2018年2月18日 大阪東教会主日礼拝説教 「わたしたちの使命」吉浦玲子
<おわりにさしかかった手紙>
今日の聖書箇所は、新共同訳聖書には「パウロの使命」と表題がついています。「使命」という言葉は良く聞く言葉です。<与えられた役目>とか<使者としての役割>などの意味です。役目・役割と言ってもそれは重要な内容であるニュアンスがあります。そしてまたそれは外から与えられるニュアンスがあります。自分勝手にこれは自分の使命だというのではなく、使命として与えられたという感覚があります。その表題のように、この箇所はパウロ自身が自分の使命を振り返って語っています。他のパウロの手紙では、宛先となった教会の状況や、パウロへの反対者や批判者を念頭において、かなり強い口調で、自身の立場を弁明するように自分自身の使徒としての正当性や、キリストの伝道者としての召しを語っているところがあります。しかし、このローマの信徒への手紙では、それほど強い弁明的な書かれ方はしていません。
この手紙のあて先であるローマの教会は、そもそもパウロ自身がこれまで直接関わってきたところではありませんでした。教会の中に、何人か、知り合いはいるようですが、ローマの教会自体はパウロやパウロの同労者が設立したり牧会している教会ではありませんでした。今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙の1章と合わせて読むとき内容が良く分かります。そもそもパウロ自身に、ローマ訪問の希望があったのです。今日の聖書箇所の後にもローマ訪問についてふたたび触れられていますが、この手紙が書かれた当時、彼はローマ帝国の支配している地域のなかの東の方で宣教活動を行っていました。将来的には西側でも宣教を行いたいというのがパウロの願いでした。そのためにはやがてローマに行き、さらにはイスパニアにも行きたい、そういう願いがあったようです。その願いのうちに、まだ見ぬローマの人々に宛てて書かれたのがこの手紙です。手紙全体が、まだ見ぬローマの人々への挨拶であるともいえます。
ところが、本日の聖書箇所の15節に「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」とパウロは語っています。たしかにこの手紙には、挨拶以上のものが書かれています。かなり「思い切った」神学的な事項が書かれています。ローマの人々はいきなり面識のない人物からこの手紙を受け取ってびっくりしたのではないでしょうか。自分たちの先生でもない、なにか関係のある人でもない人物から、「いつかそちらを訪問したいと願っています」といった当たり障りのない挨拶だけでなら良いのですが、キリスト教の神学の根本を記した手紙がいきなり送りつけられてきたのですから。受け取った方は、いったい何事かと思ったことでしょう。ローマの信徒への手紙で、のちのち読む者からしたら神学的な本文と言える部分は、先週の箇所でほぼ終了したといえます。ローマの人々は面食らったかもしれませんが、その箇所が、のちの偉大な神学者たちへ多大な影響を与えました。そういう意味においては、今日共にお読みします箇所からは、ほとんどあとがきに近いものとなっています。しかし、本来のパウロの手紙の趣旨からしますと、むしろ重要なところでもあります。
ここまで書いてきて、手紙の終盤にさしかかり、パウロ自身、手紙を受け取る人々の困惑と懸念とを改めて少し感じたのかもしれません。それで「思い切ったことを書きました」とパウロは言い添えているのかもしれません。
<信頼のみなもと>
今日の聖書箇所では、「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」と語っています。この最初の「兄弟たち」という言葉は原語では「<わたしの>兄弟たち」となっています。ある方が調べたところによりますと、ローマの信徒への手紙では、「兄弟たち」という言葉は何度も出てくるのですが、「わたしの兄弟たち」と語られているのはここを含めて二箇所だけなのだそうです。つまりそれだけパウロは、親しみを込めて丁寧にこの場所で語りかけているということです。もちろん面識のない相手です。しかし、パウロは親しみを込めて丁寧に呼びかけ、さらに「このわたしは確信しています」とまで言うのです。なにを確信しているかというと「あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができる」ということをです。これはまだ見ぬ相手に対するおべっかや持ちあげて言っている言葉ではありません。面識はないけれど、パウロは、キリストにあって、ローマの教会の人々を信頼していたのです。その信頼のゆえに「ところどころ思い切ったことを書いた」のだと言っているのです。相手への信頼がなければ、大伝道者のパウロであろうと、思い切ったことは書けないし、言えないのです。ローマの教会の人々は、互いに戒め合うことのできる共同体であるから、つまり相互に悪いところは指摘し合え、指摘されたら素直に悔い改めることのできる人々の集まりであるから、思い切ったことが言えるのだとパウロは語っているのです。
ひょっとしたら、その信頼感は、ローマの教会にいる何人かの知り合いから漏れ聞いた教会の様子からパウロは得たのかもしれません。しかし、伝え聞いた噂程度で「確信しています」とまでは言えないはずです。パウロを確信させたものは、ローマの教会の人々が主にあって結ばれた人々であるという事実からなのです。面識もないまだ見たことのない人々であっても、そこにたしかに教会があり、主に結ばれた共同体がある、もちろん人間の集まりである以上、たとえばコリントの教会のような現実的な揉め事や問題はあったかもしれません。しかしなお、コリントであれローマであれ、そこにキリストに結ばれた人々がいる、ただそのことにおいて、パウロは信頼し、確信して語っているのです。
その信頼のゆえに、そして他の書簡のようなややこしい背景が比較的ないゆえに、今日の聖書の箇所の後半に記されている自分の使命に関しても弁明的な表現ではなく、自然な口調で語られています。しかし、そこで語られていることも、実は「思い切った」ことになっています。パウロは自分自身が「神の福音のために祭司の役を務めている」と語っています。そもそも祭司というのは、神と民の間に立って、執り成しをする役割を担っています。神への執り成しのために、供え物を捧げるのも祭司の役割です。パウロは祭司として、こともあろうに異邦人を供え物として捧げるのだと大胆に語っています。パウロはユダヤ人であり、手紙のあて先はローマの人々、つまり基本的には異邦人です。その異邦人であるローマの人々に対してわたしは異邦人を神への供え物とする役割を務めているという言い方は、かなり思い切った発言です。下手をすると、ユダヤ人と異邦人の間の溝を背景に批判が出る恐れもある言い方です。しかし、パウロは誤解を恐れずに語りました。理解してもらえると信じていたからです。
ユダヤ人と異邦人と出自は異なっていながら、共にキリストに結ばれた者同士である、そしてそのまなざしは共にキリストに向けられている、その確信のなかでパウロは語っていました。それぞれのまなざしがキリストに向かっているのではなく、人間としてのパウロであったり、この世的な人の集まりとしての集団であれば、「なんだあいつは偉そうなことをいって」とか「ユダヤ人のように聖書を深く知らない人たちには信頼して語れない」ということになります。しかし、共に、キリストに結ばれ、見ている先はキリストなのだという信頼のゆえにパウロは語ります。
<ほんとうの伝道>
供え物という表現は、ローマの信徒への手紙の12章にある「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とつながるものです。キリストの十字架と復活によって救われ、キリストのものとされたわたしたちは、わたしたち自身を神に供え物としてささげます。それこそがまことの礼拝だとパウロは語っていました。その供え物をささげる祭司の役を自分は担っているのだとパウロは語っています。それは形式的な儀式的な意味でパウロは語っているのではありません。パウロ自身が担っている宣教そのものを語っています。
これは今日においても通じることです。わたしたちはともすれば、宣教、伝道というとき、教会という組織や、求道者への宣伝というところにどうしても目が向きます。しかし、まことの宣教、伝道というのは、人々を神へと捧げるものなのだとパウロは語っています。
これは今日の最初のところで、パウロがローマの人々への信頼について語っているところともつながります。わたしたちは教会の中にあっても、外に向かう宣教においても、ともすれば人間ばかり見ているのです。神を見る、神へ捧げるという方向性をどうしても見失ってしまいます。
ある方は、それはそもそも私たちが、自分たちの必要ばかりを求めているからだとおっしゃいます。わたしたちは、礼拝の姿勢においても、宣教の姿勢においても、神の方を向くのではなく、自分たちの必要をどうしても求めてしまうのです。そしてそれは自分の必要を満たす神を求めてしまう心から来るのです。
もちろん神は、祈りに応えて、私たちの必要を満たしてくださる神です。しかし、なにより大事なことは、まずわたしたちが神から必要とされた、求められた存在であるということです。
わたしたちは罪人でした。神から離れて生きていました。そもそも神など求めていませんでした。私自身を振り返っても自分の御利益は求めていました。自分が少しでもしんどい思いをせずに生きていけることを求めていました。なんとなく心が平安になれて、清らかな思いになれたらいいなとは願っていました。でも根本のところで、神を求めてはいませんでした。
そんな人間を求めてくださったのは神の方でした。まさに飼い主のいない羊のように、混沌とした不安な日々の中でおろおろと生きていた、いや場合によってはそんな自分の憐れな現実を知ることなく、むしろ自信を持って生きていた私たちを、神は求め、見つけてくださいました。パウロ自身もキリスト者の迫害者でありながら、神に見いだされ救い出された人間でした。その喜びの内にパウロは自分自身の使命に自分をささげました。その使命は、異邦人を神に捧げることでした。パウロが自分の手柄として信仰者を得ていくのではありません。純粋に神に向かう行為として宣教はなされたのです。
<私たちも使命に生きる>
ところで、少し話はずれますが、マタイ、マルコ、ルカ福音書はたがいに似た記述の多い福音書で、この三つを合わせて共観福音書と言うことがあります。共に観る福音書と書きます。その共観福音書には、キリストの十字架と復活の出来事のあと、弟子たちがキリストの証人として派遣されたことが記されています。キリストの大宣教命令として有名です。一方、ヨハネによる福音書は共観福音書とはかなり趣が異なる福音書であり、十字架と復活ののち、共観福音書のような弟子たちの派遣の記事はありません。しかし、ヨハネによる福音書の最後の章には主イエスとペトロの会話が記されています。主イエスが逮捕された時、主イエスのことを三回も知らないと言ったペトロに対して、主イエスは三回「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃいます。自分を裏切り逃げ、自分のことを知らないと答えた弟子のペトロを責めることなく、「わたしの羊を飼いなさい」と主イエスは新たな使命をペトロに与えられました。
共観福音書とは書かれ方が異なりますが、復活のキリストと出会った者は、イエス・キリストの証人として遣わされていくことはヨハネによる福音書においても同様なのです。大牧者であるキリストの羊を飼うこと、まだキリストの元に来ていない羊を探しだし、キリストの恵みの囲いの中に招き入れること、それが復活のキリストと出会い、救われた者の使命なのです。
キリストの証人となる、それは専任の牧師や伝道者になること、あるいは特別な伝道的な活動をすることだけを意味しません。すでにキリストを信じ、信仰を告白し、その恵みの内に生かされているものは、それぞれのあり方で、その日々のなかで、キリストの証人として生かされていきます。その生き方こそが自分を神への供え物として生きる生き方でもあります。そしてまたその生き方を通じて、だれかを神へと捧げる役割をになっていきます。
それはことさらにだれかを神様を信じるように説得するのではありません。共に神の方を向いて生きるということです。お互いの顔ばかり見るのではありません。共にキリストの方を向くのです。しかし、ひょっとしたら私たちはそれぞれに孤独かもしれません。孤独な日々があるかもしれません。しかし、それでも私たちが自分の孤独にだけ目を向けるのではなく、自分の思いだけにとどまることなく、キリストを仰ぐとき、私たちには使命が与えられます。新しい使命がかならず与えられます。神と隣人へ愛を注ぎだす使命が与えられます。