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明智光秀=天海説は、本当に荒唐無稽な伝承なのか?  202303

2023-03-29 22:16:00 | ¿ はて?さて?びっくり!

明智光秀=天海説は、本当に荒唐無稽な伝承なのか?
  歴史人 より 230329  藤井勝彦


 山崎の戦い後、落武者狩りにあって殺されたといわれる明智光秀。それが実は生き延び、「天海」と名を変えて徳川家康の側近として仕えたとする伝承が残っている。一般的には、荒唐無稽な逸話として一笑に付されるような内容だが、現代に残る童謡を端緒として、もう一度検証し直してみたい。

⚫︎「かごめかごめ」の歌が意味するものとは?
 喜多院(埼玉県川越市小仙波町)にある、天海の石像。天海は喜多院で第27世住職を務めた。
「か〜ごめかごめ、かごの中の鳥は、いついつ出や〜る、夜明けの晩に、鶴と亀がすべった、後ろの正面だ〜れ?」
 いうまでもなく、誰もが知る遊び歌「かごめかごめ」の歌詞である。目隠しした鬼の周りを子供達が輪になって歌いながら回り、歌い終わった時に鬼が自分の後ろに誰がいるのかを当てるというゲームで、その時に歌う童謡だ。
 子供の頃、何気なく歌ってきたが、よくよく考えてみると、実に不思議な文面である。特に「夜明けの晩」や「後ろの正面」などは、想像力を存分に働かさなければ、解読不明というべきだろう。
 しかし意外なことに、この何気無い歌詞の中に、驚くべき秘密が隠されていると指摘する向きも少なくない。謎の歴史解明に至る、あるいはそう考えさせられる重要な意味合いをも含んでいるという説が、まことしやかに流布しているから紹介しておこう。

 まず重要なのが、籠の中の「鳥」。これを明智光秀の先祖である土岐(とき)氏のこととみなすのが重要なポイントである。「とき」が「とり」に転じたとの見方はかなり強引とも思えるが、あり得ないことではないだろう。

 それが「いついつ出や〜る」と案じているのだから、これは光秀の出現を期待していることになりそう。その時期が、「夜明けの晩」だとか。「晩」を「終わり」の意味に捉えれば、夜明けの終わり、つまり「日の出」とみなすことが可能だ。「日の出」といえば「日光」、想像力をたくましくすれば、「日光東照宮」まで想像できる。そこにあるのは、徳川家康を神格化した東照大権現を祀る神社である。

 問題は「鶴と亀」。これが「すべった」とわざわざ歌にするのが、何とも奇妙だ。ここでも想像力を駆使してみると、導き出されるのが、「空を舞う鶴=天」「水中に生きる亀=海」との見方である。天と海を繋げれば「天海」となる。そう、お気付きのように、徳川家康の側近として仕えた天海大僧正その人である。その名が密かに、この文節に込められているというのだ。

 しかも、「鶴=敦賀」「亀=亀岡」とみなせば、ともに領地としていた光秀をも暗示していることに。その後の「すべる」を「滑る」ではなく「統べる」とみなせば、天海及び光秀が統治するという意味にも読み取れるとか。
 また、次の「後ろの正面」もかなり強引ではあるが、光秀の出身地である岐阜県可児(かに)市から日光東照宮に向かって後ろを振り返れば、大阪府岸和田市にある本徳寺の方を向くことを示しているという。

 本徳寺は、明智光秀の肖像画があることで有名。つまりこれらを総合すれば、籠の鳥のように閉じ込められた、つまり死んだかのように見えた(これは筆者の類推)明智光秀が、天海として生まれ変わって江戸幕府を統治したということになるのだ。

⚫︎明智光秀=天海説の真偽は?
 この見方がかなり強引なことはいうまでもないが、「明智光秀=天海説」が全くの的外れかと問われれば、あながちあり得ない話ではない。この歌だけでなく、多くの状況証拠が挙げられていることまで、無視し切ってしまう訳にはいかないからだ。

 まず、天海ゆかりの日光、そこに広がる明智平の命名者が天海だったとの説が見逃せない。なぜわざわざ明智の名を冠したのか、不思議でならないのだ。

 また、光秀の坐像や位牌が納められた慈眼寺(じげんじ)と天海の諡号である慈眼大師の名前の共通点や、天海の廟所が光秀の居城・坂本城と同じ大津市坂本にあったという点も気になるところ。一介の名もなき僧であった天海を家康が重用した謎も、二人同一説が正しければ、すんなり受け入れられるからである。

 光秀といえば、本能寺の変で織田信長を死に追いやった御仁。その後の山崎の戦いにおいて、秀吉軍に追い詰められて敗走。坂本城へ逃げ延びようとしたものの、小栗栖(おぐるす)に差し掛かったところで、落武者狩りにあって殺害されたというのが定説である。

 一方、光秀の後半生の姿といわれることもある天海なる御仁が、どのような人生を歩んできたのかにも目を向けておきたい。

 もともと生没年のはっきりしない人物であるが、生年は1536年あるいは1543年と見られることが多い。光秀の生年も定かではないが、こちらは1516年あるいは1528年説が有力。ほぼ同世代人と言えなくもない。

 ただし、驚くべきは天海の没年で、1643年というから、1536年生まれだとしたら、没年時は108歳ということになる。現代でも極めて稀というべき年齢である。江戸初期という時代を鑑みれば、驚くべき長寿というべきだろう。これ自体が怪しいと思えてきそうだ。

 この御仁が家康に仕えた経緯は定かではないが、3代家光に至るまで3代の将軍に仕えたとか。家康が秀吉から関八州を与えられた後、江戸に城を築くように進言したのも、この天海であった。もちろん、四神相応(しじんそうおう)の地だったからである。

 また、豊臣秀頼 追い落としを目論んで、「国家安康」「君臣豊楽(くんしんぶらく)」と刻まれた方広寺の鐘銘に難癖をつけるよう示唆した(方広寺鐘銘事件)のも天海。さらには、上野の寛永寺や浅草の浅草寺をも創建。
 家康の神号を東照大権現としたのも、この御仁の尽力によるものであった。唯一宗源神道に基づく明神号を不吉として拒否。山王一実神道(さんのういちじつしんとう)による権現号をもって祀るよう進言したのである。

 もしも、光秀が天海だったとすれば、家康の天海に対する信頼度から鑑みて、元の光秀時代から信を置いていたことも十分考えられる。それを踏まえるならば、現在の戦国史でもまだ判明していない新しい事実がある可能性もあり得るのだ。

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