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🚞京阪特急全てにプレミアムカー連結21/01より 20/05/12

2020-05-12 23:23:00 | 🚃 鉄道

乗りものニュース編集部 より

 京阪電鉄は2020年5月12日(火)、座席指定特別車両「プレミアムカー」を3000系電車の全編成に組み入れ、2021年1月からサービスを開始すると発表。

「プレミアムカー」は現在、特急用車両の8000系電車に連結されて営業していますが、3000系でも6号車に新造した「プレミアムカー」が組み入れられ、昼間は原則としてすべての特急列車で「プレミアムカー」のサービスが提供されるようになります。

 3000系「プレミアムカー」は、基本的に8000系「プレミアムカー」の機能やデザインが踏襲されますが、乗降用ドアは3000系一般車両と同じ両開きが採用されるとともに、側窓の形が統一されます。

 座席の前後間隔は8000系の1020mmから、3000系は1040mmに拡大。さらに両端部の壁の構造を見直し、従来、壁面テーブルやインアームテーブルだった座席にも大型テーブルが設置されます(一部座席を除く)。

 行先表示器は、側窓の複層ガラスの層間に液晶ディスプレイを内蔵したAGCの「infoverre Windowシリーズ Barタイプ」を採用。これはAGCによると鉄道車両の窓用ガラス(車外向け)としては世界で初めての例といいます。省スペース化や反射軽減などを実現しています。

「プレミアムカー」はリクライニングシートが2+1列で並んでおり、大型テーブルや電源コンセント、専属アテンダントによるサービスなどが提供されます。利用は乗車券のほか、プレミアムカー券が必要です。

 プレミアムカー券は予約専用サイトや特急停車駅で購入できますが、本数拡大にあわせて、今後、ホーム上でも購入できるようキャッシュレスの券売機が設置されます。クレジットカード(主要ブランド)や各種交通系ICカード、QRコード決済などに対応する予定です。

💋有料が増える…
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🚶‍♀️…仏徳山:朝日山 🔭200512

2020-05-12 17:23:00 | 🚶 歩く
🚶‍♀️…右岸堤防道…同迂回路…早蕨の道…仏徳山遊歩道…同展望台…同山頂…朝日山山道…同観音堂…同展望台…同山頂…裏山道…仏徳山展望台…同遊歩道…源氏ミュージアム小径…駅前…右岸迂回路…>
🚶‍♀️11840歩2kg48F+939歩2kg
強風:仏徳山展望台25度:朝日山観音堂25度
 黒揚羽:仏徳山山頂と朝日山山道
遠望は霞む、遊歩道は椎の木の花?で黄色に
それなりにきれい。そして栗の様な匂いが
 
 
夕)🚙↔︎Frマート
 
🔭深夜)うまくいけば//13日Am0:30時頃~2:45
南東から南の空で半月と木星と土星が接近し3天体が同時に見える珍しい観測チャンス!更に離れて火星が>>月と木星と土星が三角形に見えるも📷では土星写らず…残念
Tkd、Sto から見れた連結有り。
 
遊歩道一面に椎の花




源氏物語ミュージアム小径の青紅葉










 
深夜 月と木星と土星🪐
 月と木星と土星 🪐は暗く写らず

画面右上に木星,



 
 
🆕豊臣秀吉が最晩年に築いた京都新城の石垣と堀(京都市上京区・京都仙洞御所) :京都新聞2020/05/12より
 豊臣秀吉が生涯最後に築いた「京都新城」の本丸を囲う石垣や堀が、京都市上京区の京都仙洞御所内の発掘調査で見つかったと、市埋蔵文化財研究所が12日発表した。新城の遺構が確認されたのは初めて。石垣は上部が破却されており、関ヶ原の戦いの前に一部が壊されたとの逸話に添う。秀吉晩年の政権構想や死去後の政変を考える手掛かりになりそうだ。

 京都新城は天皇が住んだ内裏の南東側に築かれ、1597年に完成。32万平方メートルの敷地を占め、翌年に秀吉が死去すると、妻の高台院(北政所)が屋敷とした。江戸時代になり、仙洞御所・大宮御所が造営された。

 石垣は自然石を積み上げた野面積みで、南北8メートル分が見つかった。下半分の3~4段が残る一方、上半分が意図的に壊され、当時の高さは2・4メートルほどあったとみている。

 石垣と同規模の堀も見つかり、多量の土や小石で一気に埋められていた。埋土には石垣を落とした転落石が含まれ、石垣も埋め立てと同じころに壊されたとみられる。秀吉好みの桐や菊の文様の金箔瓦も出土し、秀吉による京都新城の遺構と判断された。

滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)の話
 書き残された文献が少ない幻の城だけに、発掘調査で立地を確定的にできた意義は大きい。まだ片りんが見えたにすぎないが、豊臣秀吉が平安宮跡でかつて築いた関白の城「聚楽第(じゅらくてい)」に匹敵する規模や構造だった可能性がある。息子・秀頼への後継に向け、新城を藤原道長の土御門第跡にあえて築き、関白に就く豊臣家の家柄や権勢を象徴的に示そうとしたのではないか。
 
(毎日新聞)
当時の公家の日記などによると正式名称はなく、「太閤御屋敷」などと呼ばれていた。京都御所の南東にあり、屋敷の範囲に触れた日記の記述をもとにすると、敷地面積は甲子園球場約8個分にあたる約32ヘクタール。息子の秀頼に官位を授ける際に使われたほか、秀吉が1598年に死去した後は正室の北政所が利用した。敷地は徐々に縮小し、1624年に北政所が死去した後に完全に壊されたとされる。
 
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