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【月に名前を残した江戸の天文学者】 麻田剛立 ~ケプラーの法則を自力発見し日食を的中させる 202312

2023-12-25 22:32:00 | ¿ はて?さて?びっくり!
【月に名前を残した江戸の天文学者】 麻田剛立 ~ケプラーの法則を自力発見し日食を的中させる  麻田剛立 
 草の実堂 より 231225  

 
 麻田剛立(あさだごうりゅう)とは、江戸時代の中期に活躍した日本の天文学者である。
幼少の頃から天体に興味を持ち、独学で天文学と医学を学び「ケプラーの第3法則」を独自に発見した。

 剛立はケプラーの法則を用いて、1年近く前に「日食」の日時を予言し的中させるという偉業を成し遂げ、更に日本で最初の月面観測図を記したことで名声を高めた。

 その功績から後世、月面の数あるクレーターの中に日本人名「Asada(アサダ)」と名付けられたクレーターが存在している。

 江戸の天文学者と言えば、ベストセラー小説「天地明察」で話題になった渋川春海(しぶかわはるみ)が有名だが、そのおよそ100年後に日本における新しい天文学の道を切り開いたのが麻田剛立だ。

 彼の弟子には日本地図を作った伊能忠敬の師である高橋至時と間重富がいる。

 今回は、天体に魅せられ日食を的中し、月のクレーターにその名を残した江戸時代の天文学者・麻田剛立の生涯について解説する。

⚫︎出自と天体への興味
 麻田剛立は、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)の儒学者・綾部安正の四男として享保19年(1734年)に生まれた。
 幼名は「庄吉良」、名は「妥彰」、後に「剛立」と号す。
ここでは剛立と記させていただく。

 子供の頃から自然や天体に興味があった剛立は、なんと5歳の時に太陽と影の関係性に気づく。
 庭に竹の棒を立てた時に、竹の根本から長い影を伸ばしていることに気づき、その影を小石で強くなぞった。
 こうして影を1日中なぞり続けた結果、影が太陽に連動して動くことを発見したのだ。
影の観測を1年間続けたことで、季節によって影の長さが違うことにも気がついた。
 その時、6歳であった剛立は幼少期から「神童」と呼ばれ、星の名前を正確に記憶していたという。

 11歳のある日、剛立の母が神社の前を通りかかった時に7~8人の子供たちが遊んでいたが、一緒に遊んでいたはずの剛立がいなかった。
母が家に帰ると、剛立は空を見上げて紙切れを持っていた。
 母から「何をしているの」と聞かれた剛立は「太陽が南中(真南の空に来ること)した時の高さと、太陽が昇ってから沈むまでの間の影の長さの変化を記録して、計算してみようと思った」と答えた。

 剛立は夜になると紙切れを持って庭に出て、今度は夜空に浮かんだ月がどの星座の間を移動していくかを観測して記録した。
 昼夜を通して観測と計算をする日々(1日に10~16時間)はなんと4か月ほど続き、剛立の体を心配した母はついに観測を禁じてしまう。
だが、剛立は母の忠告を無視して観測を続けたという。

 父の安正は「学問で死んだ者はいない、好きにさせなさい」と言って剛立の観測を許した。
剛立が後に偉大な功績を残せたのも、父の教育に対する寛容な姿勢があったからかもしれない。

⚫︎日食を的中
 16歳の時、太陽と月の動きを把握していた剛立は、数日先の太陽と月の動きを予測できるようになっていた。
 ある日、剛立は「日食が2日後に起きる」と予測するが、当時幕府が作った暦にはその日に日食の予報は書かれていなかった。
 そして2日後、予想通り日食が起きたが、剛立は公には発表せず幕府の暦の間違いは自分の胸にしまっておいた。

 青年期(20歳頃)には本格的な天体観測を行い、独学で天文学に没頭しながら「傷寒論」などの医学書も読んで勉強し、藩医もしていたという。
 そして前述した通り、剛立は「ケプラーの第三法則」を独自に発見していた。
ケプラーの法則とは、ドイツの天文学者・ケプラーが提唱した惑星の動きに関する三つの法則である。

第一法則:惑星は太陽をその1つの焦点に持つ楕円軌道の上を運動する。
第二法則:惑星と太陽を結ぶ線分が同じ時間に描く面積は等しい。
第三法則:惑星の太陽からの距離の3乗と惑星の公転周期の2乗の比は一定で、すべての惑星で同じである。

 その後、ニュートンが「万有引力の法則」を発見するが、その手がかりとなったのがこの「ケプラーの第三法則」である。

 当時の日本では、第一と第二の法則は漢籍によって伝来していたが、第三の法則はまだ認知されていなかった。
 だが、剛立は独自に「ケプラーの第三法則」を発見していたという説がある。(※実際に剛立の弟子たちがまとめた「麻田翁五星距地之奇法」に第三法則の計算法が記されているが、剛立が提唱したものなのか、蘭学所などで見聞きしたものをまとめたのか、その正確な記録は残念ながら残ってはいない。)

 剛立は未知の領域に考えを巡らせ、大きな一歩を踏み出す姿勢を常に持っていた。
16歳の時に日食を的中させた剛立は、それから12年後に独自の「ケプラーの第三法則」を用いて28歳の12月に、翌年の9月1日に日食が起こることを予測する。
 1年近くも先の日食の日付まで予測した剛立だったが、今回も幕府が作った暦には日食の予報はなかった。
 この頃の暦は、宝暦5年(1755年)に幕府に採用されたばかりの最新の「宝暦甲戌元暦」だったが、町の人々は「この男は何を言っているのか?」という目で見ていたという。

 誰も剛立の予測を信じない中、剛立を信じたのは同郷の有名な儒学者である三浦梅園(みうらばいえん)だけであった。
 三浦梅園は、豊後国出身の医師であり儒学者でもあった。
20歳頃から天地の成り立ちや自然現象に惹かれて「条理学」を唱えていた自然哲学者でもあり、複数の藩主から招聘の声がかかった優秀な人物だ。
 剛立と梅園は、天文学を通じて交流があった。
そして、宝暦13年(1763年)9月1日、杵築の町民たちが空を見上げる中、見事に剛立の予測は的中し、日食が起きたのである。

 まさか剛立の予測が当たるとは思っていなかった町民たちは大歓喜し、この偉業で剛立は天文学者として名を上げ、町の子供たちから「先生」と慕われるようになった。
 ただ、九州の地方の藩での出来事だったので特にそれ以上のことはなく、その後しばらくの間、剛立は藩医として生計を立てていた。

⚫︎月面観測
 明和8年(1771年)または安永元年(1772年)頃、剛立は向学心が抑えきれなくなったのか、脱藩して大坂へ向かった。
 追っ手の目をくらますため「麻田剛立」と改名し、大坂で医師を生業としながら天文学の研究を続けたのである。
 この頃になると漢訳天文書(中国で翻訳された西洋の天文学書)が民間でも入手可能になり、「崇禎暦書物」を基盤に「暦算全書」や「暦象考成上下編」など、むさぼるように天文学書を読破しその内容を吸収していった。
 しかも、ただ知識を吸収するだけではなく、それを検証するために様々な観測を始めるのだ。
 剛立は望遠鏡や反射鏡などの観測装置を改良し、望遠鏡のガラスを自分で磨いて独自の観測装置を製作するなど、天体観測の精度を上げるために試行錯誤を重ねる。
 そして理論を実測で確認し、独自の「消長法(しょうちょうほう)」という計算法をまとめた。
 しかし、当時の望遠鏡は口径の小さい屈折望遠鏡であったため、観測の精度には限界があり、天体の細部まで観察することはできなかった。
 安永7年(1778年)剛立は、オランダ人からより精度の高い、当時としては極めて珍しい口径の大きな鏡仕立ての反射式望遠鏡を購入する。
そして、この高性能な反射式望遠鏡を使って、より詳細に月面の風景を観測したのである。

 その様子を事細かく図でスケッチし、日本人として初めてクレーターを含む月面観測図を描くという、二度目の偉業を成し遂げている。
 月の地表は、それまで遠目で見ていた月の外観とはまったく異なり、細かい起伏にとんだ驚くべきものだった。
 初めて月面を見た剛立は、月を「重い疱瘡の病にかかった人のようだ」と表現し、クレーターを「まるで池のようだ」と言って感嘆したという。

 この年に、8年後に起こる日食の情報を豊後にいる三浦梅園に手紙で送り、月面観測図も併記したという。
 この手紙は所在不明とされていたが、2009年に鹿毛敏夫氏が「月のえくぼを見た男 麻田剛立」を書くにあたり、剛立の様々な資料を収集した際に、現所蔵者と手紙(月面観測図)の現物を発見している。

⚫︎後進を育成 ~伊能忠敬は孫弟子
 晩年の剛立は、大坂で町医者として働きながら天体観測を続け、やがて「先事館」という天文学を教える私塾を開いた。
 剛立が作ったオリジナル暦「時中暦(時中法)」は高い精度を誇り、当時の人たちにとても評判が良かった。
 この日本初の天文学の私塾「先事館」からは多数の優秀な弟子が輩出されている。
弟子の中で有名なのは、江戸幕府の改暦(寛政の改暦)で功績を上げた高橋至時(たかはしよしとき)と間重富(はざましげとみ)などである。
 高橋至時と間重富の弟子には、その後、日本地図を歩いて作った伊能忠敬(いのうただたか)がいる。

 つまり伊能忠敬は、剛立の孫弟子ということになる。
寛政7年(1795年)、当時の幕府の老中首座・松平定信は、新しい暦の作成をするため、剛立に改暦の仕事を依頼した。
 しかし、その時剛立は59歳と老齢であったこともあり、愛弟子の高橋至時と間重富を幕府に派遣している。
 伊能忠敬は至時から天文学を学び、重富から正確な測量技術を学び、それらを用いて後に日本地図を作った。
 つまり、剛立の正確な天文学がなければ、伊能忠敬の正確な日本地図もなかったのかもしれない。
 他の弟子には「夢の代」を書いた山片幡桃(やまがたばんとう)がいる。
 また、江戸後期の上方を代表する儒学者で徳川家の伝記「逸史」を書いた中井竹山と、その弟・中山履軒とも交流があり、二人は剛立から天文学を学んだ。

 前述した豊後の三浦梅園とは、長きに渡って交流が深かったようである。

 当時の学問は非常に閉鎖的だったが、剛立は天文学者として非常にオープンで、日本各地の研究者と交流し、知識を占有することなく進んで提供した。
 また、月食の観測を一般の人たちが参加できるように公開イベントにしたこともあったという。
 独学で探求し、自分の目で観測し、その成果を惜しみなく提供した剛立の姿勢は、日本の科学者として先駆的なものだった。
 寛政11年(1799年)5月22日、幼い時から天体に魅せられた豊後の少年は、65歳でその生涯を閉じた。

⚫︎おわりに
 麻田剛立が亡くなってから約180年後の1976年、国際天文学連合が剛立の功績を称え「タルンティウス-C」と呼ばれていた直径12kmの月のクレーターを「Asada(アサダ)・クレーター」と名付けた。
 その場所は「危機の海」と「豊かな海」と呼ばれる場所の中間に位置している。
剛立と同じように日本人の名前が付けられたクレーターは10個あるが、剛立は江戸時代に初めて月のクレーターを確認・観測した人物で、日本の天文学の立役者とも言える人物だったのだ。

▶︎参考 : 月に名前を残した男 江戸の天文学者 麻田剛立
▶︎投稿 【月に名前を残した江戸の天文学者】 麻田剛立 ~ケプラーの法則を自力発見し日食を的中させる は 草の実堂 に最初に表示されました。


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私たちには「資本主義の道しかない」は本当なのか 人類学者が示した「もう一つの世界」 202312

2023-12-25 21:56:00 | 気になる モノ・コト

私たちには「資本主義の道しかない」は本当なのか 人類学者が示した「もう一つの世界」
  現代ビジネス より 231225  酒井 隆史


 日本でも大きな話題を読んだ『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』。「『ブルシット・ジョブ』という言葉は知っている」「本は読んだことがある」という方も多いでしょう。
 しかし、作者のデヴィッド・グレーバーがどのような人物だったのかを知っている人は、あまり多くないかもしれません。研究の傍ら、さまざまな社会運動に関わる続けた彼は、2020年、59歳の若さで亡くなりました。

『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』著者の酒井隆史さんが、グレーバーの功績を振り返ります。

⚫︎社会運動に飛び込んだ半生
「もう一つの世界は可能だ」という言葉がある。1990年代後半からゼロ年代にかけて世界的に展開した「グローバル・ジャスティス運動」のスローガンである。

 その時、世界では、巨大企業や金融、先進諸国の政府が結託して、途上国に膨大な負債を押しつけ、融資や返済の緩和の条件として、社会保障や医療教育予算の削減、貿易の自由化、国内の規制緩和を要求していた。
 もちろん犠牲になるのはその国の特に弱い立場にある人である。のみならず先進国内でもおなじことが進んでいた。これが冷戦終結後、つかの間の平和の幻想がさめたあとの冷厳な現実だったのである。

 労働者階級の両親をもつNYっ子のデヴィッド・グレーバーは、人類学と歴史学に惹かれ、12歳の頃にマヤ文字の解読に熱中する。ハーバード大学のマヤ学者の目にとまり将来が約束されるものの、シカゴ大学大学院で人類学を専攻した。
 博士論文を書き終えた頃、グローバル・ジャスティス運動と遭遇する。1999年のシアトルの反乱である。アメリカ圏の貿易自由化に反対してWTO閣僚会議の開催地シアトルに世界中の人々が集まった。そして、先住民、自然保護団体や女性の権利組織、労働組合、若者たちが集まって激しい抗議行動をくり返した。その結果このWTOのもくろみは撤回されることになる。

 たまたまこの運動に飛び込んだかれが目にしたのは、多様な思想信条をもった人々が、長い時間をかけて合意を形成しながら、みなのやりたいことを最大限に発揮しようとする実践だった。「あたかもすでに自由であるかのように」対等な関係のうちにたがいを尊重し合う世界を形成する試みがそこにあったのだ。
 クエーカー教徒やフェミニスト、アナキストたちが時間をかけて養ってきた作法だった。グレーバーの目に、マダガスカルでのフィールドワークで遭遇した共同体のあり方が重なった。かれがそこで観察したのは、手の込んだ合意形成過程と国家機能のほぼ停止したなかで自律空間をいとなむ共同体だったのである。

 運動への関与をつづけながら、かれは人類学やその領域を超えるすぐれた研究や文章を次々と発表する。2011年には全米を席巻した「オキュパイ運動」に飛び込みながら、「負債」を人類史的に考察した長大な著作を公刊する。
 人類学者というより古典的人文学者としての力量をみせつけた『負債論』は、「味気ない」専門知識の縦横無尽の駆使にもかかわらずウィットに富んだ語り口で国際的ベストセラーとなり、「最も影響力ある国際的知識人」の一人となった。その後も沸騰する泉のように意表をつくアイデアを著作に結実させていった。
 『官僚制のユートピア』では、現代がイメージに反して人類史に類をみない「全面的官僚制化」の時代であることを鮮やかに示してみせた。『ブルシット・ジョブ』では、これもイメージに反して「クソどうでもいい」仕事であふれそれが人々を苦しめている現代世界像を提示して世界的な反響を呼んだ。さらに未刊、未訳の重大なテキストも多数残っている。

⚫︎グレーバーが示した「もう一つの道」
 かれの死は、そんな未到の高みにまで上昇していく知的冒険の只中のものだった。

その死を悼む声は世界中から響いてくる。研究者のみならずかれに接してきた世界中の闘う人々からである。
 かれの知的活動は「この道(資本主義)しかない」というポスト冷戦イデオロギーに断固として抗い、人類のもつはてしない可能性を開いてみせるものだった。
 かれの仕事に専門領域を超えた普遍性を与えていたのは、その可能性への確信だったことはまちがいない。

 その早逝がアカデミズム内外の人々にショックを与えている理由のひとつは、かれが「これからはじまる時代」の人だったことである。
 かれは、崩壊しつつあるこの世界の行く末にわたしたちが慄くなかで、広大な視野と強靱な知性の裏づけをもって楽天的に来るべき世界の礎をこつこつと築いていた。その途上だったのである。

 それでも、かれの教えてくれたものは多くの人の胸に残った。いつだって目を見開いて、この世界にひしめく可能性をみつめてみることが大切だということ。
 だれも暴力をもって服従を強いられることなく、対等に、たがいを尊重して生きられる自由な世界、そんな「もう一つの世界は可能だ」ということ。それである。
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🥮 自分へのご褒美にも♡ ジェイアール京都伊勢丹で買えるお土産7選 202312

2023-12-25 21:24:00 | 気になる モノ・コト

自分へのご褒美にも♡ ジェイアール京都伊勢丹で買えるお土産7選【京都市下京区】
 きょうとくらす  より 231225 


 各線・京都駅すぐの『ジェイアール京都伊勢丹』(京都市下京区)では、美味しいだけじゃなく、京都らしさを演出できる手みやげがずらり! 
 京都観光のお土産や手みやげにもぴったりなものばかりです。

 そこで今回は、きょうとくらす編集部イチオシの『ジェイアール京都伊勢丹』の地下1階で買えるお土産をご紹介します。
 銘菓ばかりなので、「まだ食べたことない」という方、損しているかもしれませんよ!


1:満月「阿闍梨餅(あじゃりもち)」
『ジェイアール京都伊勢丹』の地階で平日でも行列ができているのが『満月』の『阿闍梨餅』(1個 141円)。丹波大納言の粒餡を、秘伝の餅生地で包み、焼き上げた半生菓子です。
 しっとりとした餅生地がなんとも独特の食感♡ 自家製餡との相性も抜群で絶品で堪りません!
 1個ずつバラでの購入も可能ですが、手土産用に箱入りや竹籠入りも販売されています。『阿闍梨餅』(10個入 1,523円)をはじめ15個入、20個入など、入数のラインアップが豊富なので、必要数に応じて選べるのも魅力的です。


2:マールブランシュ「お濃茶ラングドシャ 茶の菓 16枚入」
 繊細な口どけのラングドシャに、ミルク感豊かなオリジナルのホワイトチョコレートが挟まれた『お濃茶ラングドシャ 茶の菓』(16枚入 2,401円)。ひとくち食べれば、深みある濃茶の風味が口いっぱいに広がります♡
 使用されているお濃茶は『茶の菓』のためのオリジナル。こだわりの茶葉を丁寧に見極め、最もふさわしい色・味・香りの究極のお濃茶に調合されています。


3:鶴屋吉信「京観世・柚餅」
 小豆本来の素朴な味と香り、心地よい食感、やさしい甘さが特徴の『京観世』と、豊かで奥深い味わいの『柚餅』がセットになった『京観世・柚餅 詰合せ(6個入)』(2,462円)。
『柚餅』はやわらかな求肥の生地に和三盆がまぶされています。柚子の香りがふわりと広がり、もちもち食感がたまりません♡


4:パティスリー洛甘舎「洛甘バターサンド5個入」
『洛甘バターサンド』(5個入 1,485円)は、白あんを生地に練りこんで、口溶け良く仕上げられた人気のバターサンドです。
 抹茶味は、宇治抹茶で風味付けしたバタークリームが濃厚な味わい♡ プレーンは国産バター、チョコ、メイプルシロップで風味付けされたバタークリームが絶品です。


5:ベルアメール京都別邸「瑞穂のしずくアソート 10個」
 日本の素材と美しさにこだわり抜いた世界のどこにもない、『ベルアメール 京都別邸』のショコラ。『瑞穂のしずくアソート 10個』(3,240円)は、枡に見立てたショコラに様々な日本素材のジュレを流し込んで作られています。
 京都の酒米『祝』を使用した日本酒をジュレにした『日本酒』、京都府産の抹茶や愛媛県産の新宮茶など、日本各地のお茶をジュレにして流し込んだ『お茶』、フルーティーな香りを楽しめる『国産果実と蜂蜜』の3つのカテゴリの10粒が詰め合わされています。


6:梅園 oyatsu「みたらしバターサンド」
『梅園 oyatsu』名物のみたらし団子のたれが、大吟醸がふんわり香るバタークリームと一緒に、さっくり焼き上げられたクッキーで挟まれている『みたらしバターサンド』(5個入 1,350円)。
 冷蔵庫でしっかり冷やすとさらに美味しい♡ コーヒー、紅茶、お抹茶はもちろんのこと、温かいほうじ茶やカフェ・オ・レにも合う逸品です。


7:伊藤軒/SOU・SOU「SO-SU-U・羊羹カステイラ」
 1864年創業の京都の老舗菓子メーカー『伊藤軒』のお菓子と、『SOU・SOU』のデザインのコラボレーションで生まれた、なつかしくも新しい『SO-SU-U(ソスウ)・羊羹カステイラ(和三盆)』(20個入 2,484円)。
 玉子を効かせた『SO-SU-U』型のカステイラに和三盆の羊羹がかけられています。羊羹のしっとり加減がたまらない♡ ポップな専用箱に一つ一つ個包装されたカステラが入っているので、大人数に配るお土産としてもおすすめです!


【施設情報】ジェイアール京都伊勢丹
住所:京都府京都市下京区烏丸通塩小路下ル東塩小路町
電話番号:075-352-1111(大代表)
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「大谷翔平はアメリカで大人気」のウソ 「海外サマから日本人が認められた」が大好きな国民性 202312

2023-12-25 21:05:00 | なるほど  ふぅ〜ん

「大谷翔平はアメリカで大人気」のウソ 「海外サマから日本人が認められた」が大好きな国民性(中川淳一郎)
  デイリー新潮 より 231225 新潮社


 ドジャース・大谷翔平選手とオリックス・山本由伸選手という、MLBにおける大注目選手に関し、日本のメディアもネットも沸騰中。今後、スポーツ紙やテレビ局がこの二人に日本人番記者をつけて緻密な報道をすることでしょう。

 この報道、アメリカにかつて住んだ身からすると、恥ずかしいんですよ。何しろ、「日本人のスターを『全米が絶賛!』と報道したくて仕方がない」という状況が1995年の野茂英雄選手の渡米以降続いている。
 日本の選手のことを大多数の米国人が知っているかのように印象付けますが,実際は違う。

 その「知られたくない真実」をバラしたのが、在米お笑いタレントの野沢直子さん。
今年8月、ラジオ番組に出演した時のこと。お笑いコンビ・ナイツの塙宣之さんが大谷選手について「『米では人気がない』と言う人がいるが、本当はすごくありますよね?」的なことを質問。
 すると、野沢さんは大要こう答えました。
「人気はあるけど、米の人気スポーツはバスケとアメフトなの。野球は地味なイメージがあり、大谷さんが全米で大人気ってことではないと思います。炎上したら申し訳ありません!」

 これには思わず膝を打ちました!(ダサい表現ですね) 何しろ、この通りなのです。野沢さんの言い分の背後には以下があるのでは。

(1)米では野球はそれほど人気がない。むしろダサくてダラダラしてつまらない競技だと思われている

(2)米国人は大谷選手に特別な感情はない

(3)だから「大谷選手が米でいかに偉大な人物扱いされているか」というコメントを私から取ろうとするのはちょっと困るんだけど……。

(4)でも、そのコメントが欲しいんだったらリップサービスでやるけど……。

 この根底にあるのは、米のスポーツ文化です。基本的には(1)地元チームを応援する(2)他のエリアのチームのことはどうでもいい(3)優秀な選手は国籍関係なく賞賛する──の三つを理解しなくてはならないのです。

 翻って日本の場合は、
(1)日本人選手が海外様から認められていると考えたい
(2)これまでなじみ深い「わが息子・娘」的選手が海外で活躍したら親の気持ちで愛でたい
(3)試合結果はどうでもいいけど、その日本人選手の活躍だけを知りたい。

 でもね、米国人は根本的にMLBを含めたプロスポーツの楽しみ方が違うんですよ。何がなくとも「地元チームを応援する」だけです。しかも、海外リーグでプレーする米国人のことは大きく報じない。

 他のエリアの選手に対しては、「なんかすげーヤツがいるらしいな」程度の話で、実際に自分が応援するチームに移籍する可能性があれば関心を持つ。
 それなのに日本のメディアは「全米がこの日本人選手を絶賛!」と報道をする。
やらせか!特に印象深いのが、かつてシカゴ・カブスに移籍した福留孝介選手のことをシカゴの女性に「セクシーね」と言わせたことです。

 日本人のテレビクルーが寄ってきたからなんとかリップサービスしなくちゃいけないよね、と思い適当に言ったことが日本メディアでは「全米が大絶賛」になる摩訶不思議なのでした。それに喜んじゃいかんよ、見下されてるのよ。



▶︎中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)1973(昭和48)年東京都生まれ。
ネットニュース編集者。博報堂で企業のPR業務に携わり、2001年に退社。雑誌のライター、「TVブロス」編集者等を経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』等。
▶︎まんきつ
1975(昭和50)年埼玉県生まれ。日本大学藝術学部卒。ブログ「まんしゅうきつこのオリモノわんだーらんど」で注目を浴び、漫画家、イラストレーターとして活躍。著書に『アル中ワンダーランド』(扶桑社)『ハルモヤさん』(新潮社)など。

「週刊新潮」2023年12月21日号 掲載
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「バカが足を引っ張る民主主義は、エリートが率いる権威主義より効率が悪い」は本当か? 202312

2023-12-25 20:48:00 | なるほど  ふぅ〜ん

「バカが足を引っ張る民主主義は、エリートが率いる権威主義より効率が悪い」は本当か?
 デイリー新潮 より 231225  新潮社


 米国をはじめとする民主主義国家と、中国・ロシアなどの権威主義国家のあいだで、激しい体制間競争が行われている。

「体制間競争」の時代

 かつて、ソ連の道路に存在した偉い人専用の“特殊な構造”とは

 若い人びとの間では、「バカな大衆が足を引っ張る民主主義は、エリートが率いる権威主義に比べて効率が悪い」という見方が広まっているという。一方、かつての冷戦期を知る年配層の間では、むしろ「権威主義は民主主義に比べて効率が悪い」という見方が常識であった。

 戦後の国際政治学をリードした高坂正堯氏(1934~1996年)は、1990年に行われた連続講演において、権威主義体制のソ連共産党が、民主主義体制の米国に打ち負かされた理由を考察している。はたして、その議論は現在も通用するのか。当時と現在とでは、「変わった部分」と「変わらない部分」の両面があるだろう。
 
 以下、高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した話題書『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の中から一部を抜粋する。ぜひ読者の皆さんにも考えてみてほしい。

 ***

 現代になってはっきりしたのは、共産主義には大きな欠点があるということです。
 
 第一に、ユートピアを作ろうとしたが、できたのはユートピアではなかった。
しかし「できなかった」というわけにはいかないので、「これがユートピアだ」と言い続けなければならない。そのような嘘で固めた社会の有様を、ジョージ・オーウェルが1949年に発表した『1984年』で描いています。
 
 仮想の国の話ですが、省庁の名前が、たとえば、宣伝省は「真理省」、軍事省は「平和省」、乏しい物資を配給するのは「豊富省」となっている。あべこべなのに、繰り返し国民に嘘を吹き込み、洗脳することで体制を維持する。そのような共産主義の姿を予言するところが、オーウェルの小説にはありました。
 
 第二に、特定のセクションに決定権限が集中していると、システムを変化させるのが難しいことです。あらゆるシステムには欠陥がつきものですが、組織に柔軟性があれば試行錯誤しながら軌道修正していくことが可能です。
 そして、資本主義や民主主義のいいところはいろいろな人が決定できる点にあります。すると、些細なことから思いがけない変化が生まれることがある。
 社会主義のように、なにごとも上にお伺いを立てなければならず、建前で「成功した」と宣言してしまうと、その決定は誤りであるはずがないので、あとあと修正できなくなります。
 
 民主主義の場合、くだらない目論見とくだらない動機から案外いいことが起こりますが、共産主義は素晴らしい理論と素晴らしい動機から恐ろしい社会を生み出し、さらに引っ込みがつかなくなった、そのように言えるのではないでしょうか。

 世の中には中央で物事を決めて、一糸乱れずやるべきだという、理論家肌の人もいます。正しい思想を持った人物が独裁的にやるのが、間違いがなくていいのかもしれませんが、正しい考え方を持った人ばかりではないし、そんな人でも間違うこともあります。
 また、聖人君子でも長く権力の座にいると、変化が起こりにくいのです。

立ち遅れた技術革新
 1970年代に入り、ソ連でも「これが理想郷で、党は正しいと繰り返し聞かされてきたが、やっぱりおかしい」という声が挙がり始めました。
 たとえば、首都モスクワの道路は特殊な構造をしていて、真ん中に黄色い斜線が引いてあります。この線の中は国家にとって役に立つ人の車専用の道路なのです。普段はそこに入って運転してもいいのですが、偉いさんの車がピーポーピーポーと入ってきたとき退かないと、牢屋にぶち込まれることになる。
 
「偉い人専用レーン」だけでなく、「偉い人用小売店」もあります。ロシア市民は今のところ従順にその状態を受け入れていますが、それが資本主義よりも不平等であるとすでに気づいています。
 自分たちの社会は理想郷であるという話も?であることは明らかで、共産党による支配の正当性も揺らいでいます。

 凋落に追い打ちをかけたのは、1970年代以降に始まるマイクロエレクトロニクスの発展です。これにソ連経済がついていけない理由はまさに、社会主義体制固有の、社会の末端から変化を起こすことができない構造的欠陥にあります。
 ベルトコンベアで自動車を大量生産する場合は、その意思決定システムでも問題なかったのですが、電子工学の分野でソ連は著しく遅れをとるようになります。
 
 これはゴルバチョフ自身も認めていることで、西側と大きな差がついたのは1970年代以降と述べています。
 1973年から何度か起こるオイルショックで西側諸国が苦しんでいたときに、産油国であるソ連は怠けていたと彼は言うのですが、技術革新が進まなかった本当の理由は「民主集中制」にありました。
 一番上で計画が決まるまで何もできないのですから、半導体など作れるはずがありません。
 
 無骨な車や洗濯機を、上から命令された数だけ作っていればよかった時代は終わり、自由主義社会に技術革新において太刀打ちできなくなりました。

 ***

 まさに今、半導体をめぐり米国と中国が激しいつばぜり合いを繰り広げている。
中国企業の技術革新のスピードには目を瞠るものがあるが、一方でそれらの企業は共産党の「民主集中制」の監視下にあり、その技術力はまだ米国や台湾など民主主義国家の企業には及ばない。
 
 はたして今後の米中の体制間競争のゆくえはどうなるのか。高坂氏の語る20世紀の歴史はそれらの問題を考える際に多くの示唆を与えてくれるだろう。



※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)(新潮選書)を参考に作成されたものです。
「〈いい人〉の政治家が戦争を起こすことがある」「ロシアに大国をやめろと強制することはできない」――戦争の時代に逆戻りした今、現実主義の視点から「二度の世界大戦」と「冷戦」を振り返る必要がある。
 世界恐慌、共産主義、大衆の台頭、文明の衝突……国際政治学者の「幻の名講演」を初の書籍化【解題・細谷雄一】 『歴史としての二十世紀』(新潮選書)
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