「大和魂(大和心)」とは、
神代から続くわれら日本人の精神、
われら日本の心の全体像ををさしますね。
わが国の1万年つづいた縄文文化にはぐくまれた自然と共に生きる心、
すべてのものに神が宿るという神人一体の心も「大和魂(大和心)」である。
古事記に記された、「清く明き心」この心も「大和魂(大和心)」である。
聖徳太子国父の「和を以て貴しとなす」と言った「和」の心、
これも「大和魂(大和心)」の重要な要素である。
「大和魂」という言葉が
初めて出てくるのは、源氏物語の「少女」の帖においてである。
主人公の光源氏の息子の夕霧は、高位の貴族の息子が当然つくべき地位ではなく、低い地位から官位につく。
低位の貴族のように大学に行かせて勉強させることを光源氏は決断する。
大学では、唐の学問が教えられた。
唐の学問(漢才)を身につけた上で、
我が国の実情にあうように
応用できる智恵才覚を
「大和魂」という表現で表している。
「才(学問)をもととしてこそ、
大和魂の世に用ゐらるる方も
強うはべらめ。」
(学問[=漢才]を基本と
してこそ実務の才
[=大和魂=和魂]が
世間で重んじられるという
ことも確実というものでございましょう)
明治時代に欧米の技術を取り入れたが、日本古来の伝統や和を尊ぶ心、
以心伝心の心を忘れてはならないという意味で「和魂洋才」
と表現した問題意識を平安貴族はもっていたのである。
源氏物語を書いた清少納言
(966年~1025年) は、
「和魂漢才」こそ大切である
という文脈の中で
「大和魂」という言葉を使っているのである。
唐の学問に対して、日本の伝統文化、日本の心こそ大切であるという意識があったことになる。
「大和心」の初出は、
文章博士・大江匡衡(952年~1012年)と百人一首歌人であるその妻の赤染衛門の問答に見られる。
大和魂(大和心)=日本人としての歴史・伝統にはぐくまれた豊かな心 である。
われら日本の心こそ大和魂、大和心ですね。
神代から続くわれら日本人の精神、
われら日本の心の全体像ををさしますね。
わが国の1万年つづいた縄文文化にはぐくまれた自然と共に生きる心、
すべてのものに神が宿るという神人一体の心も「大和魂(大和心)」である。
古事記に記された、「清く明き心」この心も「大和魂(大和心)」である。
聖徳太子国父の「和を以て貴しとなす」と言った「和」の心、
これも「大和魂(大和心)」の重要な要素である。
「大和魂」という言葉が
初めて出てくるのは、源氏物語の「少女」の帖においてである。
主人公の光源氏の息子の夕霧は、高位の貴族の息子が当然つくべき地位ではなく、低い地位から官位につく。
低位の貴族のように大学に行かせて勉強させることを光源氏は決断する。
大学では、唐の学問が教えられた。
唐の学問(漢才)を身につけた上で、
我が国の実情にあうように
応用できる智恵才覚を
「大和魂」という表現で表している。
「才(学問)をもととしてこそ、
大和魂の世に用ゐらるる方も
強うはべらめ。」
(学問[=漢才]を基本と
してこそ実務の才
[=大和魂=和魂]が
世間で重んじられるという
ことも確実というものでございましょう)
明治時代に欧米の技術を取り入れたが、日本古来の伝統や和を尊ぶ心、
以心伝心の心を忘れてはならないという意味で「和魂洋才」
と表現した問題意識を平安貴族はもっていたのである。
源氏物語を書いた清少納言
(966年~1025年) は、
「和魂漢才」こそ大切である
という文脈の中で
「大和魂」という言葉を使っているのである。
唐の学問に対して、日本の伝統文化、日本の心こそ大切であるという意識があったことになる。
「大和心」の初出は、
文章博士・大江匡衡(952年~1012年)と百人一首歌人であるその妻の赤染衛門の問答に見られる。
大和魂(大和心)=日本人としての歴史・伝統にはぐくまれた豊かな心 である。
われら日本の心こそ大和魂、大和心ですね。