福岡の看板屋 独り言(看板.・カワムラ)TEL092-935-7058

皆様に生かして頂いてる看板屋としての呟きです。内容は独り言なので、万が一気分を害された方が居られましたら何卒ご容赦。

大切な家族

2018年10月18日 | Weblog


2011年3月21日の過去記事

あれから7年以上経つんだなぁ~

面白い話を期待している方達に申し訳ないと思いつつ 秋の思索っちゅうことで

次は面白い事書きますのでご容赦の程を・・・


まず・・・・

被災で亡くなられた方々に哀悼の念を送ると共に、ご遺族の方々の再起を

心から願っております。


余りに重すぎる事態なので ブログ更新できずに居ました。

惨状をテレビを通して知り、何か出来ることはないかと

古着を集めていたら、返ってゴミになり 迷惑がかかるとの事、とりあえず

自分達に出来る事、節電や僅かばかりの義援金で応援しております。


被災の2日前 我が母が大手術をしました。

ひょっとしたら 駄目かも知れぬと 私は術前の母には絶対に見せては

ならぬ醜態を晒してしまうのでありました。

 

ひょんな言葉が琴線にふれ 我慢していた感情を抑えきれず 


子供のように泣きじゃくる不詳の息子(私)・・・

 

「母さん・・・せめて せめて 最低 百歳迄 生きてくれよ!」

と涙を流しながら 改めて私はこの人から生まれて来たのだと再認識し

感極まってしまったのです。

 

母を喜ばそうと覚えた寿司も もう食べさせることができない・・・

昔、病弱だった母、私が幼少の頃から、「長生き出来ないかもしれない」

とずっと怯えて生きて来たので いよいよ この時が来たのかと腹を括ろうと

したのですが 人の親に成ったとはいえ 今でも「父さん!母さん!」と

いつまでも 息子で居たい私の心は少年に帰っていたのかも知れません。

母はなんとか手術が成功し 家族一同手を取り合って喜びました。

 

思い起こせば十数年前  私の結婚式直前一週間前に可愛い盛り 

2歳の姪が不慮の事故で死んでしまいました。

お地蔵様の様に冷たく変わり果てた亡骸を抱きしめ 

 私の体温で生き返らないかと何時間も私の頬を彼女(姪)の頬に

押し当てていたのを思い出しました・・・あの時の寂しくて辛い気持ちは

トラウマになって中々癒える事ができませんでした。

 

当たり前に一緒に居るはずの肉親が突然居なくなる時、人は生涯の中でも

 最高の悲しみを知るのかも知れません。

 

被災され、当たり前に居るはずの家族を亡くされた方々の気持ちを

思うとき、かける言葉が見つからない・・・

 

唯、私なりに信じている事があります。悲しさは癒えないかも知れませんが

姪が亡くなって時が過ぎ・・・家族の中にも新しい命が芽生え成長して

我が息子も娘も姪もワンちゃんも 昔から居た様な顔をして

当たり前の様に生活しています。

そして、今までの景色が変わったなと実感した時・・・

我が娘、姪達が近所の子供達と花見をしていました。

ケラケラと桜色に彩られた公園に響く幸せそうな笑い声・・・

「小学生が花見か・・・」と微笑ましく眺めていて ふと思ったのですが

ひょっとしたら、この光景は十数年前、ご近所で亡くなった叔母さん達、祖母が

生まれ変わって、亡くなった姪と一緒に花見をしてくれているのかも

知れない・・・・

嗚呼、絶対にそうだ!と そう思った時 突然、感動の涙が止まらず悲しみの

呪縛から解き離れるのでした。


亡くなった肉親と再会する日は必ず来るから 負けないで頑張ってほしい・・・

帰ってくる魂の居場所が幸せで明るい場所であってほしい・・・

だから 「希望を捨てずに」と 心より願っております。

 

PS コスタリカに居るはずの自慢の後輩が突然ウチに来ました。

  「川村さん!」顔は赤く日焼けして 白い歯をニッとむき出し

  懐かしい笑顔で立っていました。

  「晋!」

  彼も父の病で急遽、帰国したみたいです。

  今はコスタリカの大使館に勤めているとの事・・・

  幕末好きの私は、やんちゃな高校生の彼に「平成の高杉晋作に成れ!」

  と冗談っぽく言っておりましたが 「軍隊を持たない国を見てくる」と志高く

  洋航行きを決めたのでありました。(彼の家は長州藩出身)

  立派になった彼を見て、少し気持ちが明るくなりました。