ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

江戸時代の信仰 千社詣と筑波山神社の千社札

2020-06-07 | 茨城県南 歴史と風俗

江戸時代の信仰 千社詣と千社札


(こう)
 

 講とは、講とは、一定の構成員が寄り合って懇親し、共同飲食する集まりである。
 信仰的(宗教的)なものと、経済的なものに大別される。 

 信仰的(宗教的)はもの、次の4つに分類される。
  ・田の神講・山の神講・七三夜講、庚申講、日待講など    
     古くからの信仰がもとになったているもの。
  ・氏神を中心にその氏子が結成している講
  ・村内にある観音堂、地蔵堂とか、講中の家を宿にして信仰行事を行う講で、
     観音講、地蔵講、子安講など。
  ・村落外の他所にある寺社へ参拝する代参講で、
     仏閣を中心とする報恩講、身延講、成田講、善光寺講など、
     神社を中心とする伊勢講、熊野講、大山講、冨士講、浅間講など多数ある。
  
 経済的なものは次の2種に分類される。
  ・無尽、頼母子などと呼ばれる金融的なもので物品を買い入れるための
     畳頼母子、箪笥頼母子、萱頼母子などが作られた。
  ・他の一つは大工、左官、桶屋、木こりなどの職人が結成するもので、
     山仕事の人が組む山の神講、
     職人が結成する太子講 
     木地屋が組織する親王講など。 

 信仰的(宗教的)な講は、もともと僧侶が仏典の講読や説法を行った仏教集会のことであったが、転じて、仏事や神事を行うための結社(団体)のことを言うようになった。
   
寺社参拝 
 江戸時代末期は、百姓一揆や打ちこわしが続発し、博徒が各地で幅を利かせるなど村でも町でも社会不安が募りだした。また18世紀後半から19世紀初頭の日本は、異常気象に見舞われた時期で、飢饉をもたらし疫病が流行した時期であった。

 こうした世相を反映して人々の心をとらえたのが神仏であった。家内安全、疫病の治癒など人それぞれの願い事があるが、生産手段を共有しない個人で生業を営むもの人が個人的な祈祷へ傾斜するのは自然の流れである。
江戸の人々は、現世の利益を願って、それぞれの信仰に応じて社寺や霊場などに出かけたのである。

 特に文政、明和の時代、全国的に起こった”お陰参り”は不安や不満のはけ口がない人々に爆発的にひろっがったものである。伊勢への道々には色とりどりの衣装を着け「伊勢は津でもつ。津は伊勢でもつ」「なかのりさんのお陰でさ、抜けたとさ」などと声を出しながら歩く人でうずまったと伝えられている。

 全国的なものにこの伊勢講だけでなく熊野講、富士講などがあり、地方的なものとして関東地方では榛名講、三峰講、大山講などが江戸の庶民たちの間で広く参拝されていた。
 また、地域社会への各宗派の布教に伴い報恩講、日蓮講はじめ大社、御山、天理などの講も盛んになった。

各地に残る道祖伸 
    
    
    
    
    
 
 職人たちの間では、元禄期(1688~1703)の終わり頃から以降、同職の者同士で、講の結成が盛んに行われた。
講は宗教的な親睦団体の様式ではあったが、職人たちの間で組まれていたものは、同業者同士の仲間組織であり、その運営のための利益団体であった。

 彼らは仲間にかかる費用の一部を仏事や神事を名目に集めた。また、様々な決め事が多い仲間同士、心を一つにするためにも、職業神の信仰は欠かせなかった。

                

                      筑波山神社 隋神門

信仰の証: 千社札
 信仰のため各地の零所を巡拝する風は早く平安時代末期の貴族社会に見られ、室町時代には一般庶民の間にも盛んになった。

  江戸時代中期から千社札の納札をともなう千社詣が江戸を中心に流行した。
 錦絵、後の浮世絵の登場で、印刷技術が飛躍的に向上したという事情があった。


 千社詣でとは有各な神杜仏閣を巡拝して、その数の1000に達することを期する習俗のことで、通常参拝の証として自己の住所、職業、氏名などを書いた紙札を参拝した神殿や仏堂の柱や梁(はり)に貼り付けた。これをを千社札と称した。  
 御本尊や御祭神に足を向けて貼らないなど暗黙のルールがあった。 

           

 
 千社札には江戸文字が用いられ、デザイン的にもそれぞれ趣向が凝らされていた。
やがて、千社札の交換会が開かれるようになって、参加者たちはますますその見栄えを競ったという。

  そのはじめは多少とも信仰にもとづき、その札もいちいち、手書したものであったが、後しだいに趣味的流行となり、札も種々意匠をこらしたものを木版刷とし、同好者の間で月々交換の会が開かれるまでになった。

 千社札は貴族が書写して納めた納経が巡礼の風とともに大衆的に簡易化したといわれているが、拝礼の数を競い、それを神仏に印象づけることと、自己の記録を残し衆に誇示する意図もあった。
 千社札は印刷し彩色して、人目につく奇抜な場所に争ってはりつけるようになった。

          

         
              筑波山神社 隋神門 
  

 干社札の張付は建物をはなはだしく汚損するので、天保年間(1830~44)幕府は一時これを禁止したが、守られることなく、幕末にいたっていっそうさかんとなり、その風習は明治・大正ころまでつづいた。 

  今でも、時々、専用の棒状の道具を使って高いところに貼り付ける人を見かける。人が簡単に貼れないところに貼るのが楽しいようだ。

 〔千社札を貼るうえで避けるべきこと〕
  ・他人の千社札の上に貼ること。

  ・色札を貼ること。
     本来は墨の単色刷りのもののみを貼るべきである。
  ・はがしにくいシールを用いること。
  ・千社札は施設の都合により剥がされることもある。
  ・指定文化財に貼ること
    文化財指定を受けた神社仏閣に千社札を貼る行為は文化財保護法に抵触する。

千社札を見る楽しみ 
 千社札は紙に墨で手書きをしたり、紙に墨で木版印刷されたもので、その都度 糊で貼りつけられ、その後風雨にさらされ紙が朽ちてなくなり文字だけが残るのを「抜け」という。
その状態の美しいものを「抜け」がいいなどといって賛美された。
 

 もう一つの見方。そのデザインや文字・・・・歌舞伎で使われる勘亭流や、寄席で使われる寄席文字、相撲の番付表の相撲文字などに使われる文字を江戸文字という・・・・・千社札には力文字または籠文字と呼ばれる力強い文字がよく用いられ、迫力がある。これも見ものである。 


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