ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

修身は我が国先人だけでなく海外偉人も入っていて学べる

2019年08月11日 | 修身は我が国先人だけでなく海外偉人も入っていて学べる
修身はいいこと書いてありますね。

修身の中身をみて判断してほしいですね。
具体的な名前と実話を通しているので
目標とする先人もでてきます。我が国だけでなく海外の人もきちんと入っています。

第二十八 【復習】
人の一生を木に例えれば、少年はその苗のごとし。

苗のときに曲がらぬようにし、その曲がれる時、これをためおかざれば、長じて後、よき木材とはならざるべし。
人も、少年の時に、よく、学びて、身を修めおかざれば、成長の後、良き人となりがたし。

良き日本人とならんとするものは、
天皇陛下を尊び奉りて、我が国を愛すべし。

職務に勉励することは、
秀吉のごとくせよ、
誠実にして、義を重んずることは、
清正のごとくなれ。

鷹山は倹約を守りて、
産業を興し、フランクリンは、よく、勤労し、よく、公益をはかりたり。
ナイチンゲールは生き物を憐れみ、人に親切を尽くしたり。

良き日本人とならんとするものは、これ等の人々の行いに鑑み、
学校にて授けられたる色々の教えを身に行うように心がけるべし。

我等の守るべき道多けれども、
その中にて、深く、心得おくべきことは、正直なること、人のためを思うこと、喜んで良き行いを成すこと、
行儀を良くすることなり。
我等、教育を受けたる者は、良く、これ等の心得を守らざるべからず。

修身はいいこと書いてありますね。
具体的な名前と実話を通しているので
目標とする先人もでてきます。
我が国だけでなく海外の人もきちんと入っています。


皇紀2679年わが国繁栄
みんなで幸せになろう日本人




明治天皇陛下 実話 兵士と苦難をともにする

2019年08月09日 | 明治天皇陛下 実話 兵士と苦難をともにする
明治天皇陛下 実話 兵士と苦難をともにする

 明治27年(1894)7月、日清戦争が起こると、明治天皇陛下は宮中に大本営を設置し、毎日、軍議を開きました。

戦線の拡大にしたがい、9月には広島に大本営を移転します。

 このとき、広島に同行した石黒忠悳(枢密顧問官、子爵)の証言。

《10月25日になって、私に戦地を一巡してこいと仰せがあったので、その翌日、広島を出て各地を巡視し、11月24日の夜、広島に帰りました。
翌25日の御軍議のとき、巡回先の将卒の健康状態、士気、給与、気候、物資の過不足、運輸の便否などについて詳細に奏上しました。
奏上がすんで最初にご下問になったのは、朝鮮および満州にいる軍隊の糧食についてでした。

「飯は朝鮮米か、日本米か、それとも支那米か」

「平壌におります兵は朝鮮米を食べております。義州の兵は朝鮮米と日本米を混ぜて食べております」

「朝鮮米には砂がたくさん混じっていると聞いているが、その朝鮮米を食べている兵士は、歯を傷めるとか腸胃を壊すということはないか」

 その頃は日本と朝鮮との交通が今日ほど開けていなかったので、朝鮮の米に砂が混じっているような話は、米穀商か、私のような職務上、食べ物に関係している者以外、知っている者などほとんどいない時代です。
それを御下問されるとは、
実に驚くべきことですし、軍人の衛生にここまでご配慮されるとは、
なんともありがたいことです》

 兵隊と苦難をともにするため、広島大本営では蚊帳を吊ることを禁じ、蚊の襲来に耐えたと言われています。

明治天皇陛下の実話は学校ではあまり習わないので貴重な話ですね。

皇紀2679年わが国繁栄

伊藤博文公の大活躍

2019年08月09日 | 聖帝明治天皇陛下の全国巡幸と陛下の大好きだった西郷隆盛
伊藤博文公の大活躍

幕末期から少しずつ活躍して明治維新後の活躍が素晴らしい。

明治政府発足当時は、長州閥の親分である木戸孝允(桂小五郎)に師事。

英語力を生かした役職をこなすと同時に、政治家としての力を蓄えていきます。

木戸亡きあとは、薩摩閥の親分であり実質日本の宰相でもあった大久保利通に
その才を認められ、様々な重職を歴任。

天皇陛下の信頼を得つつ、国民にも有名な存在へと成長していきます。

天皇陛下の厚い信頼を得て、難癖のある
様々な政府幹部(公家上がり、武門あがり、庶民上がり)の政治家を融和させた。

大久保利通や岩倉具視亡きあとは、実質わが日本の中心として国政を牽引して
いきます。
その手腕は素晴らしいものだと思います。

伊藤博文公の主な功績です。

・貨幣法の制定。(貨幣社会の確立)
・鉄道開通への尽力。
・教育令の発布。
・大日本帝国憲法の起案、制定。
・内閣制度の導入。初代内閣総理大臣に就任。

伊藤博文公が千円に復活してほしいですね。

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聖帝明治天皇陛下の全国巡幸と陛下の大好きだった西郷隆盛

2019年08月09日 | 聖帝明治天皇陛下の全国巡幸と陛下の大好きだった西郷隆盛
聖帝明治天皇陛下の全国巡幸と陛下の大好きだった西郷隆盛


明治天皇陛下は全国に巡幸を行いました。

明治天皇陛下の巡幸

 行動派の明治天皇陛下は、即位してまもなく日本中を巡幸しています。

その数は97回です。

一番最初は明治5年に始まりました。

日本全国行幸しました。

明治9年に東北、
明治11年に北陸・東海道、
明治13年に中央道、
明治14年に東北・北海道、
そして明治18年に山陽道へと
巡幸を続けます。

このおかげで、土で固められていただけの道路がどんどん改善されていくのです。

巡幸について面白い話が残っています。

一戸兵衛(明治神宮宮司、陸軍大将)の証言です。

《あるとき、明治の初年におこなった最初の西国巡幸のお話をされました。

陛下はいつになく高い声で、

そのとき乗った船「龍城」の玉座が畳2畳あったこと、

西郷隆盛が供奉長
(ぐぶちょう)だったこと、
そして、どういう問題があったのか、
その「龍城」が浅瀬に乗り上げてしまったことなどをお話になりました。

30年以上前のことを偲ぶかのように「あのときは西郷が怒ってのう」
と仰いました。

そのとき西郷は艦長の失敗に怒り狂い、刀を抜いて艦内にあったスイカを切って怒りを静めたそうです。

このときが私が最初に玉音(明治天皇の声)を聞いたときでした》

 明治天皇陛下は、西郷隆盛が大好きでした。
だから、西南戦争で敵となっても許しました。
西郷隆盛の銅像を上野の山に作ることを認めるんですね。


聖帝明治天皇陛下は天性の歌人

2019年08月09日 | 聖帝明治天皇陛下は天性の歌人
聖帝明治天皇陛下は天性の歌人でした。

 そして、宮中では毎日たくさんの和歌
を、詠みました。
生涯で10万句を作りました。

以下、御歌所寄人の千葉胤明の証言です。

《明治天皇陛下は天性の歌人でした。

お遺しになった御製(の句)も10万に達しています。
日露戦争のご多忙の折でも、毎日40首以上詠んでおりました。

ご壮年の頃、「探梅」という句をお作りになったのですが、私は「題にふさわしくない」
との評を出しました。

数日たって「この間の歌は、どうして題にふさわしくないのか」とご下問されました。

「おそれながら、あの句はたった1日で鎌倉の梅を見に行ったかのように感じられます。そこがいかがかと思います」と答えると、「そうか」と仰られました。
 
すると、また2~3日たって、
「この間、鎌倉の梅は1日では見られないと言っていたが、
昨日実際に試させたところ、
1日で十分だったと言っている。
それでもあの歌は題意にかなわぬと言うのか?」と仰ります。

「たしかに駿馬で回れば鎌倉も1日で事足りるかもしれませんが、国家の有事ならいざ知らず、歌ですから心に風流のゆとりがなくてはなりません」

と言うと、明治天皇は「もっともである。よくわかった」
とニッコリされました》

 歌の批評に納得がいかず、
実際に鎌倉まで梅探しに行かせるというのは、かなりすごい話です。

聖帝明治天皇陛下は天性の歌人でしたね。

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