AKB48の旅

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「ないものねだり」の衝撃

2017年02月20日 | AKB
18日放送の「乃木坂46SHOW」は橋本奈々未さんの特集だったけど、そのラストで歌われた「ないものねだり」に衝撃を受けた。ここでの「衝撃」とは、「得意」としてるところの誇張とかではなく、正真正銘の驚嘆の表現。これは掛け値なしの傑作だと思う。

何を今更なんだろうけど、乃木坂46にはあまり関心を払ってはいなかったこともあって、「ないものねだり」は今回が初聞だった。もちろん橋本さんの「引退」は情報としては知ってたし、表題曲の「サヨナラの意味」が、特に触れては来なかったけど良曲であることも認識してた。けれども卒業曲の「ないものねだり」は今日まで知らなかった。

これは何なんだろう。結論から言うと秋元氏のプロデューサーとしての凄み、クリエーターとしての力量を再確認させられた思い。橋本さんという存在を鮮やかに描き切ってる、いや恐らくは実存としての橋本さんを振り切ってるのであろう凄み。けれどもその凄みは見事に折り合いをつけられて、表面的には外連味のない「佳曲」に仕上げてある。ちゃんとエンターテインメントに設えられている。なのに、あるいはだからこそ、底知れない奥深さに圧倒される。

当然のことだけど私が橋本さんの何を知っているわけではない。ほとんど何も知らない。けれどもこの曲を一曲聴くだけで、橋本さんがどういう人物なのか、どんな女性なのかが分かった気になる。言い方は嫌みに聞こえるかも知れないけど、見事に騙される。それだけの説得力が込められている。いや凄いわ。

乃木坂の「虚構性」ということについては何度か書いた。その「虚構性」には、当然ながら秋元氏も関与してるわけで、言わば「共犯」みたいなものなんだろう。けれどもそんな「虚構性」とリアルの間には境界線はないとも思われる。逆に言うなら、その「虚構性」もまたバーチャルリアリティの一表現ということになる。

AKBの存在様式がリアルバーチャル連続体であると書いたのはもうずいぶん前になるけど、それだけ書くと当たり前のことを言ってるだけに聞こえるかも知れないけど、そういう視点で言うなら、乃木坂はリアルの部分が大幅に後退しただけで、意外なくらいに類似した構造とも言えてしまえる。端的に言ってアイドルとはそういうものということなんだろう。

そんな乃木坂の「虚構性」の様式は、若い女性(=妊娠可能女性)の動物としての「演出」と見事に重なるものであって、それが女性アイドルとしての言わば「釣り針」として機能する。実にゲスな物言いではあるけどそういうことなんだろうとも決めつけられる。

そんな範囲までも視野に入れてた上で、けれどもそんなそぶりはおくびにも出さず、たくみに糊塗して、美しくラッピングしてみせる。けれども背後を伺えば、どこまでも掘り下げられそうな気がする。そういう気にさせる。

ここまで奥深さ(と言う名の虚構)を感じさせてくれる卒業曲は、少なくともAKBサイドにはなかったように思う。ざっと思い浮かべてみてももっとストレートで合理的な感触の、言わば「男性的」な曲ばかりだった。まあそこは卒業曲であると同時に引退曲でもある、そういう特殊性はあるのかも知れない。対立軸的な表現になってしまうけど、実に「女性的」に感じられるし、乃木坂というその「虚構性」までも繰り込んでの、アイドル橋本奈々未を表現しきってるとも言えそう。

あるいは勝手に穿った思い込みに過ぎないかも知れないけど、もしかして秋元氏は橋本さんを一人の女性として見ていたのかも知れない。この曲は、そんな心根の吐露になってるのかも知れないし、そういう別レイヤに属する、また異なった「虚構」の表現であるのかも知れない。

MVも見たけど、よくできてるとは思うけど、楽曲のファーストインパクトに勝るものではなかったかな。橋本さんというキャラクターの賜なのかも知れないけど、この「ないものねだり」は、乃木坂の歴史の中でも随一の(隠れた)名曲ということになりそう。

それと、いろいろなイメージ元は大貫妙子氏なのかなとか、ふと思った。