大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第4章26~41章

2022-05-11 14:33:58 | マルコによる福音書

2022年4月10日大阪東教会主日礼拝説教「さあ、収穫の時」吉浦玲子

【聖書】

 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

【説教】

 本日は棕櫚の主日です。主イエスがエルサレムに入られたとき、群衆が熱狂したことを福音書は語ります。ヨハネによる福音書には、人々は棕櫚-新共同訳ではなつめやしと訳されていますが―の枝を振って迎えたとあり、そこから棕櫚の主日といわれるようになりました。今日、講壇の脇にも教会の庭から手折ってきた棕櫚の枝を置いております。この棕櫚の枝を振るというのは、紀元前164年の歴史的な出来事からきているそうです。紀元前164年、当時、異教徒に支配されていたイスラエルにおいて、マカベヤのユダという人が戦いに勝利し、エルサレム神殿を奪還したのです。それまでエルサレム神殿にはギリシャの神ゼウスの像が置かれていたそうなのですが、この紀元前164年、ようやく神殿を取り戻すことができたことを喜び祝って人々は神殿奉献記念祭を行いました。その祝いの祭りの時に人々は棕櫚の枝を振りました。つまり棕櫚の枝を振るというのは、イスラエルが民族的独立を果たすということと強く結びついたことだと言えます。人々は主イエスが、マカベヤのユダのようにイスラエルをローマから解放してくださる人だと期待してエルサレムに迎えたと言えます。

 そのようにエルサレムに迎えられたのち、主イエスは、不思議な言葉を語られました。これも有名な言葉です。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これは主イエスの十字架を示された言葉でした。ただおひとりの神イエス・キリストが十字架で死なれる、そのために多くの者が実を結んだ、永遠の命を得たということをあらわす言葉です。

 この「一粒の麦が死ななければ」という有名な言葉について、皆さんは不思議に思われませんでしょうか。麦を土に落ちることは麦が死ぬことでしょうか。現代の日本人は普通そのようにとらえないと思います。その麦が芽を出すのであればその麦は死んではいないと考えるのが普通でしょう。理科の時間に種子の発芽ということを学びます。種が芽を出すこと自体はなんら不思議なことではありません。しかし、聖書の時代の人々は、土に種を蒔くことは、種が死ぬことだと感じていたそうなのです。それは種の上に土をかぶせたり、土に埋めたりすることが埋葬に似ていたことからきているとも言われます。そして死んだと思われていた種から芽が出るということは当時の人々にとっては、大変な不思議だったのです。それは人間を超えた神の業と考えられていました。

 今日の聖書個所にも種を蒔く話が出てきます。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」とありますが、死んだはずの種が芽を出す、どうしてそのようなことが起こるのか知らないというのは当時としてたいへんわかりやすいたとえ話でした。しかもその芽は成長していくのです。茎、穂、そして実が実り、収穫となるというのです。

 このたとえ話を、すべては神様のなさること、神様に任せておけばうまくいく、神にゆだねましょうという風に理解しようとしますと、少し無理があります。実際のところ、人間は、種を蒔くだけではなく、雑草をとったり、肥料を与えたり、害虫がつかないように気を配ったり、台風が近づいてきたら植木鉢を移動させたり、風除けを準備したりします。そのように手をかけても、虫にやられたり、うまく生育しなかったりします。2018年の台風の時の教会の中庭のミモザの木のように倒れてしまうこともあります。私たちの日々のさまざまなことにおいても同様です。どれほど手をかけ、心をかけてやってきたことでも、うまくいかないことはごく普通にあります。ようやくもうすぐ花が咲く、実を結ぶ、成功するだろうというときに、思いもかけない妨害にあうこともあります。七転び八起きなどと簡単に言いますが、七回も転んだら、たいてい嫌になります。それをまだ神の時が来ていないだとか、このことは神の御心ではなかったのだと納得しつつ歩んでいくのは、なかなかにしんどいことです。

 そもそも、成長する種というのは何を意味するのでしょうか?これは神の国のことです。マルコによる福音書における主イエスの宣教の開始の言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」にあるように、神の国は近づいているのです。しかも神の国は今はまだ遠くにあって少しずつ近づいてきているというのではなく、すでにこの現実の世界に、突入してきていると言っていいように近くにあるのです。そしてなお、その神の国は成長しているのです。

 現代を生きる私たちにはとてもそのようには思えません。ウクライナのこと、新型コロナ感染症のこと、さらに特に日本においては、もともと自然災害が多いことに加えてさらに最近は全国で地震が頻発していること、そういうことを考えますと、この世界には恐怖と不安にみちみちているとしか感じられません。神の国どころから悪魔の国、闇の勢力が支配力を増しているように思えるくらいです。しかし、これは、今日の聖書個所の前のともし火のたとえ話にも通じることですが、神の業が「隠されている」ことによります。神のともし火は燃えていても、時が来るまで、それは人間の目から隠されているのです。しかし、たしかに神の国は成長し、神のともし火は燃えているのです。

 これは単なる楽観主義ではありません。神の国はかつてエルサレムに入られる主イエスを「ホサナ」と棕櫚の枝を振って歓迎した群衆が考えるようにはやってこなかったように、現代の私たちにも私たちが考える形ではやってこないということです。しかしまた、たしかに蒔かれて死んだ種が、すでに新しい命として芽吹いているということです。

 さらに次の「からし種」のたとえ話でも同様に、とても小さな種が「どんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」ように成長することが語られています。からし種は実際、ごまよりももっと小さな種です。それがとても大きく育ち、鳥たちが巣を作れるような枝を張るように成長するというのです。

 そもそも成長というと私たちは夢を見るのです。子供たちが成長するように背が伸び、知恵がついていくようなイメージです。あるいは右肩上がりに経済が成長して、収入が増え、暮らしが豊かになっていく、昨日より今日、今日より明日と進歩していく。そこに私たちは社会の希望を見ていたかもしれません。高度経済成長期に生まれた私はかつてのその空気の中で育ってきたといえます。でも今、私たちは知っています。ひょっとしたら未来においてふたたび高度経済成長が起こるかもしれないし、バブルが来るかもしれない、しかし、そこに希望の本質はないことを知っています。ごく当たり前のことながら、子供の成長が無限に続くわけではありません。身長も伸びなくなるし、歳月がたてば、子供だった人間も今度は老いていきます。心身が衰えていきます。そして誰もが等しくやがて死を迎えます。社会も人間も右肩上がりの時ばかりではないのです。そのように目に見える状況には希望の本質がないことを私たちはこの世界で生きながら、否応なく知らされます。

 しかし聖書は見えない成長を語ります。神が成長させてくださる希望を語っています。そこに人間の目に見える右肩上がりはありません。しかし、たしかにそこに神による成長があるのです。キリストが死んでくださった。私たちもまた、洗礼において、キリストと共にひとたび死にました。私たちひとりひとりも、土に落ちた麦です。死んだ麦なのです。そしてまたキリストの復活にもあずかり、今、新しい命を生かされています。ひとたび死んだ麦であれば、キリストにあって、成長していくのです。その成長は背が伸びるとか、賢くなるとか、収入が増えるとか、人格が円満になるということではありません。神の国への希望が増し加えられるということです。心にある未来への不安が希望に変えられるということです。永遠の命の確信が増し加えられるということです。

 そして繰り返し言っていることですが、それは単なる気持ちの持ち方の問題ではありません。現実は暗澹としていても、希望を持ちましょうということではありません。目には見えないけれども、信仰において、すでにあるたしかな希望を見ましょうということです。気休めや現実逃避ではなく、今ここにある神の現実を見ましょうということです。

 自分を誇ったり、逆に自分の足りなさ、ふがいなさを嘆くとき、神の現実は見えません。自分にばかり目が行っているからです。私たちはたしかに現実生活において、土を耕し、水をまき、肥料を与えて生きていきます。がんばっていても巨大な嵐や地震にも見舞われます。私たちは日々たしかに労苦をします。その労苦だけを見ているとき、神の現実は見えません。視点を神のほうへ、キリストへと移すのです。そのとき新しい現実が見えてきます。カメラのフォーカスを合わせるように、神へと、十字架で死なれたキリストへと目を向けます。そこに愛があります。まっすぐに自分へとむけられている愛があります。バケツでそこにいる誰彼に水をかけるような愛ではありません。一人一人に違うやり方で、一人一人に特別に与えられる愛があります。私のために死んでくださったキリストの愛があります。その愛ゆえ、私たちは生きていきます。肉体の死の間際であっても、なおその愛はたしかに私たちへとむけられています。私たちは自分に向けられているキリストの愛を知るとき、はっきりわかるのです。ここがすでに神の国であること、そしてその神の国がとてつもなく成長していることを知ります。今も神の業がみちみちていることを知ります。神の業が満ち満ちているからこそ、私たちが人生において労苦する働きも何ひとつ、土に落ちて死ぬことはないのです。私たちの働きが大きかろうが小さかろうが、神が成長させてくださるのです。