AKB48の旅

AKB48の旅

ネ申テレビ Season 27

2018年04月10日 | AKB
完全にメモ書き。感想とか特になし。敬称略。

Vol.1-3 ポストまゆゆ選手権 (優勝 佐藤栞)
Vol.4,5 不眠耐久レース 北原よ永遠に (北原、大家、横山、宮崎、中西)
Vol.6 サワディーカー!初めてのおつかい in バンコク (小栗、倉野尾、岡部)
vol.7 タイ100人アンケート (1位 倉野尾、最下位 横山、小栗)
vol.8,9 心の声でYO-MEN! (川本、谷口、福岡、込山)
vol.10,11 脚タレ選手権! (合格 西川怜 加藤玲奈)
vol. 12 武藤十夢のあした天気にな~れ! (不合格 武藤十夢、岩立沙穂)

「ワイドナショー」4月8日

2018年04月09日 | AKB
たまたま指原さんの調子が悪かったという見方もあるだろうし、ふつうに良識ある大人の女性になって来てるんだという見方もあるだろうと思う。ワイドナショーの出演がほぼ一ヶ月に一回ペースということで、ちょうど良い具合に時系列を見せてくれてるようで、見事に毒気が抜けてきて、次第に洗練されてきてるんだという見立てが、いちばん「親切」なのかな。

例の舞台からの転落事故の件にしても、当たり障りのない範囲のコメントにうまく止めていたと思うし、松本氏がなんとなく援護してる風もあった。このあたり、さすがに台本はないと思いたいけど、事前の打ち合わせや摺り合わせ、敢えて言うなら編集権の介入を感じたかな。

今回の放送をトータルで見るなら、十分に面白い議論が展開できてたと思うので、この古市憲寿氏、ヒロミ氏という、ある意味レギュラーメンバーでやる時には、指原さんはこういうポジショニングを選択したということなのかも知れない。


不完全性定理

2018年04月08日 | AKB
AKBグループ相次ぐ転落事故が示す黄信号は?

今から2~3年前の指原莉乃なら、このような投稿をTwitterという場所でしただろうか?総監督である横山が「運営とともに対策を考えます」としたコメントに「対策もなにもない」と書き込むだろうか?

 この書き込みにより、横山の総監督としての威信は低下し、指原の存在感はより一層高まった。

 そりゃアイドルをしながら、支配人になり、プロデューサーになり、タレントもしている指原は有能なのは間違いないし、面倒見のよさもあるだろう。

 しかし、運営とメンバーのパイプ役だった彼女が、極論すれば「運営は悪くない、メンバーが悪い」という内容を、現役トップである横山の発言を否定する形で出すのは、あまりにも思慮が足りなく記者の目にはうつる。

 案の定、この発言をうけて、ネットでは怪我をしたメンバーそっちのけでスケープゴート探しに必死なファンが大騒ぎし、ライト層はドン引きして他のグループへと流れている。

 ここからは記者の独断・偏見も入るが、現在のAKBグループには、とにかく余裕がないように見えて仕方ないのだ。


全文にわたって、たいへんオモシロい記事。いちいちツッコミは入れないけど、ボケとまでは言わないけれど、突っ込みどころには事欠かない。

そんな中、1つだけ、上記引用部分。指原さんがツイートを削除した理由として、なるほど、この解釈はありかなと思った。

ステークホルダーから名なしのヲタさんまで、指原さんがコミットする範囲は、際限なく拡大してしまった。その巨大な影響力は、ありとあらゆる関係各所に及んでしまってる。事ここに到っては、他者との関係性において自己了解像を無矛盾の範囲に納めることは、もはや不可能になってしまったということなんだろう。

「アイドル」の哲学化

2018年04月07日 | AKB
「アイドルの作られ方」が激変した根本理由

つまり、平成において「アイドル」とは生き方そのものになった。表現のフィールドは楽曲やドラマなどの作品だけでなく、時には私生活までを含む人生全般にまで広がったのである。

それは、ファンがアイドルに人生のパートナー的役割を求めるようになったことと表裏一体である。バブル景気の終焉から始まり、戦後の経済復興を支えた共同体や組織(家族、学校、企業)の破たんが見え始めた平成の社会において、個人は孤立しがちになる。平成アイドルは、そうした個人に寄り添い、ともに手を携えるパートナー的存在になったのである。

アイドルのパートナー化は同時に、アイドルとはどうあるべきかを語るアイドル論を活発にする。「芸能」を語ることは誰にでもできるわけではないが、「人生」を語ることは等しく誰にでも可能だからである。AKB48においても、芸能評論家などとは異なる論客がアイドル論を戦わせていたことは記憶に新しい。また中川翔子のように、饒舌にアイドルについて語るアイドルオタクのアイドルが登場したのも昭和にはなかったことだ。平成アイドルの特質は、そうしたアイドル論の視点を繰り込んでアイドルシーンそのものが展開していくところにもある。

 そんなアイドル論的視点が浸透した証しが「プロデューサーの時代」の到来である。

 90年代以降、私たちはアイドルだけでなく、そのアイドルをプロデュースする人物にも注目するようになる。なぜなら、アイドル論的視点を身につけたファンからは、プロデューサーが自分たちの延長線上にある存在と捉えられ、批評の対象になるからである。


示唆に富む良記事。長いけど読み通す価値があると思う。

様々なことが手際よく語られてるけど、なかでも特にオモシロく感じられたのが、上記引用部分。つまりは「アイドル」の哲学化ということ。安直な議論になるけど、須藤さんのような存在様式は、言わば必然ということになる。そういう意味では、いささか凡庸ということになるのかも知れない。ちなみに批難の意図はないよと念の為。

太田 省一氏の署名記事。 ググってみるとなるほどなという感じ。

ダークマター

2018年04月06日 | AKB
女優道を突き進む、「前田敦子」のルーツを探る [FRaU]

彼女が演じる市井の人々は、アイドルの持つ特別な華やかさとは一転、人間としての抜群のリアリティがある。

「王道はいってないなって、自分でも思いますよ。アイドルから女優になった場合、キラキラした女性の役を演じることが多いのかなと思うことはありますけど、私はそうならなかった。それは、私を呼んでくれた監督たちが、そういうお芝居を求めてくれたからだと感じています」


既述のごとく、前田さんが演じる姿というのは「人間としての抜群のリアリティ」というのとは微妙に違うように思う。現状、いちばん近い比喩は「ダークマター」としてるけど、つまりは隠れた謎の巨大な質量のような存在様式ということ。

御本人の意図とは関係なく、その重力波に相当する力が、周囲に謎の曲率を発生させてしまう。あるいは前田さんを動かすには、それだけの手腕という名のエネルギーが必要となる。それこそ秋元康氏のように、故蜷川幸雄氏のように。

映画「さよなら歌舞伎町」

至言