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大和朝廷による官制の整備
大和朝廷は、663年の朝鮮・白村江の敗戦後、中央及び地方官制の整備につとめ、地方官制については、京の周辺である大和、山城、摂津、河内、和泉5カ国を畿内(五畿)とし、畿内を中心に放射状に東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海及び西海の七道(大行政区)が設定された。
その中で最も基本的な行政単位は国で、それが、さらに郡(こおり)、さらに里(さと、り)に分けられた。
国司は中央から赴任し、一定任期(大宝令では6年、のち4年となる)で交代した。郡司は、在地豪族が任命され、多くは世襲であって、国司の監督のもとに里長を督促して郡政にあたった。
北陸は斉明天応の時代(651年~661年)に、阿倍比羅夫の征討(658年)の後、越後の開発経営が進められていたが、さらに北上して712(和銅5)年、出羽国をおき、東海・東山・北陸道の人民を移住させた。
太平洋岸陸奥方面においても713(和銅6)年以降新たに郡をおいて移民を行い領域の拡大を図った。
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廃藩置県以前は「東海道」の一国
東海道は、古くは「海つ道」といった。伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、上総、下総、常陸の13カ国の地域をさし、その国府を連ねる道をさす。
また、行政区画としてはこれら諸国の総称である。
713(和銅6)年に上総から安房を分地し「東海道」に安房国を加えた。
さらに771(宝亀2)年には東山道から武蔵を編入したので、「東海道」は15カ国と成った。
常陸国
「東海道」の東端に位置する“常陸”は、大化改新(646年)により11郡からなる国となった。国府・国分寺はともに茨城郡(現在の石岡市府中)におかれた。東は海、南は下総(しもうさ)、西は下野(しもつけ)、下総、北は磐城(いわき)で、現在の茨城県の北・東部で、その大部分を占める。
鎌倉時代には小田・宍戸氏が守護となった。南北朝、室町時代には、常陸は関東管領(かんれい)の管轄するところであり、佐竹氏が守護を世襲した。
豊臣秀吉の死後、佐竹氏は豊臣方につくべきか、徳川方につくべきかで後背さだまらなかった。このため佐竹氏は徳川氏によって出羽秋田に転封させられた。
徳川幕府が常総諸藩成立の上でとった具体策は、
第1に、中世以来の旧族を常総から一掃し、新領主による徳川的な地方統治の基盤を築いたことである。
これによって、常総には中世以来の土豪的大名勢力は何一つ存在せず、領民と旧領主との関係は切断され、徳川幕府の権力の浸透を容易にしたことである。
第2に、中世以来の旧勢力を一掃したあとへ、御三家である水戸家をはじめ、宗門あるいは譜代の大名を配置したことである。
第3に、水戸の地が、東北大名に対する防備上、江戸の外郭として重要視されたことである。
江戸時代には、下記の19の藩がおかれた。
宍戸・・・・・・・・・・・ 秋田・松平氏
水戸・・・・・・・・・・・ 武田・徳川氏
笠間・・・・・・・・・・・ 松平・井上・牧野氏
下館・・・・・・・・・・・ 水谷・黒田・石川氏
下妻・・・・・・・・・・・ 多賀谷・井上氏
手綱=松岡・・・・・・・・・戸沢・中山氏
土浦・・・・・・・・・・・ 松平・土屋氏
府中=石岡・・・・・・・・・六郷・松平氏
志筑・・・・・・・・・・・ 本堂氏
牛久・・・・・・・・・・・ 由良・山口氏
麻生・・・・・・・・・・・ 新庄氏
真壁・・・・・・・・・・・ 浅野氏
小張・・・・・・・・・・・ 松下氏
古渡・・・・・・・・・・・ 丹羽氏
北条・・・・・・・・・・・ 佐久間氏
高森・・・・・・・・・・・ 内藤氏
鹿島・・・・・・・・・・・ 新庄氏
岩間・・・・・・・・・・・ 松平氏
谷田部・・・・・・・・・・・ 細川氏
茨城県の誕生
1871(明治4)年の廃藩置県により、
宍戸・水戸・笠間・下館・下妻・松岡6県は茨城県となり
土浦・石岡・志筑・牛久・麻生5県は、若森・竜崎・松川・多古・小見川・高岡の他県と合併して新治(にいばり)県をとなった。
1875(明治8)年、茨城県と新治県は、合併して今日の茨城県となった。
国名・常陸、地名・筑波の由来
国名の常陸、地名の筑波は「常陸風土記」によったとされ散る。風土記は713(和銅6)年の詔命によって成立した風土記の一つである。内容は、常陸国の名称や由来、国土の概要を記している。説話は約50あるが、そのうち最も多いのが地名伝説である。
常陸風土記は抄本であって、その成立年代や編者は不明である。
「常陸風土記」によると国名・常陸、地名・筑波について次の記事がある。
〔常陸〕
そう名付けた由縁は、往き来の道路が大河や海の渡し場を隔てることなく、郡郷の境界線が山河の峰や谷に続いているので、真っ直ぐな陸路の意味を取って、国の名としたのである。
また、ある人はこう言っている、倭武天皇が、東の夷の国をご巡視になり、新治の県をご通過になった。(倭武天皇は)国の造である毘那良珠の命を遣わされて、新しく井を掘らせたところ、流れる泉が清らかに澄み、大層心惹かれた。その時に、お乗物を止めて、水を賞美して御手をお洗いになった。
御衣の袖が泉に垂れて濡れた。そこで袖をひたすという意味によって、この国の名としたのである。土地の言い習わしに、「筑波岳に黒雲がかかり、衣袖をひたす=ヒタチの国」というのは、このことをいうのである。
〔筑波〕
筑波の郡。(東は茨城の郡、南は河内の郡、西は毛野河、北は筑波岳である)。
古老のいうことには、筑波の県は、昔は紀の国と言った。美万貴の天皇((崇神天皇)の御世に、釆女臣の同族、筑箪命を紀の国の国造としてお遣わしになった。その時に、筑箪命が言うことには、「私の名をこの国に着けて、後の代まで伝えさせたいと思う」といった。
そこでもとの名を改めて、筑波と称したということだ。(土地の言いならわしに、「握飯が付く=筑波の国」という)。
国名(常陸)、地名(筑波)の由来は、下記によった。
「中村啓信、谷口雅博、飯泉健司 編 大島 敏史 写真
『風土記を読む』発行所 株式会社 おうふう」
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