娘が赤ちゃんのときは、まん丸でほんとにかわいらしかった。

一番下の娘はアメリカ、ロスアンゼルスで生まれた。
妊娠がわかったときから、不安いっぱいの出産だった。
日本からはもう母も父の体調が思わしくなくなっていたので来てもらうこともできず、向こうの日本人向けの新聞(羅府新報)に家事手伝いの広告を出して、一週間ばかりお手伝いの人を頼み昼と夜を作ってもらった。
今名古屋に住んでいるIさんも、そのときの友だちで、私のお腹の大きいときから親切にしてもらった。
病院は自宅から15分くらいのガーフィールドにあった病院で、日本人のK大医学部卒のS先生に取り上げてもらった。
長男次男の日本での出産のときは、主人は仕事で忙しく、一人。今度のときは上の子二人を
主人がみなければならなかったのでまた一人での出産だった。
淋しさもあって、出産時は、痛い痛いと騒いだから、S先生にうるさがられて、「もうわかったから」といわれた。
でも生まれた子が3970グラムあったので、「すごいね、もうすぐ4キロだ」と誉められた。
アメリカの出産は楽だといわれるが、確かに一番楽でした。入院も2日くらいで、
後産が楽でした。おろが続かないよう、何かできれいにしてしまうせいだと思う。
でも退院のときは、車椅子で車のところまで送ってきてくれた。主人にちぐはぐな服を着せられた2歳2ヶ月の次男が私の顔を見たとたん泣いたのが印象的に残る。
5歳の長男は、赤ちゃんをみたとたん、「そうか」といって納得したのと対照的だった。
看護婦さんが私の子どもがまだ小さいので、「あなたも忙しくなるわね」といった。
産むまでは気が重かった、出産であったが、待望の女の子であったYはふんわりしていてかわいらしく、泣いていてもうるさく感じなかった。
私の宝物であった彼女もきょうで二十歳だ。

一番下の娘はアメリカ、ロスアンゼルスで生まれた。
妊娠がわかったときから、不安いっぱいの出産だった。
日本からはもう母も父の体調が思わしくなくなっていたので来てもらうこともできず、向こうの日本人向けの新聞(羅府新報)に家事手伝いの広告を出して、一週間ばかりお手伝いの人を頼み昼と夜を作ってもらった。
今名古屋に住んでいるIさんも、そのときの友だちで、私のお腹の大きいときから親切にしてもらった。
病院は自宅から15分くらいのガーフィールドにあった病院で、日本人のK大医学部卒のS先生に取り上げてもらった。
長男次男の日本での出産のときは、主人は仕事で忙しく、一人。今度のときは上の子二人を
主人がみなければならなかったのでまた一人での出産だった。
淋しさもあって、出産時は、痛い痛いと騒いだから、S先生にうるさがられて、「もうわかったから」といわれた。

でも生まれた子が3970グラムあったので、「すごいね、もうすぐ4キロだ」と誉められた。
アメリカの出産は楽だといわれるが、確かに一番楽でした。入院も2日くらいで、
後産が楽でした。おろが続かないよう、何かできれいにしてしまうせいだと思う。
でも退院のときは、車椅子で車のところまで送ってきてくれた。主人にちぐはぐな服を着せられた2歳2ヶ月の次男が私の顔を見たとたん泣いたのが印象的に残る。
5歳の長男は、赤ちゃんをみたとたん、「そうか」といって納得したのと対照的だった。
看護婦さんが私の子どもがまだ小さいので、「あなたも忙しくなるわね」といった。
産むまでは気が重かった、出産であったが、待望の女の子であったYはふんわりしていてかわいらしく、泣いていてもうるさく感じなかった。
私の宝物であった彼女もきょうで二十歳だ。
