ほとんどの人が自覚していない。兵庫県知事選から考える「ネットで正しい情報」を取得するための最低限の心得
Rocket News P.K.サンジュン
先日の「兵庫県知事選」の結果が多くの人に衝撃を与えている。
斎藤元彦知事が再選した理由が様々な角度で分析されているが「インターネット」が相当な力を発揮したと言われている。
今後はより「ネットリテラシー」が求められる時代になることは確実だが、みなさんは「正しい情報」を取得する自信があるだろうか?
⚫︎そもそも「正しい情報」とは何だろう?
兵庫県知事選ではテレビや新聞などの「オールドメディア」が偏向報道とされ、SNS等の「ネットメディア」に真実があるかのような雰囲気が形成されていた。
確かに斎藤知事在任中のテレビ報道は目に余るものが多く、私自身「偏向報道と言われても仕方ないのでは?」と感じている。
一方で「ネットに真実があったか?」と言われたら「わからない」としか言いようがなく、テレビに関しては見てないので何とも言えない。
・テレビ新聞とネットの違い
さて、大切なことなのであえて説明するが、情報を取得するツールとして考えた場合「テレビ・新聞」と「インターネット」には大きな差がある。
ユーザーから見てテレビや新聞が “受け身” であることに対し、インターネットは “自発的” に情報を取得する点が大きく違う。
当然、テレビなら時間、新聞なら紙面に限りがある一方で、インターネットはある意味で無限大。同じ情報取得ツールであっても、その特性は大きく異なる。
もし今回の知事選が “インターネットのない時代” に行われていたら、斎藤知事の再選は無かっただろう。有権者が一方的に流れてくる情報だけでしか判断が出来ないからだ。
では、インターネットに真実があるかと言えば、それもまた違う。
仮に真実を見つけたとしても、それは「自分にとっての真実」にしか過ぎないことに気付いていない人は多い。
これはテレビやネットに関係なく「信じたいものと信じる」「見たいものを見る」という人間の性(さが)に基づくもので、良し悪しの話ではない。
インターネットは関係なく、人間とはそういう生き物なのだ。
・人間の性(さが)
さらに言えば人間は哲学や真理、思想ですら自分の都合の良いように解釈する。例えばこんなことがあった。
私は幼い頃から父に「因果応報」を基本精神として育てられてきた。カルマでも業でもいい。特に悪行は自分、もしくは近しい人に必ずかえってくるから絶対にやめろ、と。
父もそれを実践しているようだったし、気付けば「因果応報」は私自身の基本精神になっていた。ところが、である。
数年前に故・安倍元首相が銃撃された際、父の口からは出た言葉は「あんなに立派な人がなんで……」であった。
因果応報の教えに従うならば「業がかえってきた」と言わねばならないし、父が毛嫌いする鳩山元首相が同じ目に遭ったら、父は「因果応報だ」とこぼしていたに違いない。
このように人間は、哲学・真理・思想でさえも自分の都合の良いように解釈する生き物なのである。
基本精神ですら、自分なりの真実を見つける方便に過ぎないのだ。
・客観性というワナ
そんな都合のいい生き物「人間」が、自分なりの真実を見つけるのは実にチョロい。
特にインターネットが登場してからは “自分なりの真実” に圧倒的に辿り着きやすくなった。
記事でもいいし、動画でもいい。なんならたった一言のコメントでもいい。
自分が信じたい内容であれば、それが即座に真実になってしまう。
さらに「自分以外にも同じ考えの人がいる」という事実が、か弱き生き物・人間にとってはとても心地が良い。
自分だけじゃない、独りよがりじゃない、客観的な意見なんだと。
この “客観性” ほど曖昧なものはなく、極論すれば客観性は “幻想” である。
なぜなら客観性をキープし続けるには、同じ量の反対意見を同じ熱量で取得する必要があるからだ。
ただでさえ人間は自分が信じたい情報しか追いかけないのに、インターネットはジャンジャン自分好みの情報をプッシュしてくる。
その状況下で客観性を保てる人間などそういないだろう。
昨今の「客観的に見て」という口上は、多くのケースで自分を正当化するための枕詞に過ぎない。
正しい情報を取得するためには、まず “客観性という幻” から脱却する必要がある。
客観性という保険を捨て「自分の考え」と認識することで、ようやく「自分は偏っていないか?」「独りよがりではないか?」と冷静になれるのではないだろうか?
また「自分の意見」だと思えば譲れるものも「客観的な意見」だと思うと、妙な正義感を生んでしまうのが客観性の厄介なところ。
民主主義において “民意” は何にも勝る絶対的原理である。その民意にすらケチをつける著名人が多いことが、客観性の危うさを現しているのではあるまいか。
きっと彼ら「自分だけではない客観的な意見」と見誤っているため、妙な正義感に振り回されているのだろう。
「自分だけの意見」と認識できれば、矛を収めることも意外と容易だ。
・人間の特性を理解する
選挙に限らず、今後は「テレビで言っていたから」「新聞に載っていたから」という時代は確実に終わる。
と同時に「自分なりの真実」をあたかも真実だと思い込む人も激増するだろう。
さらに「自分以外にも同じ考えの人がいる」という事実が、か弱き生き物・人間にとってはとても心地が良い。
自分だけじゃない、独りよがりじゃない、客観的な意見なんだと。
この “客観性” ほど曖昧なものはなく、極論すれば客観性は “幻想” である。
なぜなら客観性をキープし続けるには、同じ量の反対意見を同じ熱量で取得する必要があるからだ。
ただでさえ人間は自分が信じたい情報しか追いかけないのに、インターネットはジャンジャン自分好みの情報をプッシュしてくる。
その状況下で客観性を保てる人間などそういないだろう。
昨今の「客観的に見て」という口上は、多くのケースで自分を正当化するための枕詞に過ぎない。
正しい情報を取得するためには、まず “客観性という幻” から脱却する必要がある。
客観性という保険を捨て「自分の考え」と認識することで、ようやく「自分は偏っていないか?」「独りよがりではないか?」と冷静になれるのではないだろうか?
また「自分の意見」だと思えば譲れるものも「客観的な意見」だと思うと、妙な正義感を生んでしまうのが客観性の厄介なところ。
民主主義において “民意” は何にも勝る絶対的原理である。その民意にすらケチをつける著名人が多いことが、客観性の危うさを現しているのではあるまいか。
きっと彼ら「自分だけではない客観的な意見」と見誤っているため、妙な正義感に振り回されているのだろう。
「自分だけの意見」と認識できれば、矛を収めることも意外と容易だ。
・人間の特性を理解する
選挙に限らず、今後は「テレビで言っていたから」「新聞に載っていたから」という時代は確実に終わる。
と同時に「自分なりの真実」をあたかも真実だと思い込む人も激増するだろう。
「正しい情報」に近づくためには人間の特性を理解し「全ては自分の考え」と認識することが第一歩。客観性という甘えを捨てることで、自分の考えにも責任感が出てくる。
そして苦業であるが、自分と反対の意見にも耳を傾けることが「正しい情報」への道のりなのだろう。インターネットがオススメしてくる情報は、あなたにとって心地いいものしかない。
難易度で言えば、テレビから垂れ流される情報だけで判断していた時代の方が楽ではあった。ただ前向きに見れば、これは人間の進化である。
インターネットが誕生して数十年、情報との向き合い方が本格的に問われている。
執筆:P.K.サンジュン
Photo:RocketNews24.