ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

筑波山地域をジオパークに! 筑波山地域が抱え“自然の宝庫”

2015-05-14 | 筑波山地域ジオパーク

 4月30日、筑波山地域ジオパーク推進協議会の定例総会が開催された。今までは構成6市長を中心とする10名で構成されていた協議会に、新たに民間機関や市民団体の方々等15名が加わり、合計25名の新体制が発足した。これに伴い、つくば市が担当していた事務局も構成6市に拡大した。 

日本ジオパークネットワーク(JGN)
ジオパークとは 
 
 地層、岩石、地形、火山及び断層など地球科学的に見て貴重な見どころ学び、楽しむ事を通して地域の魅力を実感する場所である。

 ジオ(地球・大地)に関わる遺産を保護し研究に活用するとともに、自然と人間の関わりを理解する場所として整備すれば科学教育や防災教育の場として、また観光資源として地域の信仰に活かすことが出来る。 

 ジオパークに相応しい地域とは、地域の住民が地元にある地球の自然環境に気付き、その意味や重要性を理解し、保護し活用していこうという意識が芽生え、発展させる取り組みを行っている地域と言われている。ジオパークに認定されると、国内はもとより世界に向けて、この地域特有の魅カを発信する機会が増え、ツアーや各種関連イベントの開催や商品開発などを推進しジオパークの魅力をさらに高めることができる。  

筑波山地域が抱え“自然の宝庫”  
 日本列島は、太平洋などの海域にたまった堆積物が西へ移動するプレートの沈み込みとともに当時の目本列島の源が位置していたユーラシア大陸束縁(現在の中国束部)に付加した岩石が、さらに中生代白亜紀以降に幾多の火成・変成作用を受けた複雑な地史を有している。

 筑波山から霞ケ浦にかけた地域には、生活に恵みを与えてくれる森や山、湖などの自然に支えられた営みであり、生き物、歴史と文化、風土や民俗、そして信仰など、多くのジオサイトが集まっている。日本百名山」のひとつで「西の富士、東の筑波」と並び称される筑波山は、信仰の対象として保護され、学術的にも珍しい植物や昆虫、野鳥も数多く見られる貴重な“自然の宝庫”である。

 筑波山のおよそ7千万年の時問を経た稲田石や筑波石が、氷河時代から現在にいたる山と平野と海の歴史を見下ろしている。現在の関束平野と東京湾の生い立ちが残されている霞ケ浦のまわりには、夕陽を受けた筑波山の“紫峰”を見上げながら刻まれた、地形と風土、そして文化の記憶が多く残されている。 

【筑波山ジオパークエリア】  
 

【筑波山地域の地形】 
      

ジオとともにある人々の営み
【信仰・歴史
 筑波山地域の地形の特徴は、人々の信仰や歴史に大きな影響を与えてた。筑波山は、関東平野にそびえ立ち、硬い、斑れい岩による2つの峰と美しい山裾を有することで、古代より山自体を御神体とする山岳信仰の対象とされてきた。また現在の石岡市には常陸国の国府(国衙)や国分寺・国分尼寺が置かれ、大和朝廷は常陸国を日が昇る東に位置することから東北につながる重要な国とみなしていた。 

     常陸国分寺跡 


      筑波山 白蛇神社


     弁慶七戻り 

 

【民俗文化・芸術】
 筑波山地域のジオの独自性は、時代や地域を超えて人々に愛され、文化芸術を生んできた。甲乙つけがたし、ものやライバルを比較するときに、「西の○○、東の○○」と表現される。「西の富士、東の筑波」もその一つで、万葉集には筑波山を詠んだ和歌が25首ある。 

 また桜川市の桜は国の天然記念物に指定され「西の吉野、東の桜川」と呼ばれ、江戸時代には、隅田川堤や玉川上水堤をはじめ、江戸の花見の名所に大量に移植された。

     隅田川堤春景 
  
      朝倉治彦・鈴木棠三校註『新版 江戸名所図会 下巻』角川書店 

【暮らしと産業】  
 筑波山地域の人々の暮らしの大部分は、海水準変動に伴って誕生した平野部で営まれており、古代から現代まで、霞ケ浦は海の入り江から汽水湖、淡水湖へと変化し、その生態系とともに、産業や人々の暮らしに大きな変化をもたらしてきた。  

 古代から中世(奈良時代~室町時代)にかけて、常陸国府への物資の運送や東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)への参詣などにかかわって、水上交通が発達した。戦国時代から江戸時代にかけては、遠い場所に兵糧物資や築城の資材などを運ぶために、水運は一層発展した。

 また、江戸時代に水運が整備されると、様々な好条件から醤油醸造が発展した。江戸時代には、江戸の日本橋、蔵前への年'貢米の運搬、江戸の町で消費される木材、薪炭、醤油、清酒をはじめ、霞ヶ浦沿岸の村々のさまざまな農産物、特産品などを、高瀬船(百石船、干石船)に積み、大消費都市となった江戸へ運んだ。帰りの船には、衣料品、塩、砂糖、肥料に使う干鰯など、さまざまな生活用品が積み込まれた。このように、江戸と農村間の商品流通の推進役を水運が担った。

 明治時代には、さらに蒸気船の通運丸が就航し、定期航路が開設され、水運はますます盛んになっていった。昭和期になると、ディーゼルエンジン船のあやめ丸、さつき丸が就航し、水郷観光にも大きな役割を果たした。

 一方、明治、大正、昭和と常磐線などの開通、道路や橋の路線バスの運行などによる陸上交通の急速な発展によって、特に、第二次世界大戦後になると、水運は次第に衰退していった。

 霞ヶ浦は国内第2の広さを誇り、ワカサギ、シラウオ漁や沿岸地域の他は田を潤す農業用水など、湖の恵みは古くから人々の暮らしを支えて来た。しかし、元来は海から続く入り江で遠浅の霞ヶ浦は洪水や塩害などの被害が絶えなかった。そこで、大規模なz霞ヶ浦開発事業が行われ、現在では茨城県をはじめ首都圏の貴重な水源として利用されている。 平坦かつ広大な筑波稲敷台地と安定した地盤や、霞ケ浦等の豊富な水資源が大きな評価要因とされ筑波研究学園都市が国家事業として建設された。 

       明治時代の主な河岸

      松浦茂樹著『湖辺の風土と人間-霞ヶ浦』出版「そしえて」


       霞ヶ浦の水を利用している区域 

          2015年3月27日(金)読売新聞朝刊31面 

  


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