あれ?何故アップしてなかったんだろうこの記事・・・
8年前に書いたやつだな・・・・
ご近所や 知人から 竹の子やフキ等の山菜を頂く季節になった。
最近 野菜が高騰していて 肉中心の食生活に成りがち
だったので 普段より余計おいしく春の収穫を戴いたのだ。
もちろん くださった方、料理してくれた妻に
感謝の気持ちを込め手を合わせ、頭を垂れ「頂きます」と
やるわけだが これから食われようと
している山菜に感謝の気持ちを込めただろうかと
疑問になったので 反抗期の息子に、ふと尋ねてみた。
私:「おい 今 誰に対して 頂きますって言った?」
息子:「くれた人と、母さんと父さん!」
棒読みのセリフ ふてくされつつ 答える息子・・・
もう一歩 もう一言 質問すると 文句が返ってくるのを
承知しつつ 爆弾の導火線に ライターで「ほれっ!」と
着火するように、スリルを味わいながらも
私:「正解だが 肝心な物に対する感謝が抜けてるな」
息子:「何ね 野菜にもねっ!?」
私:「そうだ!言わんとする事は分かるな?」
(おおっ セーフ!身命に聞いとるやんけ・・・)
ここで、文句等言おう物なら 寺内貫太郎一家みたいに
大騒動になる。
うちの場合は 開口一番私が
「防具つけて 表へ出よ・・・」と呟くのだ
「太刀合いが良いか 組み手にするか そちが選べ・・・」
小学校低学年の内はのってきたのだが
最近は相手にもしてくれない成長したのだなぁ・・・
と嬉しいやら寂しいやら・・・
最近は私の苦手である 球技「サッカー」に没頭していて
主導権を握られつつあるのだ。(西洋カブレめっ!)
最近、当たり前のように 頂いている動物性たんぱく
食肉類は私の祖父の時代では 正月にしか食べられなかった・・・
況や 子沢山の大所帯。祖父母の口には 当然入ることなく
超贅沢な食材だったのだ。
父達にも満足に行き渡らなかったと聞く。
それが 畜産業、 流通業の栄えによる今日では
誰もが口にできて当然の当たり前の食材となったのだ。
私が3つの頃 食卓に豚肉のステーキが並んだとき
心の底で
「なんと 贅沢で裕福な家に生まれたのだろう・・・」と
ビックリしたのを今でも覚えている。(不思議な話)
最近、特に感じることは ほんの少し
法華経に触れた経験がある私と
しては ものの見え方 感じ方が変わったように思う。
「何でも当たり前」の裕福な時代を生き
自分を生かす為に身を捧げてくれた動物(食肉)や
野菜(植物)に感謝を忘れてぱくついている
自分が恐ろしくなったのだ。私は食事の挨拶に
必ず手を合わせて
「南無妙法蓮華経(感謝致します)」と唱えている。
勿論、仕事を頂いた時や 有難く思ったときは
懇親の想いを込めて そうすることに決めている。
(これは禅宗の考え方で有名)
こんな事を書いているので 犬を散歩させている
ある、ご婦人に
「南無妙法蓮華経ってどういう意味ですかね?」と
質問された事がある。
「私ごときの解釈でよければ」と前置きし
「法華経に帰依すると云う意味ですよ」
きょとんと、するご婦人に
「端折って言うと この世に存在する人・物
全てに仏性があるので
軽んじず敬って行けって事じゃないですかね。
そうすりゃ 家庭不和はおろか 戦争なんて起こらないと
云う事ですよ。
何も 難しかぁーない 毎日 食事を作ってくれる人に
有難とうと心から感謝する檀那なら
家族愛が深まるばかりで家庭不和は起こらんでしょう。
仏法っちゅて 生活に悪い影響をあたえるなら
インチキですからね。
私は食べ物にも感謝の念をこめて唱えてますよ。」
婦人:「でも 私の知り合いは 家庭不和だけどね?」
私:「そりゃあ 意味が分からんで ただ口唱しとるだけでしょう・・・
それとも 布施とか 活動とか 教条主義に翻弄されて
家族ばぁ、ほたらかして、
餓鬼の都合に振り回されているんじゃないでしょうかね?
何が肝要なのか 判らんと 言葉や文が難しいから
ご都合主義に囚われやすいのですよ。
要らぬ暇つぶしは 長い年月をかけてカルト化しますからね。
気づいたとて 遅かったら 心が病みますよ。」
少し 意地悪な目をして ご婦人が言い返すように言った
婦人:「じゃあ 貴方は法華経の行者なの?」
プッと苦笑して間髪入れずに答えた
私:「まさかっ 私は信者ですよ!」
婦人、肩透かしを喰らったように黙り込む