大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙15章14~21節

2018-03-05 16:50:02 | ローマの信徒への手紙

 2018年2月18日 大阪東教会主日礼拝説教 「わたしたちの使命」吉浦玲子

<おわりにさしかかった手紙>

 今日の聖書箇所は、新共同訳聖書には「パウロの使命」と表題がついています。「使命」という言葉は良く聞く言葉です。<与えられた役目>とか<使者としての役割>などの意味です。役目・役割と言ってもそれは重要な内容であるニュアンスがあります。そしてまたそれは外から与えられるニュアンスがあります。自分勝手にこれは自分の使命だというのではなく、使命として与えられたという感覚があります。その表題のように、この箇所はパウロ自身が自分の使命を振り返って語っています。他のパウロの手紙では、宛先となった教会の状況や、パウロへの反対者や批判者を念頭において、かなり強い口調で、自身の立場を弁明するように自分自身の使徒としての正当性や、キリストの伝道者としての召しを語っているところがあります。しかし、このローマの信徒への手紙では、それほど強い弁明的な書かれ方はしていません。

 この手紙のあて先であるローマの教会は、そもそもパウロ自身がこれまで直接関わってきたところではありませんでした。教会の中に、何人か、知り合いはいるようですが、ローマの教会自体はパウロやパウロの同労者が設立したり牧会している教会ではありませんでした。今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙の1章と合わせて読むとき内容が良く分かります。そもそもパウロ自身に、ローマ訪問の希望があったのです。今日の聖書箇所の後にもローマ訪問についてふたたび触れられていますが、この手紙が書かれた当時、彼はローマ帝国の支配している地域のなかの東の方で宣教活動を行っていました。将来的には西側でも宣教を行いたいというのがパウロの願いでした。そのためにはやがてローマに行き、さらにはイスパニアにも行きたい、そういう願いがあったようです。その願いのうちに、まだ見ぬローマの人々に宛てて書かれたのがこの手紙です。手紙全体が、まだ見ぬローマの人々への挨拶であるともいえます。

 ところが、本日の聖書箇所の15節に「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」とパウロは語っています。たしかにこの手紙には、挨拶以上のものが書かれています。かなり「思い切った」神学的な事項が書かれています。ローマの人々はいきなり面識のない人物からこの手紙を受け取ってびっくりしたのではないでしょうか。自分たちの先生でもない、なにか関係のある人でもない人物から、「いつかそちらを訪問したいと願っています」といった当たり障りのない挨拶だけでなら良いのですが、キリスト教の神学の根本を記した手紙がいきなり送りつけられてきたのですから。受け取った方は、いったい何事かと思ったことでしょう。ローマの信徒への手紙で、のちのち読む者からしたら神学的な本文と言える部分は、先週の箇所でほぼ終了したといえます。ローマの人々は面食らったかもしれませんが、その箇所が、のちの偉大な神学者たちへ多大な影響を与えました。そういう意味においては、今日共にお読みします箇所からは、ほとんどあとがきに近いものとなっています。しかし、本来のパウロの手紙の趣旨からしますと、むしろ重要なところでもあります。

 ここまで書いてきて、手紙の終盤にさしかかり、パウロ自身、手紙を受け取る人々の困惑と懸念とを改めて少し感じたのかもしれません。それで「思い切ったことを書きました」とパウロは言い添えているのかもしれません。

<信頼のみなもと>

 今日の聖書箇所では、「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」と語っています。この最初の「兄弟たち」という言葉は原語では「<わたしの>兄弟たち」となっています。ある方が調べたところによりますと、ローマの信徒への手紙では、「兄弟たち」という言葉は何度も出てくるのですが、「わたしの兄弟たち」と語られているのはここを含めて二箇所だけなのだそうです。つまりそれだけパウロは、親しみを込めて丁寧にこの場所で語りかけているということです。もちろん面識のない相手です。しかし、パウロは親しみを込めて丁寧に呼びかけ、さらに「このわたしは確信しています」とまで言うのです。なにを確信しているかというと「あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができる」ということをです。これはまだ見ぬ相手に対するおべっかや持ちあげて言っている言葉ではありません。面識はないけれど、パウロは、キリストにあって、ローマの教会の人々を信頼していたのです。その信頼のゆえに「ところどころ思い切ったことを書いた」のだと言っているのです。相手への信頼がなければ、大伝道者のパウロであろうと、思い切ったことは書けないし、言えないのです。ローマの教会の人々は、互いに戒め合うことのできる共同体であるから、つまり相互に悪いところは指摘し合え、指摘されたら素直に悔い改めることのできる人々の集まりであるから、思い切ったことが言えるのだとパウロは語っているのです。

 ひょっとしたら、その信頼感は、ローマの教会にいる何人かの知り合いから漏れ聞いた教会の様子からパウロは得たのかもしれません。しかし、伝え聞いた噂程度で「確信しています」とまでは言えないはずです。パウロを確信させたものは、ローマの教会の人々が主にあって結ばれた人々であるという事実からなのです。面識もないまだ見たことのない人々であっても、そこにたしかに教会があり、主に結ばれた共同体がある、もちろん人間の集まりである以上、たとえばコリントの教会のような現実的な揉め事や問題はあったかもしれません。しかしなお、コリントであれローマであれ、そこにキリストに結ばれた人々がいる、ただそのことにおいて、パウロは信頼し、確信して語っているのです。

 その信頼のゆえに、そして他の書簡のようなややこしい背景が比較的ないゆえに、今日の聖書の箇所の後半に記されている自分の使命に関しても弁明的な表現ではなく、自然な口調で語られています。しかし、そこで語られていることも、実は「思い切った」ことになっています。パウロは自分自身が「神の福音のために祭司の役を務めている」と語っています。そもそも祭司というのは、神と民の間に立って、執り成しをする役割を担っています。神への執り成しのために、供え物を捧げるのも祭司の役割です。パウロは祭司として、こともあろうに異邦人を供え物として捧げるのだと大胆に語っています。パウロはユダヤ人であり、手紙のあて先はローマの人々、つまり基本的には異邦人です。その異邦人であるローマの人々に対してわたしは異邦人を神への供え物とする役割を務めているという言い方は、かなり思い切った発言です。下手をすると、ユダヤ人と異邦人の間の溝を背景に批判が出る恐れもある言い方です。しかし、パウロは誤解を恐れずに語りました。理解してもらえると信じていたからです。

 ユダヤ人と異邦人と出自は異なっていながら、共にキリストに結ばれた者同士である、そしてそのまなざしは共にキリストに向けられている、その確信のなかでパウロは語っていました。それぞれのまなざしがキリストに向かっているのではなく、人間としてのパウロであったり、この世的な人の集まりとしての集団であれば、「なんだあいつは偉そうなことをいって」とか「ユダヤ人のように聖書を深く知らない人たちには信頼して語れない」ということになります。しかし、共に、キリストに結ばれ、見ている先はキリストなのだという信頼のゆえにパウロは語ります。

<ほんとうの伝道>

 供え物という表現は、ローマの信徒への手紙の12章にある「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とつながるものです。キリストの十字架と復活によって救われ、キリストのものとされたわたしたちは、わたしたち自身を神に供え物としてささげます。それこそがまことの礼拝だとパウロは語っていました。その供え物をささげる祭司の役を自分は担っているのだとパウロは語っています。それは形式的な儀式的な意味でパウロは語っているのではありません。パウロ自身が担っている宣教そのものを語っています。

 これは今日においても通じることです。わたしたちはともすれば、宣教、伝道というとき、教会という組織や、求道者への宣伝というところにどうしても目が向きます。しかし、まことの宣教、伝道というのは、人々を神へと捧げるものなのだとパウロは語っています。

 これは今日の最初のところで、パウロがローマの人々への信頼について語っているところともつながります。わたしたちは教会の中にあっても、外に向かう宣教においても、ともすれば人間ばかり見ているのです。神を見る、神へ捧げるという方向性をどうしても見失ってしまいます。

 ある方は、それはそもそも私たちが、自分たちの必要ばかりを求めているからだとおっしゃいます。わたしたちは、礼拝の姿勢においても、宣教の姿勢においても、神の方を向くのではなく、自分たちの必要をどうしても求めてしまうのです。そしてそれは自分の必要を満たす神を求めてしまう心から来るのです。

 もちろん神は、祈りに応えて、私たちの必要を満たしてくださる神です。しかし、なにより大事なことは、まずわたしたちが神から必要とされた、求められた存在であるということです。

 わたしたちは罪人でした。神から離れて生きていました。そもそも神など求めていませんでした。私自身を振り返っても自分の御利益は求めていました。自分が少しでもしんどい思いをせずに生きていけることを求めていました。なんとなく心が平安になれて、清らかな思いになれたらいいなとは願っていました。でも根本のところで、神を求めてはいませんでした。

 そんな人間を求めてくださったのは神の方でした。まさに飼い主のいない羊のように、混沌とした不安な日々の中でおろおろと生きていた、いや場合によってはそんな自分の憐れな現実を知ることなく、むしろ自信を持って生きていた私たちを、神は求め、見つけてくださいました。パウロ自身もキリスト者の迫害者でありながら、神に見いだされ救い出された人間でした。その喜びの内にパウロは自分自身の使命に自分をささげました。その使命は、異邦人を神に捧げることでした。パウロが自分の手柄として信仰者を得ていくのではありません。純粋に神に向かう行為として宣教はなされたのです。

<私たちも使命に生きる> 

 ところで、少し話はずれますが、マタイ、マルコ、ルカ福音書はたがいに似た記述の多い福音書で、この三つを合わせて共観福音書と言うことがあります。共に観る福音書と書きます。その共観福音書には、キリストの十字架と復活の出来事のあと、弟子たちがキリストの証人として派遣されたことが記されています。キリストの大宣教命令として有名です。一方、ヨハネによる福音書は共観福音書とはかなり趣が異なる福音書であり、十字架と復活ののち、共観福音書のような弟子たちの派遣の記事はありません。しかし、ヨハネによる福音書の最後の章には主イエスとペトロの会話が記されています。主イエスが逮捕された時、主イエスのことを三回も知らないと言ったペトロに対して、主イエスは三回「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃいます。自分を裏切り逃げ、自分のことを知らないと答えた弟子のペトロを責めることなく、「わたしの羊を飼いなさい」と主イエスは新たな使命をペトロに与えられました。

 共観福音書とは書かれ方が異なりますが、復活のキリストと出会った者は、イエス・キリストの証人として遣わされていくことはヨハネによる福音書においても同様なのです。大牧者であるキリストの羊を飼うこと、まだキリストの元に来ていない羊を探しだし、キリストの恵みの囲いの中に招き入れること、それが復活のキリストと出会い、救われた者の使命なのです。

 キリストの証人となる、それは専任の牧師や伝道者になること、あるいは特別な伝道的な活動をすることだけを意味しません。すでにキリストを信じ、信仰を告白し、その恵みの内に生かされているものは、それぞれのあり方で、その日々のなかで、キリストの証人として生かされていきます。その生き方こそが自分を神への供え物として生きる生き方でもあります。そしてまたその生き方を通じて、だれかを神へと捧げる役割をになっていきます。

 それはことさらにだれかを神様を信じるように説得するのではありません。共に神の方を向いて生きるということです。お互いの顔ばかり見るのではありません。共にキリストの方を向くのです。しかし、ひょっとしたら私たちはそれぞれに孤独かもしれません。孤独な日々があるかもしれません。しかし、それでも私たちが自分の孤独にだけ目を向けるのではなく、自分の思いだけにとどまることなく、キリストを仰ぐとき、私たちには使命が与えられます。新しい使命がかならず与えられます。神と隣人へ愛を注ぎだす使命が与えられます。


ローマの信徒への手紙15章1~13節

2018-03-05 16:48:28 | ローマの信徒への手紙

2018年2月11日 大阪東教会主日礼拝説教 「共に喜ぶ」吉浦玲子

<同じ思い、同じ心は可能か>

 今日の聖書箇所6節でパウロは「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」と語っています。<互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて>神の前にある共同体としてのあり方がここには記されています。<同じ思い>、<心を合わせる>、<声をそろえる>、、、これはなかなか難しいことです。人間の集まりがあってその集まりにおいて同じ思いで心を合わせて声をそろえるということは簡単ではありません。パウロは神の前にある共同体に対してこう語っているのですが、神の前にある共同体であっても、同じ思いで心を合わせてということは現実的にはたいへん難しいことであることを私たちは知っています。

 世間ではオリンピックが始まりました。オリンピックなどの大きなスポーツ大会の良いところは、基本的には、皆で応援ができるというところです。皆で応援をするというときの「皆」の範囲が広がります。国内のスポーツ大会であれば、それぞれにひいきのチームや選手がいて、それぞれに応援をしますが、国際大会ともなると、だいたい自分の国の選手を皆で応援することになります。もちろん日本にもいろんな民族の方が住んでおられ、みんながみんな日本人の選手だけを応援するということではありません。そしてまた競技ごとに応援したい選手はあるかと思います。けれど、大きな国際大会であれば、勝利すれば共に喜び、負ければ共に残念に思うときの連帯感が一般的に増します。

 そんなオリンピック選手の活躍に対しては同じ思いで心を合わせて応援はできても、神の前にある共同体として、そして神の前の共同体であっても、<同じ思い>で<心を合わせて><声をそろえる>というのはなかなか難しいことです。モーセによって率いられた出エジプトの民は、繰り返し神の奇跡を目の前に見ていたにもかかわらず、いくたびも分裂し、問題を起こしました。かつての紀元前のイスラエル王国最大の王ダビデのもとにありながらも、いくたびも人々は争いました。

<担う信仰>

 パウロは今日の聖書箇所冒頭で「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」と語り始めます。<強い者><強くない者>という言い方には、抵抗を感じられる方もあるかと思います。これは原語の意味から言いますと「出来る者」「出来ない者」という言葉になるそうです。なにが出来るのか?それは神を信頼することが出来るということです。神を信じきることができる、神を信じ切る人が出来る人であり、強い人だとパウロは考えているのです。つまり、パウロは「自分たちのように神を信じきることのできる信仰の強い者は、まだそこまで神を信じきることのできない信仰の弱い人の弱さを担うべきだ」と語っているのです。

 この強い、強くないという言葉は、一般的に使われるときのニュアンスとはだいぶ違うものです。強いとか出来る、という言葉には能力の高さ、スキルの高さが通常ではイメージされます。しかし、むしろ自分の能力やスキルに頼っている人は弱い人出来ない人なのだということになるのです。このパウロの感覚は信仰者としてたいへん大事なことです。神の共同体において、この感覚が往々にして欠如することがあるからです。この世的な能力やスキルによって、神の共同体での強い強くない、出来る出来ないが判断される場合が往往にあるのです。この世的な出来る出来ない、強い強くない、の尺度が神の共同体においても用いられる時、その共同体は、<神の前の共同体>しての力を決定的に失います。この世的な強さにおいて強いことを大事にする共同体は、一見、ひとときは順風満帆にみえるときもあるかもしれません。しかし、この世の流れと共に、そしてこの世の共同体より早く朽ち果てていく存在となります。

 しかしまた逆に、パウロの言葉どおりに強い強くない、が、神への信頼の強さにおいて判断されたとしても、問題は起こります。たとえば、パウロの言うところの神への信頼の<強い>人、神への信仰が<出来る>人が、神への信頼が<弱く>、何でも自分の能力に頼って行おうとする人に対して「あなたは信仰が弱い」と批判するようなことも起こります。これは先立ちます14章などでもパウロが警告していた内容でもあります。

 強い人が弱い人を批判するのではなく、神を信頼し、神への信仰が強い人は、むしろ弱い人を担って行くべきだとパウロは語ります。自分の信仰が強いと考え、弱い人を担わないならば、それは信仰がそこでとどまることになります。そこで信仰がとどまるならば、それは自己満足の信仰だというのです。弱い人を担うことのない信仰は、自分の満足を求める信仰だとパウロは考えています。「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」とパウロは続けます。この「向上」という言葉は「建て上げる」というニュアンスがあります。ここで「隣人を喜ばせ」というのは、親切にするとか、気遣いをする、配慮をするというだけではありません。単に自分の好みを押し殺して、他者に仕えて他者を喜ばせるということだけではありません。互いに建て上げられていく存在として交わるということです。

 それは健全な人間関係を想像してみるとき、ある程度、理解できることではないでしょうか?たとえば子供を喜ばせたいと親が思ったとしても、子供の成長にとって良くないことは親は通常はしないと思います。もちろん、甘やかしすぎな親もいないわけではないですが。十分かどうかは親それぞれとしても、基本的には親は子供が心身ともに健やかに成長するように、つまり建て上げられていくように子供を担って行くものではないでしょうか。またそのことを通じて親自身も成長していくのではないでしょうか。

<忍耐の源>

 私たちは神にある共同体にあって、そのように隣人を担いながら生きていくのだとパウロは語っています。しかし共同体の中には、さまざまな人がいます。年齢も出自も趣味も考えも異なる人々がいます。かわいい子供や、自分の気の合う人なら担うことはそれほどむずかしくはないかもしれません。しかし現実には、そうでない場合も多くあります。ですから、そこには「忍耐」が必要となります。「キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした。」とパウロは語ります。キリストは、弟子たちを、そしてまた私たち一人一人を愛して愛し抜かれ、忍耐に忍耐を重ねられ、十字架の死まで歩んでいかれました。私たち一人一人を建て上げてくださるために、ご自分の満足を求めることなく、私たちを担ってくださいました。

 私たちは思うのです。キリストはたしかに忍耐してくださった。私たちの弱さとどうしようもないところを忍耐してくださいました。水曜日から受難節が始まりますが、キリストの御受難を覚える時、私たちはほんとうに感謝であると思うのです。しかし、一方で、私たちはキリストではありません。弱い人間です。ですから、キリストのようには忍耐することができない、とも考えます。もちろんその通りです。私たちはキリストのように忍耐することはできません。どうしても自分の満足を求めてしまうものです。

 この世界で、そして日々にさまざまなことがあります。ですから、どうにかほっとしたい、平安を得たい、そう思います。もちろん、隣人と担いあうことも大事だといわれるともっともなことだと思います。しかし、担いなさい、忍耐しなさいとばかり言われると、しんどくもなるのです。

 たしかにそうなのです。忍耐はしんどいのです。私たちは忍耐の源が自分の中にあると思っていたら、とても疲れてしまうのです。自分の力では、到底、忍耐などできないのです。本来、人間は、自分の満足を求めずに隣人の満足を求めては生きていけないのです。仮にひとときはできたとしても結局は燃え尽きてしまうのです。パウロは4節で「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」と語っています。そしてまた「忍耐と慰めの源である神」とも語っています。旧約聖書の時代から、長い長い時代を貫いて神は忍耐の神でありました。アブラハムの時代から繰り返し反逆する民に忍耐に忍耐を重ね、担ってくださいました。ただ担ってくださっただけではありません。慰めをも与えてくださいました。

<慰めの源なる神>

 神は自らの罪のために傷つき、力尽きそうな人間に慰めを与えてくださいました。この慰めという言葉は、日本語でのニュアンスとは違いまして、本来、強い言葉です。英語でコンフォートと言いますが、これは「力を与える」という意味があります。人間は神の慰めによって深いところから力を与えられるのです。神は力尽きて倒れた人間を担われるだけではありません。力を与え、みずから立ちあがらせてくださる神です。旧約聖書のイザヤ書の40章には「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」とあります。これはまさに慰め主である主イエス・キリスト到来の預言の言葉でした。「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ」イザヤの言葉は神への罪のゆえに国が亡び闇の中にいた人々へと響きます。まさに聖書に語られている忍耐と慰めの源である神からの希望の言葉です。人間の闇の中に輝いた慰めの言葉であり、倒れていた人間を立ち上がらせる言葉でした。その希望の言葉はキリスト到来において成就しました。キリストは倒れていた者を立ちあがらせる慰め主でした。

主イエスはそのご生涯において多くの奇跡をなされました。多くの人々を力づけ立ち上がらせてくださいました。たとえばマルコによる福音書5章に会堂長ヤイロの娘が癒される話が記されています。福音書によるとこの娘は主イエスが会堂長の家についた時すでに死んでいたとあります。しかし、主イエスはかまわずに会堂長の家の中に入っていきます。それを見た人々は主イエスの行動を馬鹿げたことと思ってあざ笑います。しかし、主イエスは少女の手を取っておっしゃるのです。「タリタ、クム」。これは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」という意味のアラム語です。主イエスの時代、イスラエルの人々は旧約聖書時代のヘブライ語ではなくヘブライ語によく似た原語であるアラム語をしゃべっていたのではないかという説が有力です。実際、聖書の中には、イエス様ご自身の言葉としてアラム語が記されている箇所が何か所かあります。その一つがこの「少女よ起きなさい」の「タリタ、クム」という言葉です。「タリタ・クム」、まさに主イエスのその言葉で、少女はすぐに起き上がります。主イエスはただ娘を亡くして嘆いていた人々を言葉で慰められただけではありません。少女の手をとって「タリタ、クム」そういって立ち上がらせてくださったのです。ヨハネによる福音書5章ではベトサダの池のほとりで38年間病の中にいた人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と主イエスはおっしゃったという記事があります。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した」とあります。

それらは単なる大昔の奇跡物語ではありません。旧約聖書から新約聖書全体を貫く神の人間への忍耐と慰めの現実を現す出来事でした。「タリタ、クム」という主イエスの言葉は今日においても、倒れている人を立ち上がらせるのです。力尽きてうずくまる人をふたたびその足で歩ませてくださいます。「タリタ、クム」「起き上がりなさい」主イエスの言葉は、弱い慰めではなく力ある言葉として、いえ力そのものとして、私たちを立ちあがらせてくださいます。

私たちは罪に死んでいました。しかし、十字架と復活の主から「タリタ、クム」という言葉を与えられ起こしていただきました。命の中へと起こしていただきました。忍耐と慰めの源である神に私たちは力を与えられ立ち上がらせていただきました。まさに「タリタ、クム」という主イエスの言葉によって立たせていただいた私たちであるゆえに「同じ思い」をいだかせていただき、「心を合わせ」「声をそろえて」互いを担い合うことができます。本来は忍耐などはできない私たちが「タリタ、クム」という主イエスの言葉によってたちあがらせていただいたゆえに互いに担い合うことができます。

7節以降、パウロは再びユダヤ人と異邦人について語ります。当時、もっとも互いに担い合えない存在であったユダヤ人と異邦人、その双方にパウロは語りかけます。キリストはユダヤ人としてお生まれになりました。ユダヤ人に仕えられました。しかしまた同時に異邦人の希望の源でもありました。「エッサイの根から芽から現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。(イザヤ11:10)」<エッサイの根より>という美しいクリスマスの讃美歌がありますが、キリストはユダヤ人にも異邦人にも希望の源となってくださいました。切り倒されて死んだかのようだったエッサイの切り株の根から主イエスご自身がこの世界に命をもって来られました。そして「タリタ、クム」と私たち立ちにおっしゃいました。このキリストの言葉のゆえに、力のゆえに、私たちは立ち上がり、互いに担い合います。そのとき、単なる情感的な共感や熱狂ではなく、まことに神の前にあって私たちは一つの心となります。


ローマの信徒への手紙14章13~23節

2018-03-05 16:43:22 | ローマの信徒への手紙

2018年2月4日 大阪東教会主日礼拝説教 「確信に基づく」吉浦玲子(当日、長老による代読)

<不自由な人への愛の配慮>

 何回かお話ししたことですが、クリスチャン以外の方から、時々「クリスチャンって偉いですねー」と言われることがあります。まだ会社に勤めていた頃、贅沢だったのですが、どうしても奉仕の関係で教会に行くのにタクシーで行かなくてはならなくなって、行ったことがあります。もちろん普段は電車で行っていたのですが、どうしても時間に間に合わずタクシーに乗ったのです。タクシーの運転手さんが、行き先が教会であるので、「毎週、教会に行かれてるんですか、えらいですねー」とおっしゃいました。運転手さんは、別に客商売だから、特別におべっかを使われたという感じではなく、熱心に教会ではどのようなことをするのかとお聞きになりました。そして「いやあ、毎週、教会に行かれるなんて、ほんとうに偉いですねー」と繰り返されるのです。「わたしには、とてもとてもそんなことはできませんわー」とおっしゃるのです。「いえ別にむずかしいことをしているわけではないですよ」と申し上げても「いやあ教会の方は皆さん、えらいですねー」と言われるのです。似たような体験は時々します。その根底には、宗教というのは戒律があって、宗教を信じて生きている人はまじめにその戒律を守っている人という感覚があるようです。つまり、自分の自由を放棄して戒律にしたがって生きている「偉い人」、「普通の人にはできないことをしてる人」という感じがあるようです。そういう方に、キリスト教は愛と自由が基本なんだと言ってもなかなか理解していただけません。

 すぐる週、食べ物のこと、あるいは、特別な日のことで、教会の中に分裂がおきていたことを共にお読みしました。それに対してパウロは、神学的に言えば、何でも食べていいし、特別な日を重んじることは不要なことだという考えを持っていました。食べ物や特別な日のことを気にするのは「信仰が弱い人」だと教会の中で言われていたことを、ある意味、パウロ自身もうべなっていました。いわゆる「信仰の弱い人」は肉を食べてはいけないという不自由に生きていた人だといえます。「信仰の強い人」は何でも食べていいという自由を得ていた人だといえます。

 しかし、ほんとうに問題なのは、食べ物のことにこだわる人、あるいは特別な日にこだわる人を「信仰が弱い」と見下し、馬鹿にすることだとパウロは語っていました。「わたしは信仰が強い」「あなたは信仰が弱い」と互いに裁きあうことをパウロは厳しく諌めています。今日の聖書箇所でも「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」と語りかけます。もちろん、パウロは信仰において「なんでもあり」と考えていたわけではありません。異端的な考えや、本質的な誤りについては厳しく指摘しました。

それにしても肉を食べる食べないといったことで教会内が揉めるなどということは今日的には馬鹿げたことに思えます。しかし、すぐる週にも考えましたように、私たちは往々にして肉を食べる食べないレベルのことで揉めるのです。揉め事の根っこにあるのはだいたい肉を食べる食べないレベルのことなのです。一方で肉を食べる食べないのレベルではないこと、たとえば信仰告白のこと、聖礼典にかかわること、礼拝や教会組織の本質的なあり方についてなどの問題については、どうでもいいことでは断じてありません。

パウロはそのようなことを総括して、信仰者としては生まれたばかりの<赤ん坊>の人も、信仰的に<大人>でいわゆる自分たちで「信仰が強い」と言っている人も、共に、キリストの血と肉によって「主のもの」とされていることを覚えるべきだと語っていました。

 「主のもの」とされている者には、まず大事なことがある、そう今日の聖書箇所でパウロは語ります。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心をしなさい。」とパウロは語ります。ここで「決心しなさい」とパウロは語っています。つまり、情感的に皆で仲良くしましょう、相手を傷つけないようにしましょうとパウロは語っているのではないのです。信仰的な判断に基づいて、神の前で決心をするのだというのです。信仰において、キリストの十字架によって、ほんとうの自由を得たはずの者が、実際はまだ不自由なところに囚われている人を糾弾するのではなく、愛の配慮をもって向かい合うべきだとパウロは言うのです。それには信仰の上での決心がいるのだと語っています。その決心こそが愛の実践なのだと語っています。

 実際、「何を食べても良い」という自由をキリスト者はすでに得ています。しかし、食べてはいけないと感じる人のために、その自由をいったん放棄することをパウロは選ぶのだと語っています。「信仰が弱い人」が肉を食べている人を見て心を痛めるならば、その人の前で肉を食べるべきではないとパウロは語ります。それはいってみれば「愛のゆえの決心」をするのです。パウロ自身、コリントの信徒への手紙では、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と語っています。マタイによる福音書で主イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出てく来るものが人を汚すのである。」とおっしゃっています。旧約聖書において、清い清くないというのは大問題でした。細かい食物規定がありました。しかし、主イエスがすべてを新しくされたのち、神の前で清いもの清くないものはなくなったのです。むしろ、わたしたちの口から出る言葉、お前は信仰が弱いとか、分かっていないと言った裁きの言葉こそ、汚れたものなのです。その「口から出てくるもの」こそが人を汚すのだと主イエスは語っておられます。

<聖霊によって与えられる義と平和と喜び>

 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とパウロは語ります。「肉を食べていいんだ」と肉を食べる人が、肉を食べない人に忠告して、肉を食べない人が、心素直に理解できて受け入れることができるのであれば、問題はありません。しかし、頭では理解できても、やはり、どこかそこにわだかまりがあり、なんとなくつらい思いをして肉を食べるのであれば、その人にとっては、悪いことになります。その人にとって肉を食べないことが神に仕えるやり方だからです。もちろん、本来、清いものも汚れたものもありません。しかし、その人が心の中で、やはり汚れていると感じているのなら、その人にとっては汚れているのです。その人にとって汚れたものを無理やりに食べさせる時、その人にとっては、神から引き離される行為を行うことになります。つまり罪を犯すことになるのです。その人の信仰の確信をひっくり返すことになるからです。肉を食べることによって、その人は結局、罪を犯すのです。そして肉を食べる人がそこに導いたのであれば、肉を食べる人は肉を食べない人を罪へ誘ったことになります。

<罪に誘う行為>

 人を罪へ誘うという時、あからさまに背徳的な行為やみだらな行いへ誘うのではなく、むしろそれぞれの信仰の確信のズレがあり、無理やりに信仰の強い人が信仰の弱い相手を自分の考えに引っ張るとき、それが罪へと誘う行為になるのです。実際、こうした方が良い、こうすべきだ、逆にこうやってはいけない、ということは教会の中にも、日々の生活のなかでたくさんあります。

 私自身、受洗して間もないころ、クリスチャンなら、こうやるべきと、逆にこうやってはいけないと、いろいろと思いこんで自分でしんどい思いをしていたときもありました。しかし、そういったことが、ひとつずつ、やがて腑に落ちて来る時があります。これはこうした方が良い、これはしない方が良い、それは自分の信仰の確信に基づいていることが分かってきます。聖霊の働きによって分からせていただくのです。

 逆に、こうした方がいいんだけど、ちょっと嫌だなあということを無理に行うことはむしろそれは罪なのです。また人に対してそれを押し付ける時やはり罪になります。

 先週も申し上げましたように、仏教式の葬儀で焼香をあげるべきかあげないでおくのか、ハロウィンをどう考えるのか、それはそれぞれの確信に基づいて行えば良いことです。ハロウィンはどうでもいいのだと言って、ハロウィンは悪魔崇拝と考える人を無理やりハロウィンパーティに連れて行く必要はないのです。その人にとってはハロウィンは間違いなく悪魔崇拝で、その人を神から自分を引き離すものだからです。

 大事なことは「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」なのです。これはローマの信徒への手紙の前半で語られてきたことの総括でもあります。私たちは聖霊によって、キリストの十字架の意味を知らされます。キリストのゆえに自分がすでに義、正しいものとされていることを知らされています。神との平和を与えられ、喜びに満たされています。

 私たちは自分たちが肉を食べるとか食べないではなく、ハロウィンを祝う祝わないということでなく、ただキリストのゆえに義と平和をあたえられているところに立つのです。すでに神によって、そしてキリストの血によって、義と平和を与えられている者が、食べる食べないというところやハロウィンがどうこうというところで、つまり、<人間の側の行い>によって裁きあうことのないようにとパウロは語っています。そのような愚かなことで、私たちはふたたび「不自由な者」とされることはあってはならないのです。

 それはキリストの十字架の血と肉をないがしろにすることです。キリストの十字架の血と肉の出来事を、聖霊によって悟らされていく時、私たちはまことを平和を与えられます。愛に生きることを得させて頂きます。愛に生きることを決心して生きていく時、私たちと隣人、そして共同体の中にまことの平和が与えられます。