ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

吉田松陰先生の情熱の愛国心と凄い行動力で門下生を引っ張り明治維新の成功の有志を育てた

2019年07月18日 | 吉田松陰公
吉田松陰先生の情熱の愛国心素晴らしい

そして凄い行動力

門下生を引っ張り明治維新の成功の有志を育てた


松陰先生の良さは純粋さゆえの狂気と行動力です。
国の為に私心を捨てる。
人を疑わずだからこそ悪意を許せない純粋な人でした。

凄さとして
松陰先生の先見性は優れていました。
松陰先生の誠実で、強さと優しさを兼ね備えた人間性でみんなを魅了しました。

あと行動力がすごい
ペリーの黒船に乗り込んだということがかなりすごい。
われわれ同胞日本人でそこまで行動した人は誰もいない。それだけ国を愛する行動力がすごすぎる。

門下生達が明治維新を達成して
功臣となりました。
松陰門下であったことを拠り所で
明治維新をなしとげた志士たちにとって、よい兄貴分でした。

過ちがないことではなく、
過ちを改めることを重んじよ。
- 吉田松陰 -

素晴らしい名言をいくつも残していますね。

素晴らしい愛国心と同胞おもいの気持ちを見習いたいものです。

皇紀2679年

大日本史の執筆の徳川光圀公は江戸時代の我が国を救った大功労者

2019年07月15日 | 徳川光圀公
江戸時代の儒学と林家とは我が国を否定する
ひどいものだった。
それを徳川光圀公が救ったといってもいい大功績である。
徳川光圀の執筆した大日本史である。

徳川幕府は幕府の正学である
儒学を司る「林家」に命じて歴史書「本朝通鑑」を編纂させます。

これは織田・豊臣に代わって
天下を掌握した徳川幕府の
歴史的な位置づけが必要だったからです。

ですが林家の儒学は合理的な
ところがあり、
日本書紀や古事記に記された神話を
否定し、
「天皇家を批判している内容で歴史ある
旧家の一つに過ぎない、
このように説く事で徳川幕府の正当性を著しました。

孔子や儒学や林羅山は国賊で売国奴
で国外追放だ

徳川家は外国の学問を使い天皇家を否定していたのだ

それを徳川家のなかの水戸家は違った

天皇の神格性が建国以来常識の我が国に沿った徳川光圀公は、
この本朝通鑑に反発し大日本史の編纂を始めます。

光圀は幕府の正当性を林家が
否定したものを長年伝統で常識の
日本書紀などの神話
に沿った。
「神聖な天皇によって政権を委ねられた幕府の存在は正当である」と
考えたのです。

なので大日本史編纂自体は、
徳川幕府成立の正当性を歴史(神話)に求めたものなので、
徳川幕府にも影響はない。

南朝に関しては、
後醍醐天皇陛下から南北朝に
別れてから
後亀山天皇陛下が後小松天皇陛下に
「神器」を譲るまでの
57年間は
血統上は問題ないので南北両朝を認める説もありましたが、
これとは別に「天に二日なし地に二王無し」の通り、
いづれがを正統すべきと言う意見もあり光圀が「神器のあるところをもって正統」としたので、
大日本史では南朝が正統となったのです。
全国の不正摘発の旅も貢献したが、
大日本史の執筆したことにより徳川光圀公は江戸時代の我が国を救った大功労者である。

木を植える文化はスサノオノミコト様から徳仁新天皇陛下まで継承。悠仁親王殿下以降もずっと継承

2019年07月15日 | スサノオミコトさま
木を植えるという文化は、
われら日本独自のもので、
古くはスサノオのミコト様と一緒に天下ったイタケルのミコト様が
九州から東北まで植林して
まわったとされています。

そして昭和、平成、令和でも天皇陛下陛下がお手ずから植樹祭を執り行なう。
そしてわれら日本にある山々の木々は、そのほぼ全て、その一本一本の全てが、私たちの父祖によって植樹された木々なのです。

われら日本は、古い歴史と伝統をもった国です。
その日本に、私たちは産まれた。

そして私たちは、未来を生きる子供達に、この豊葦原の瑞穂の国をちゃんと残し、伝えて継承していこう。

紀貫之(きのつらゆき)醍醐天皇陛下が公式な和歌集 古今和歌集の中心責任者の和歌の達人で平安国風文化に貢献

2019年07月05日 | 紀貫之公
紀貫之(きのつらゆき)公
醍醐天皇陛下が公式な和歌集 古今和歌集の中心責任者の和歌の達人で平安国風文化に貢献

868年~945年
9世紀後半。

紀貫之は貴族の子どもとして誕生しました。

紀氏は古くから豪族の家系でしたが、この頃は藤原氏が勢力を伸ばしていたため、紀氏の勢力は衰えていました。


また、当時は遣唐使が廃止され中国の文化より

わが日本の風土や生活感情にあった国風文化が栄えていました。


そのような環境で育った紀貫之。

歌人としての才能を発揮し、
宮中で知れ渡るようになります。

二十代のころから宮中の
歌合せ会に参加。

藤原氏に指名されて歌を詠んだことも
ありました。

勅撰和歌集『古今和歌集』を編集する

905年に

醍醐天皇陛下が公式な和歌集

天皇陛下命令の和歌集
勅撰和歌集をつくることになりました。

「万葉集」以後の歌が集めて和歌集が作ろうということです。

紀貫之は醍醐天皇陛下から命令を受けると、紀友則らとともに和歌集を編集することになりました。

さらに紀貫之はその中心責任者に選ばれました。

数年後。

紀貫之と他3人で和歌集20巻を
完成させます。

約1100首をおさめた
この和歌集は『古今和歌集』
と名付けられ、天皇の命令で作られた最初の和歌集として有名です。

『古今和歌集』には素朴で詠んだ
国民の歌から、
紀貫之のような貴族の
こまやかな感情を詠んだ歌まで
載せられました。

すべて身分をのせた和歌集は世界でもありません。

紀貫之は『古今和歌集』序文も担当。

やまとうたは 人の心を種として 万の言の葉(よろずのことのは)とぞなれりける

という言葉で書き始められています。

「和歌の根本は人間の心にある」と記したこの序文は、この後、歌を詠む人々にとって大切な目標になりました。


さらに
『土佐日記』を記しました。

『古今和歌集』を作ったあとも、
紀貫之は和歌で活躍していましたが、930年。

土佐の国司に任命され、4年間土佐で過ごします。

都へ戻った紀貫之は、女性をよそおった仮名交じりの文章で『土佐日記』を書きつづりました。

『土佐日記』は、日記文学という新しい形式の文学を確立したとして高く評価されます。

紀貫之公は
和歌で古今和歌集で
平安国風文化に貢献した
我が国功労者である。

神皇正統紀の北畠親房公は武家政権も良いところは認めたうえで天皇親政政治を主張した

2019年07月05日 | 北畠親房公
神皇正統紀の北畠親房公は武家政権も良いところは認めたうえで天皇親政政治を主張した。

 14世紀南北朝時代の南朝の中心的存在であった公卿・北畠親房公
です。
『神皇正統紀』の著者で有名ですね。
親房公はきちんとした公正な批評眼を持っていました。

『神皇正統紀』は南朝方の正統性を説くべく著された歴史書であり、
しかも、後醍醐天皇陛下の後継である幼帝・後村上天皇陛下のために書かれたもです。

そうならば南朝の正統性、歴代の天皇陛下の御代のすばらしさ一色となり、
武家政権の弱点をつくものとなってもよいはずです。

 しかし、親房はまず、武家政治、武家方の良さをきちんと認めました。
とりわけ後醍醐天皇陛下が倒した鎌倉幕府の第三代執権、北条泰時を公正に評価しています。
泰時が朝廷の意思を尊重することを忘れず、また御成敗式目制定により、法による安定した治世を行ったことを
認めているのです。
そして、北条政権は泰時の「余徳」があってこそ、七代にもわたる徳宗家を維持できたと認めている。

 南朝が倒した武家政権の優れた点を
明確に評価した上で、
北畠親房公は南朝の中心人物でありながら、
天皇陛下方を冷静な目で観察することも怠りませんでした。
それは、後鳥羽上皇が泰時の父・北条義時に対して討伐の兵を挙げた承久の乱(1221年)に疑問を呈しています。
親房公は、
「頼朝以降の鎌倉幕府には取り立てて失点もなく、人民の暮らしも安定していた。天皇陛下・朝廷方は鎌倉幕府以上の徳政をしくための用意が必要だった」と述べているのです。

 さらに、後醍醐天皇陛下による建武の新政が、わずか二年半で挫折した要因も客観的に分析しています。
新政に貢献した人々も含め、恩賞や人事に関する不公平や不公正を顧みなかった、
そのような天皇政治に対する不満が要因である。
親房は『神皇正統紀』に記しました。つまり、南朝側の不手際の記録さえ書き残し、後の世の教訓としたのです。

 対立者の優れた点は公正に評価し、自身が身を置く側に対しても改めるべきところは、冷静に観察、分析した上ではっきりと指摘していた。

神皇正統紀の北畠親房公は
国民のために考えていた
素晴らしい愛国功労者だったのだ。