ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

土派手の尾張藩主徳川宗春は徳川吉宗将軍の同時期

2019年07月05日 | 徳川宗春
その大名の名は尾張藩主・

徳川宗春(とくがわむねはる)。

宗春は初めて藩主として
領国である尾張名古屋に入る(お国入り)の時の服装からぶブッ飛んでいました。


質素倹約の将軍徳川吉宗のときに

派手なファッションはダメ、芝居や遊郭もダメ、祭りもダメ、ぜいたくな食事もダメ「ぜいたくは敵!」。

それに対して
「質素倹約とか、たわけたことやっとったらいかんがね!」


宗春の信条は、

「政治で大事なのは締め付けじゃなくて愛と勤労と遊び開放」

『温知政要』を、必死な思いで質素倹約に耐えていた将軍・吉宗にも贈呈した。


「ぜいたく禁止」により制限されていた芝居の興行を奨励。

年に1回だった芝居興行を年に100回に爆増させました。

禁止されていた藩士の芝居見物も解禁。

さらに、「風紀が乱れる」として認められていなかった遊郭の営業を公認。

結果、名古屋には3つの遊郭ができました。

さらに、「倹約のため派手な娯楽は控えろ」と幕府が命じていたにもかかわらず、盆踊りなどのお祭りを盛大にやりました。

ある盆踊りに至ってはなんと1カ月半も盆踊りが続けられた。

土派手徳川宗春は幕府の将軍吉宗に怒られて制限されますが、徳川宗春はおもしろい異色の殿様ですね。

おもしろい。

国歌君が代の歌詞のさざれ石の巌となりて

2019年07月02日 | 国歌君が代
国歌君が代の歌詞

君が代の歌詞を続けてみていくと、
「さざれ石の巌となりて」という文章になっています。

これは小さなさざれ石が長年をかけて巌という大きな石になるまでの長い長い年月を示す
ものとして引き合いにされているのです。

小さな石が大きくなることはあります。
といいますのは
本岐阜県春日村にある
さざれ石の成分は
炭酸カルシウムや水酸化鉄によるもので、
これら小さな石と石の間にこのような成分がはさまってくること
により石どうしがつながりやが
て大きなものになっていくことができるとされます。

学術的には「石灰質角礫岩」
という名称です。
石灰石が雨水によって成分を溶け出すことにより、粘着力のある乳状液が表面に流れでてゆくことで周辺の小石をつなぐ役割をするということが化学的にも実証されています。

こうしてできあがった
「巌となったさざれ石」は
われら日本全国各地に存在しており、
いずれも神聖な力によって
出来上がったものとして神社などにまつられています。

代表的なものとしては
三重県二見浦の夫婦岩、
京都の勧修寺、
同じく賀茂御祖神社があります。

日本一の大きさを持ったさざれ石とされているのが、
京都上京区にある護王神社のものです。
表面に苔もついていることからまさに君が代の世界観を感じさせてくれるたたずまいとなっています。


なお岐阜県の君が代のもととなったさざれ石は、揖斐川町にあるさざれ石公園におかれています。

日本七高山である伊吹山のふもとに位置しており、しめ縄をつけた状態で置かれています。

一目見て「君が代だ」と思ってしまうほどその様子は勇ましく、ついつい拝んでしまいたくなるほどの様子をしている石であるので、一度実際に目にしてみることをおすすめします。

石を見ると、君が代に歌われていることの意味をより一層強く感じることができるようになるかもしれません。

さすが深い意味合いのわれら祖国日本です。

国歌「君が代」は古今和歌集にのっている

2019年07月02日 | 清少納言
われわれ国歌「君が代」は

平安時代、文徳天皇陛下からの皇子
惟喬〈これたか)親王
に仕える藤原朝臣石位左衛門公の
春日村のさざれ石を見て
詠んだ歌が「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の一首でした。

この歌は、「古今和歌集」にのることになりました。
石位左衛門は余り身分の高い人ではありませんでしたので、
「詠み人知らず」として発表された後に、この歌によって位を腸わりました。

石に関連があるので石位左衛門と改名したのです。

石位左衛門が没したのは天徳元年(一○○四年)ですが、
春日村には藤原姓は百戸以上あり、
現在も子孫の方は健在です。

国歌になった君が代ですから大貢献です。

最高日本書物「古事記」は稗田阿礼(ひえだのあれ)という語り部を太安万侶(おおのやすまろ)が言葉を書き記し編纂した

2019年07月02日 | 古事記
古事記の成立については、

天武天皇陛下の勅令である。

稗田阿礼(ひえだのあれ)と太安万侶(おおのやすまろ)
の2人の人物が編纂の中心である。

完成は元明天皇陛下の頃である。

「古事記」は
稗田阿礼(ひえだのあれ)という語り部を
太安万侶(おおのやすまろ)が言葉を書き記し編纂した。

二人を詳しく紐解きましょう。

太安万侶は奈良時代の元明天皇の頃に活躍した、国家機関で働く文官(ぶんかん)、民部卿。

711年に元明天皇陛下の命により
稗田阿礼(ひえだのあれ)の読む今は無き歴史書「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」を
太安万侶が編纂(へんさん)してつくったのが「古事記」で、日本最古の歴史書と言われています。

まずは漢文の「帝皇日継」と「先代旧辞」を覚え、それを声に出して普段の言葉に直す作業を稗田阿礼は担いました。

そして、それを漢字の音や訓に当てはめて書いていく作業を太安万侶が担っていたのです。

漢文を読み解き、訳し、話し言葉にするのは、図ぐれた言語能力も必要だし、さらにものすごく時間のかかる作業だったことでしょう。

誦習した旧辞を筆録して、三巻からなる古事記を完成させました。

天武天皇陛下と元明天皇陛下と
稗田阿礼(ひえだのあれ)と太安万侶(おおのやすまろ)におかけです。

われわれ日本國の大貢献者です。