ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

「ガマの油売り口上」の「近江の津守細工じゃ」とは

2020-06-05 | ガマの油口上 技法

からくり人形
  がまの油売り口上の「一寸八分唐子ゼンマイの人形」とは、からくり人形のことを言っている。
人形劇に用いられる〈あやつり〉〈糸あやつり〉も、その初期は見世物の要素がつよく、ひろい意味でのからくりの一種である。
 日本では〈あやつり〉の素朴な形態は、8~9世紀ころから傀儡師(かいらいし)によって行われていた。からくりの記録がみえるのは、12世紀ころの 『今昔物語』で、人形のもつ器(うつわ)に水をいれると、その人形が首を動かしたという。 

 日本のからくりのルーツは室町時代末期に入ってきた西洋技術によるところが多い。
この時鉄砲と共に時計などの機械が入ってきたが、当時は機械装置全般のことを からくり と呼び、それ自体が珍しく好奇の対象であった。
 それゆえに からくり という言葉には現在でも娯楽性や意外性のニュアンスがある。
  
   
 17世紀頃から、時計などに使われていた歯車などの技術を、人形を動かす装置として応用した からくり人形が作られ始めた。
 これは主に台の上の人形が様々の動作を見せるもので、当初は公家や大名、豪商などの高級玩具であったが、祭礼や縁日などの見世物として一般の目に触れると人気を呼ぶようになって日本各地に普及し、専門の職人も現れ非常に精巧なものが作られるようになった。

 室町時代になると、孟蘭盆(うらぼん)に御所でかざった灯篭(とうろう)を からくり にしたものがあったが、それが流行するのは江戸時代で、京都の漢方医で、数学や機巧の研究もしていた多賀谷環中仙(たがやかんちゅうせん)が1730(享保15)年

 『璣訓蒙鑑草(からくりきんもうかがみぐさ)』 http://karakuri-tamaya.jp/pdf/kinmou.pdf を刊行している。

 この本は松・竹・梅の三巻からなり、上巻にあたる「松」の巻に27種類のからくりが絵巻風に書かれている。下巻にあたる「竹」「梅」の巻で、それぞれのからくりの種明かしを“指南図解”と称して解説している。

 また、1796年(寛政8)細川半蔵が著した『機巧図彙(からくりずい)』 http://www.kodokei.com/dt_011_2.html  には、和時計やそれに使用されていたぜんまい仕掛けや脱進機等の機構を応用したからくりに関して書かれている。
 日本における古典的な機構学の原典とも言える書物である。
 特に茶運び人形に関しては自動制御の原理を組み込んでおり、今日の技術立国の源流であるとの見方もある。

 江戸中期以後は見世物としての舞台にのせた大がかりな〈大からくり〉、簡単な街頭見世物の〈のぞきからくり〉などが演じられ、からくりが手品に応用された〈水からくり〉すなわち水芸は文化時代(1804~18)頃から大がかりに演じられたが、江戸末期には曲独楽(きょくこま)師の演じるものとなった。
                日本の人形
       
                 〔絵をクリックすると拡大〕
    左から やまと人形、 竹田人形 張貫筒、 嵯峨人形 首振り、
      埼玉川越の山車人形《翁》、 糸あやつり、 人形浄瑠璃の胴とかしら 
                平凡社 『世界大百科事典17』 (1968年7月10日) 

〔関連記事〕 つくばの人形の細工師、「からくり伊賀」の飯塚伊賀七

「筑波山ガマの油売り口上」に出てくる人形細工師
 ガマの油売り口上に「我が国に 人形の細工師 数多有りと雖も京都にては守随、大阪表にては竹田縫之助、近江の大じょう藤原の朝臣(あそん)、この人たちを入れて 上手名人はござりませぬけれども、手前のは これ 近江の津守細工じゃ。」とある。

●「京都にては守随」
 「京都にては守随」とあるが、「守随」と称する人形細工師には見当たらない。
 江戸時代、「守随氏」を名乗っていたのは幕府の特別認可を得て、秤の製造、頒布、検定、修繕などを独占し、秤座(はかりざ)を支配していた「守随氏」である。
 守随氏は、明治以降も秤の販売業を営み、現在も産業用計量機器メーカーの守随本店として続いている。

●「大阪表にては竹田縫之助」 
 1662(寛文2)年には大坂の道頓堀でからくり師であった初代・竹田近江(しょだい・たけだおうみ)が大坂の道頓堀で からくり芝居の興行を行い好評を博している。
 生まれた年代は分からないが、1704年没した。2代目竹田近江は長男、初代竹田出雲は次男に当たる。


 竹田近江はもと阿波国の出身であったが、江戸に住んでいたとき浅草観音より砂を動力とするからくりの工夫を授けられ(子供の砂遊びを見て思いついたともいわれる)、1658(万治元)年京都に上り朝廷にからくり人形を献上して出雲目(さかん)を受領し竹田出雲と名乗ったが、翌年の万治2年に近江掾を再び受領し竹田近江と改名した。

 のち1662(寛文2)年大坂道頓堀において、官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行した。竹田近江のからくり興行は竹田芝居また竹田からくりとも呼ばれ大坂の名物となり、のちに江戸でも興行されて評判となった。

 初代近江はもともと時計師すなわち和時計を作る職人ではなかったかといわれている。
 記録によれば〈時計からくり〉の名人とも評され、また〈永代時計〉と称する9尺ほどの大きな時計を作ったが、それは時を告げ、二十四節気、月や太陽また星の動きまでわかるという機能を持ったもので、のちの田中久重製作の万年時計に先んじるものだったという。

 のちに初代近江の次男である初代竹田出雲は竹本座の座元となるが、その初代近江以来のからくりの技術が当時の人形浄瑠璃と結びつき、近松門左衛門の作品などで使われている。その後、からくりの人気はふるわなくなったが、竹田近江の名義で興行される子供芝居は〈竹田芝居〉という名で後々まで残った。

●「近江の大椽 藤原の朝臣(あそん)
 「掾」とは、律令制が崩壊した中世以降、職人、芸能人などが受ける名誉号となり、近世では多様な職人や芸能人に宮中や宮家から与えられた。近世中期以降、ことに浄瑠璃太夫にかぎられ、大掾、掾、少掾の3階級に分けられ、掾号を受領することは、最高の名誉とされた。

 藤原の「朝臣」(あそみ、あそん)とは、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から2番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。

 この「朝臣」が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室の権力掌握が狙いであった。

 「朝臣」は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。

 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められるようになり、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失い、公式文書で使う形式的なものになっていった。

 家格順に藤原氏、源氏、平氏、橘氏等がある。平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。
 四位以下の者は氏、諱の下に朝臣とつけて呼称した。
 というわけで、「近江の大椽 藤原の朝臣」は天皇を頂点とする貴族社会における序列付けとしての意味がなく栄誉を称える称号といえる。

 初代・竹田出雲は1658(万治元)近江大椽を受領した。
 矢木心一著『ふるさと文庫シリーズ 筑波山がまの油物語』(崙書房)によると、戦前、浅草仲見世に「竹田人形店」があり、そこの看板に「竹田近江大椽 藤原朝臣清和一、末裔竹田縫之助清司、同竹田縫三郎」とあり、上部にからくり元祖、中央に定紋が入っていた。

 また、竹田人形店に残されていた「受領写」に、がまの油売り口上に出てくる「近江の大椽 藤原の朝臣」は、4代目「藤原朝臣清和一」であり、5代目以降は「縫殿之助」の名称で8代まで記載されていたとある。 

 これとは別に『近江大掾』には『近江大掾忠広(おうみのだいじょうただひろ)』がいる。近江大掾忠広は、江戸時代の肥前国の刀工で、橋本平作郎、のち新左衛門を名乗る新刀上々作にして大業物である。

 1614(慶長19)年に生まれ、父の没後忠広を襲名し、初代忠吉の孫で門人の河内大掾正広らの指導を受けたとされる。1641(寛永18)年7月近江大掾を受領、1693(元禄6)年5月27日に没した。
 長命で多作の刀工だった。刃文は小糠肌と呼ばれるよくつんだ地鉄に直刃を焼いた作が多く、互の目乱などの乱れ刃もある。
 こちらの、「近江大掾」忠広は、刀工であったから、「筑波山ガマの油売り口上」の「近江大掾」ではない。

●「近江のつもり細工」
 18世紀初めの享保年間、彦根藩(近江国の北部を領有した藩、藩主は譜代大名筆頭の井伊氏)の藩士・平石久平次時光(ひらいし くへいじ ときみつ、1696年~1771年)が新製陸舟車(しんせいりくしゅうしゃ)という三輪自転車に相当する乗り物を発明した。
 これは、ペダル状及びハンドル状の機構を有して人力で走る三輪車であり、1732(享保17)年実際に作成、走行に成功している。ヨーロッパでの自転車の発明よりも遡り、世界で初めて自転車の概念を実現したものである。
 新製陸舟車を発明する者がいたくらいであるから、近江の地では、からくり人形の細工が盛んであったことが窺われる。

「近江の津守細工」の “津守” とは、何をいっているのだろうか。
 平凡社「世界大百科事典」によると、「津守氏」は、摂津の住吉大社の神官の家である。
 1620(元和6)年、名古屋東照宮祭の山車に初めて牛若弁慶のからくり人形が載せられていたように名古屋を中心とする地域は、からくり人形を載せた祭礼の山車が広範に普及していた。
 こうみると住吉大社と何らかの関係が有ったかもしれない。 

 「近江」という言葉に関して『古事記』に「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。
 琵琶湖の呼称をそのまま国名にしたもので、遠い浜名湖を指す遠淡海(遠江国)に対して「近つ」という。大宝令の制定(701年)の頃、近江国の表記が登場し定着ている。

 三重県の県庁所在地は「津」市であるが、岩波書店「広辞苑」によると「津」は
    ①船舶の停泊する所。ふなつき。港。
     ②渡し場、渡船場
     ③人の集まる所、都。

  「津守(つもり)」は、津を守る番人・・・・とある。

 「津」という文字も琵琶湖、近江国そのものを表す文字である。
 “近江の津守” とは、独断と偏見になるが、渡し場の番人の中に、または人の集まる所、都、即ち近江国は竹田近江のからくりで評判の地であったことから、腕のいい細工師がいたはずである。

 このようなことを考えると、口上を演ずるとき語感の響きをよくしたり、人形に箔をつけるため近江国を強調するため“近江” “津守”と別の表現で繰り返したとも考えられる。

 また、旺文社「漢和辞典 改定新版」によると、

「積」: つーむ、つーもる、つーもり、また「つーもり」とは、
  (ア)もくろみ、見積もり
  (イ)こころぐるみ
  (ウ)予算、 とある。
 これも、竹田近江が「見積もった、計画した、考案した」と、人形に箔をつけるための表現ではなかったか考えられる。
商売する香具師の世界のこと、確証は無い。


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