記紀・風土記等の説話にみる
国名「常陸国」、地名「茨城」の由来
記紀
記紀とは古事記と日本書紀をいう。たとえば「応神記」とあれば『古事記』の応神天皇の記述,「応神紀」とあれば『日本書紀』のそれを表す。古事記は、日本の日本神話を含む歴史書で、現存する日本最古の書物である。その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇の記事である。
8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある。『日本書紀』が律令国家の由来を語る縦糸であるとすれば、『風土記』は律令国家の空間的広がりを示す横糸である。
古事記、日本書紀や古風土記にみられる説話
説話は、字によらずに、口伝えによって継承される口承文芸のうち、散文で表現されるもの。歌謡の対である。神話、伝説、昔話、世間話などが含まれる。体験的事実の報告ではなく、伝聞による報告であるところに特色がある。歌謡が表現の形式を重視し、おおむね音楽と一体になって歌われる文芸であるのに対して、説話はストーリーの展開に主眼を置いて語られる文芸である。説話は民衆の意識の投影である。
これらの信仰・認識・願望・恐怖などが抽象的・観念的な言葉によっでではなく、具体的な事件の継起や事物の存在として物語られたものである。
意識は実生活のうちから形づくられてくるものであるから、説話には民衆の生活の歴史的・風土環境が反映している。古事記、日本書紀や古風土記にみられる説話には、上代日本の民衆の生活や意識が色濃くあらわれているのである。
風土記(ふどき)
一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた奈良時代初期の報告書のことで官撰の地誌である。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。
元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日、先発グレゴリオ暦6月3日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。
ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。
なお、記すべき内容として下記の五つが挙げられている。
・国郡郷の名には好字つけ
・その郡内に生ずる銀・銅・染色材料・草木・禽獣・魚虫などの詳しい実態
・田地が肥沃であるかどうか
・山川原野の名の由来
・古老が伝える伝承など
『風土記』の作成が命ぜられた和銅年間は、大宝律令に規定された支配体制が、地方の社会に実施されていった時期にあたり、都と地方の国郡とを結ぶ交通施設(駅馬・伝馬の制)も、この時期に急速に整備されていった。またこの時期には鋳貨の発行、調庸制の整備、条理の大規模な施工をはじめとする国土の開発が行われているが、銀・銅をはじめとする産物、田地の肥沃度の調査は、そのような施策と関連していたと考えられる。
このような情勢下、つくば市の平沢官衙遺跡は、奈良・平安時代の郡役所であり、高床式倉庫は調庸で納められた米や布等を保管する施設としてつくられたものである。
現存するものは全て写本で、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態で残っている。
風土記に載せられた説話はいうまでもなく古くから持ち伝えられてきたもので、年月の経過にしたがって各時代の人々により手を加えられたにしても、説話の原型である。たとえ年月を経て変化した形であっても、文献によって知り得るかぎリ、記紀・風土記等の説話がもっとも古いものである。
『常陸国風土記』
『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)元明天皇の詔によって編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。
『常陸国風土記』は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝ふる旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。
遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合が常陸国国守であったことから、その編纂者に比定されることもある。
また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説がある。
常陸国は、大化改新(645年)により646年(大化2)に設置される。現在の石岡市に国府と国分寺が置かれた。そののち新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれた。
『常陸国風土記』における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。
「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
また、『常陸国風土記』が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。
古代人の意識
「自然が神であり、神が人間的行為をするもの」
古事記、日本書紀ともに最初に天地開闢についてしるしているが、古事記のほうは、初めに高天原に造化三神を生じた事をいい、次いで「国稚(わか)く浮脂(うきあぶら)のごとくして、くらげなす漂へる時」にウマシアシカビヒコジノ神が生まれたとし、日本書紀では初めに中国の書物にしたがって天地の分かれる前の状態を述べ、次に「開闢之初に洲壌(くにつち)」の浮び漂へること、たとえば「猶(なほ)遊ぶ魚の水の上に浮べるがごとし」としている。
海岸線が後退したが「猶(なほ)遊ぶ魚の水の上に浮べるがごとし」
中国の書物をほとんどそのまま書き写したものではないが、造化三神(アメノミナカヌシノ神、タカミムスヒノ神、カミムスヒノ神)も、その抽象的・観念的な性格から、やや後の時期のものと言われている。日本の古代民族がこの世のはじまりについて有していた認識は、古事記、日本書紀の一致する部分、すなわち大地がまだよく固まらず水の上にまだ漂っていたという状態にとどまっていたと思われる。
古代民族にとって自らを取り巻く動植物・岩石・自然現象等あらゆるものが霊力を有する神秘なものであった。大阪府中河内郡あるいは泉北郡あたりにあった高い木の影が、朝は淡路島に及び、夕は高安山を越えたと言う話(古事記仁徳の条)や佐賀県佐賀郡にあった楠の影が、朝は杵島郡の蒲川山を、夕は三養基郡の草横山を覆ったという話(肥前風土記佐嘉郡の条)等は大木に対する神秘的な感情が生み出したものであり、到底、現実にありえない高さは巨木信仰が作り出したものである。
石に祈って安産や降雨を得るという伝え(肥前風土記船帆郷の条)は、石に霊力を感じたものである。そういう霊力を有する者は即ち神であるから、古代の民族にとって動植物その他自然はすべて神であったのである。神代記紀の神生みの条にはこの事が端的にあらわれている。
元来神は超人的な力を持つが、また人間のような行為をするものとして意識されていた。自然が神であり、神が人間的行為をするものであるとするならば、山が恋をしたリ争ったりするとしても不思議ではない。
夷服山(いぶきやま)と浅井岳とが高さを争ったところ、浅井岳が一夜で高さを増したので、夷服岳が怒って刀を抜いて浅井比売(ひめ)(浅井岳の神で、夷服岳の姪)の頭を切ると、琵琶湖に墜ちて竹生島になったとか(近江風土記逸文)、
畝傍・香山・見梨の三山が戦っている(万葉集巻一~十三の歌では恋の争いとしている)と聞いて出雲の阿菩の大神が仲裁にきたとか(播磨風土記神阜の条)という話がある。
常陸風土記の福慈(富士)と筑波の話がある。つくばの神は祖神をよく待遇したのでつくばの山は栄え、福慈の神は祖神を冷遇したので山が荒れていると言うのである。
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雪の富土山
常陸風土記の筑波郡の条に次のような説話がみえる。昔、祖神(おやがみ)が諸神の所を回って駿河國の福慈山(ふじのやま)に至りたとき、日が暮れたので、一夜の宿を請うたが、 間馨の沖は新嘗(にいなめ)を理由に断った。祖神は大いに怒って親を泊めないようなお前のいる山はいつも雪霜にとざされて、人も登らないし飲食を供する者もあるまいといった。この時筑波の神は新嘗にもかかわらず祖神を厚くもてなしたので、祖神はよろこんで歌を作って筑波の神をほめたたえ筑波の山の栄えることを予言した。このため筑波山は人々が集まり飲み食して楽しく歌い舞うことが今に至るまで絶えないのに対し、福慈岳には雪の消えることがなく登る人もないというのである。万葉集巻14に「誰ぞ此屋の戸おそぶる新嘗(にふなみ)にわが夫(せ)をやりて斎ふこの戸を」とあって新嘗には他人を泊めることを忌んだととがわかる。
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この話では、山と山の神が一応別のように見えるが、三山の話では、山そのものが戦っており、夷服岳の話では浅井岳の頂と浅井比売の頭とは同じものであって、もともと神と山とは区別して考えられてはいなかったものと思われる。
福慈と筑波の話ではもう一つ注意をひく点がある。それは目で見て知っている両方の山の状態が何に由来するかについての上代人の解釈が見られることである。
現代人からみればまったく根拠のないようなことでも、上代人には合理的な解釈として受け取られたのである。記紀や風上記にしばしばみられる地名説明の説話も同様なものが多い。さきにあげた三山の争いの話も、仲裁にきた大神が途中で争いがやんだと聞き、乗っていた船をひっくり返した神阜(かみおか)だという地名説話である。
長い間に起った現象を、一回限りの事件のごとく語り、主た 一個の神格・生物の存在として語るのも説話の常にするところである。古事記のはじめ、イザナギ・イザナミ両神出現以前に列挙されている神々の名は、大地が浮動状態から順次固まってゆき、立派な土地になり、生物も出はじめてきたことを古代人らしい表現のしかたをもってあらわしたもので、単たる列挙ではない。
スサノオノミコトの大蛇退治の話しにヤマタノオロチが毎年きて乙女を食い、今年はクシナダヒメを食おうとしているところがあが、クシナダは紀に奇稲田(クシイナダ)と書いてあって、稲田をほめたことば、それを食うオロチは、台風の時などに洪水でせっかくの実りを荒らす河川の事と思われる。
オロチとは人間の上に威を振るう自然現象たる洪水に対する古代人の認識であり、これを退治する一個の英雄の行為は、実は洪水征服への人間の絶えることのない努力の古代的表現である。
大蛇退治の話で、乙女が大蛇に食われることになっているのは、古く田植のときに美しく飾った乙女を目神・水神にささげる儀礼があって、その習俗からきたものと考えられている。山や川に荒ぶる神が居て、往来する人々を反芻は殺してしまうと言う話は風土記にたくさんある。これは昔の航路の険阻を体験した人々が荒ぶる神の所業として恐れ、語り伝えたものであろう。
この難を逃れるためには神の心をやわらげるほかはない。だからこの類の説話にはほとんど全部神を祭ったら、禍がやんだという話がついている。宗教的雰囲気に濃く包まれていた上代人にとっては、これは極めて自然な理解しやすいことだったにちがいない。
土蜘蛛(つちぐも)
風土記にたびたび出てくるものに土蜘蛛がある。束国から九州にいたるまで広い分布を有しており、おおむね凶悪な、朝廷の命に反抗して討伐される者とされ、まれに荒ぶる神をしずめる祭を教えたり、天皇降臨、行幸のさいの料理番になったり、天孫降臨のとき、暗くて道もわからず物の弁別もつかなかったのを明るくする方法を数えたりして、よいこともしたことになっている。
このように描かれかたから見ても土や石の室に住む異俗のものというところからしても、土蜘蝶は各地の土着の者で大和朝廷によって制圧されていったものと考えられ、その話が多く出てくるのは、大和朝廷の側に立った叙述のためと言われている。
大和朝廷からみて、室(むろ)の中に住む異族ものを総称したものが”土蜘蛛”のようである。このほかに国栖(くず)・八束脛(やつかはぎ)・山の佐伯(さえき)野の佐伯などみな穴居の人種で土蜘蛛と言える。記紀・風土記をみると、土蜘蛛の分布は全国的と言ってもよく、概ね大和朝廷に反抗する売るものとして描かれているが、神功皇后の代を境にしてその記載は史上から消えている。ただ吉野の土蜘蛛は国栖(くず)と呼ばれて、後世まで朝廷に奉仕する定めであった。
ジオパーク・平沢官衙の案内板
「北条中台古墳群第1号墳」 "土蜘蛛”が居住した石室
下の写真は常陸国風土記に伝える土蜘蛛征伐の一例
地名「茨城」の説明説話として出てくる。西野宣明校訂板本
「茨棘塞施穴」の文字
小学館「図説 日本文化史大系2 飛鳥時代」昭和40年8月25日改訂新版
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