖書は肉体の死に勝利する以上のことがあると語るのです。それはぼんやりとした「天国で会いましょう」という希望ではなく、「タリタ、クム」と明確に私たちを起こす声を聞くということです。永遠の命とは神と共に生きる命です。その永遠の命に比べれば、この地上において寿命が数年、数十年延びることは小さなことです。しかしその小さなことを聖書は語ります。私たちに永遠の命の扉が開かれていることのしるしとして語るのです。

 そしてまた「タリタ、クム」という言葉は、終わりの日のよみがえりのときに先立ち、今この時、私たちは聞くのです。私たちは起きているようで起きていないのです。毎日睡眠時間を削るほど、忙しく生きていても、逆に肉体に痛みや不調があったり、悩みがあって、眠りたくてもぐっすりと眠れないとしても、キリストの「タリタ、クム」という言葉を聞かなければ霊的に眠っているのです。

 今日の場面で主イエスに従って部屋に入ってきたペトロ、ヤコブ、ヨハネは主イエスが十字架におかかりになる前、ゲツセマネで祈られているとき、そばで眠っていました。主イエスがその命をかけた祈りの戦いをなさっているとき、霊的に眠っていたのです。彼らはその耳で今日の聖書個所の場面で「タリタ、クム」という言葉を聞きました。でも、その声を霊的には聞いていなかったのです。まだその霊的な命は生きていなかったのです。

 私たちも起こされなければなりません。「タリタ、クム」という言葉を聖霊によって聞かねばなりません。いや実際、私たちはすでに聞いているし、聞き取れる者とされているのです。耳をふさいではならないのです。「タリタ、クム」神の真実の前で目を覚ましなさいと主イエスは語られているのです。神の真実とは何でしょうか。それはキリストと共にある時、恐れることはなにもない、ということです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」大阪東教会の創立者であるヘール宣教師の息子であり、やはり宣教師として神に仕えていたジョンは若くして天に召されました。その後も、その奥様であるハリエットさんは日本に残って宣教の業に励まれました。第二次世界大戦の荒波の中、多くの米国人宣教師がアメリカに引き上げていくときも、そのハリエット夫人はご自身の病もあり、なお日本に残られました。彼女の耳には聞こえていたのでしょう。「タリタ、クム」という言葉が。そして恐れることなくキリストを信じ、自身の肉体の命が尽きるまで日本に残られました。私たちの日々にも恐るべきことは多くあります。たしかに恐ろしいことが私たちに降りかかってくるのです。しかしなお恐れることはない、とキリストはおっしゃるのです。死の陰の谷を歩まねばいけない時ですら、私たちは恐れることはないのです。死に打ち勝ったお方がおられます。目を覚まして歩みましょう。