実は日本との縁が深い学問「未来学」、いま盛り上がっている理由とその歴史
NewsWeek より 210708 南 龍太
⚫︎未来学の現在と未来 metamorworks -iStock
<日本人が知らないところで「未来学」がブームに。しかしこの学問は、過去も現在も日本と深い関わりを持っている>
未来学という学問がある。端的に言えば、「あるべき」未来の姿を見据え、備え、行動するための学問だ。
社会学や経済学、政治学、数学に統計学などさまざまな領域が学際的に重なり合う。草創期は数々のSF(サイエンスフィクション)小説の中に描かれる「未来」に彩られていた。SFに見られる想像性と創造性が未来学の原点であり、今も脈々と息づいている。
欧米を中心に大学や高校、中学で教えられている一方、日本ではまだ馴染みが薄い未来学。だが歴史をひも解くと、その発展に実は日本が一役買ってきたことが分かる。その事実はあまり知られていない。
英語ではFutures StudiesやFuturologyと呼ばれる古くて新しい学問、未来学とは――。連載を通じてその興りや現在、これからを包括的に紹介していきたい。
⚫︎なぜ今未来学か
「今、未来学がブームである」
そんなことを言われたら、きょとんとされてしまうことだろう。しかしこのブームは一面の事実である。海外に目を向けると、未来学を学ぼうというトレンドの波は21世紀を迎える前から次第に高まり、学校教育や企業の戦略立案、さらには国家の方針策定といった場面で未来学が取り入れられてきた。
加えて、ビッグデータなどの技術革新に伴う今次のAI(人工知能)ブームにより、未来学の実効性が一段と高まる兆しが見られる。
ただ、日本においてはAIブームの実感はあるにしても、未来学ブームという感覚はほとんどないかもしれない。
⚫︎1970年に一大ブーム
長期的に見れば、未来学のブームは押しては返す波のように繰り返している。ちょうどAIのブームと冬の時代が交互に訪れ、今が第3次ブームと言われるのと同じように――。
「昨年末から今年へかけて、(中略)大変な未来ブームだった」。
これは2011年に亡くなった日本を代表するSF作家、小松左京氏による1967年の論考『<未来論>の現状』の一節だ。ゆえに今の話ではない。
小松氏は1968年に民族学者の故・梅棹忠夫氏など有志らと「日本未来学会」を立ち上げた。この時代、高度経済成長期を謳歌していた日本に住む多くの人が、未来に夢を抱いていた。そうした中、
「そもそも未来学なるものは、学として成立しうるものだろうか」(梅棹氏)
「「未来学」そのものが、いまようやく端緒に就いたばかり」(小松氏)
と未来学を本格的に普及させる機運が高まっていた。未来学をどういう方向に進めていくべきか、探っていた。
半ば手探りの状態ではありながら、熱情があった。未来を自分たちでつくり出していくという使命感や高揚感もあったであろう。
日本で未来学を根付かせ、発展させようという熱意は1970年、京都での未来学の国際会議「第2回国際未来学会」開催にも表れている。果たして、この会議を契機に「世界未来学連盟」(World Futures Studies Federation)がパリで発足した。
日本がこの国際会議をホストした1970年、日本の未来学ブームは沸点に達したと言える。同年、大阪で万国博覧会が開かれたことは決して偶然ではなく、むしろ深い関係があったことは追って振り返りたい。
しかしそれから半世紀余りが過ぎた今、日本における未来学の認知度、理解度は決して高いとは言えない。
1967年当時、大学における「未来学科」新設について「いまから、未来学の体系について、いくらかはかんがえておいたほうがいいようにおもわれる」(『未来学の提唱』(1967)より)との梅棹氏の指摘がありながらも、日本において未来学に関する議論は目立った盛り上がりを見せぬまま21世紀を迎え、今に至っている。
あの一時期の未来学に対する熱はどこへ行ってしまったのか――。この間、空白の数十年の理由について、未来学の歩みとともに連載の中で考察する。
⚫︎日本に高いポテンシャル
一方、世界ではこの半世紀の間に、未来学についての熟議が重ねられ、体系化された一学問として認識されるようになった。欧米を中心に未来学の学術的使命が徐々に明確になり、学問の輪郭がはっきりとしてきた。その理論がビジネスなど実社会に応用されるケースも増えた。
未来学は、着実に浸透してきた海外に比べ、日本では依然あまり耳慣れない言葉のままだ。しかし、日本は今後この学問が大きく発展する余地があると考えられる。
地球温暖化や海洋汚染といった問題など、未来学が扱う主要テーマの1つ、SDGs(国連が掲げる持続可能な開発目標)の諸課題は、日本にとって決して無関係ではないだろう。そうした課題解決に向け、未来学は活用できる。
加えて、少子高齢化など将来の人口動態が不安視される課題先進国である。未来学が大きく花開く素地が日本にはあるはずだ。
実際、日本で未来学の胚胎を予感させる動きはこのところ顕著だ。未来の技術や社会を予想したり、自社の将来像と重ねたりする企業の取り組みが目立ち、未来学者、フューチャリストという肩書も散見される。
ただ、それぞれの企業や人物が別個に活動している節があり、混沌とした状態とも言える。そこに未来学という横串を刺すことができれば、有機的な連携が生まれ、学問的発展も見込める。そうした期待や願いを連載には込めた。
世界未来学連盟をはじめ、未来学を学究する国際団体からも、日本の取り組みに対する注目度は高い。パンデミックに見舞われる前と後とで様変わりした世界において、2025年に控えた大阪・関西万博の開催方針、未来的な展示の打ち出し方が1つの焦点となっている。
⚫︎つまるところの未来学
それでは結局、未来学とは一体どのような学問か。それは論者によって
「未来学では未来に個人の人生・運命を委ねるのではなく、個人が未来をつくっていく」
「未来学は歴史学の延長線上にある」
「未来学とSFは相補的関係にある」
など、さまざまな言われ方をする。
それらは、どれが正解でどれが誤解というものではなく、未来学のどの側面に光を当てているかという違いである。中でも、最も重要なメッセージは「決められた未来はない。未来は変えられる」という大前提だ。
要すれば、未来学は冒頭触れた通り、「『あるべき』未来の姿を見据え、備え、行動するための学問」となるが、その理論やポイントをまさに本連載で解きほぐしていく。
次回以降、まずは未来学の嚆矢となったSFの巨匠らの構想、夢想を絡めた歴史からひも解いていきたい。
<日本人が知らないところで「未来学」がブームに。しかしこの学問は、過去も現在も日本と深い関わりを持っている>
未来学という学問がある。端的に言えば、「あるべき」未来の姿を見据え、備え、行動するための学問だ。
社会学や経済学、政治学、数学に統計学などさまざまな領域が学際的に重なり合う。草創期は数々のSF(サイエンスフィクション)小説の中に描かれる「未来」に彩られていた。SFに見られる想像性と創造性が未来学の原点であり、今も脈々と息づいている。
欧米を中心に大学や高校、中学で教えられている一方、日本ではまだ馴染みが薄い未来学。だが歴史をひも解くと、その発展に実は日本が一役買ってきたことが分かる。その事実はあまり知られていない。
英語ではFutures StudiesやFuturologyと呼ばれる古くて新しい学問、未来学とは――。連載を通じてその興りや現在、これからを包括的に紹介していきたい。
⚫︎なぜ今未来学か
「今、未来学がブームである」
そんなことを言われたら、きょとんとされてしまうことだろう。しかしこのブームは一面の事実である。海外に目を向けると、未来学を学ぼうというトレンドの波は21世紀を迎える前から次第に高まり、学校教育や企業の戦略立案、さらには国家の方針策定といった場面で未来学が取り入れられてきた。
加えて、ビッグデータなどの技術革新に伴う今次のAI(人工知能)ブームにより、未来学の実効性が一段と高まる兆しが見られる。
ただ、日本においてはAIブームの実感はあるにしても、未来学ブームという感覚はほとんどないかもしれない。
⚫︎1970年に一大ブーム
長期的に見れば、未来学のブームは押しては返す波のように繰り返している。ちょうどAIのブームと冬の時代が交互に訪れ、今が第3次ブームと言われるのと同じように――。
「昨年末から今年へかけて、(中略)大変な未来ブームだった」。
これは2011年に亡くなった日本を代表するSF作家、小松左京氏による1967年の論考『<未来論>の現状』の一節だ。ゆえに今の話ではない。
小松氏は1968年に民族学者の故・梅棹忠夫氏など有志らと「日本未来学会」を立ち上げた。この時代、高度経済成長期を謳歌していた日本に住む多くの人が、未来に夢を抱いていた。そうした中、
「そもそも未来学なるものは、学として成立しうるものだろうか」(梅棹氏)
「「未来学」そのものが、いまようやく端緒に就いたばかり」(小松氏)
と未来学を本格的に普及させる機運が高まっていた。未来学をどういう方向に進めていくべきか、探っていた。
半ば手探りの状態ではありながら、熱情があった。未来を自分たちでつくり出していくという使命感や高揚感もあったであろう。
日本で未来学を根付かせ、発展させようという熱意は1970年、京都での未来学の国際会議「第2回国際未来学会」開催にも表れている。果たして、この会議を契機に「世界未来学連盟」(World Futures Studies Federation)がパリで発足した。
日本がこの国際会議をホストした1970年、日本の未来学ブームは沸点に達したと言える。同年、大阪で万国博覧会が開かれたことは決して偶然ではなく、むしろ深い関係があったことは追って振り返りたい。
しかしそれから半世紀余りが過ぎた今、日本における未来学の認知度、理解度は決して高いとは言えない。
1967年当時、大学における「未来学科」新設について「いまから、未来学の体系について、いくらかはかんがえておいたほうがいいようにおもわれる」(『未来学の提唱』(1967)より)との梅棹氏の指摘がありながらも、日本において未来学に関する議論は目立った盛り上がりを見せぬまま21世紀を迎え、今に至っている。
あの一時期の未来学に対する熱はどこへ行ってしまったのか――。この間、空白の数十年の理由について、未来学の歩みとともに連載の中で考察する。
⚫︎日本に高いポテンシャル
一方、世界ではこの半世紀の間に、未来学についての熟議が重ねられ、体系化された一学問として認識されるようになった。欧米を中心に未来学の学術的使命が徐々に明確になり、学問の輪郭がはっきりとしてきた。その理論がビジネスなど実社会に応用されるケースも増えた。
未来学は、着実に浸透してきた海外に比べ、日本では依然あまり耳慣れない言葉のままだ。しかし、日本は今後この学問が大きく発展する余地があると考えられる。
地球温暖化や海洋汚染といった問題など、未来学が扱う主要テーマの1つ、SDGs(国連が掲げる持続可能な開発目標)の諸課題は、日本にとって決して無関係ではないだろう。そうした課題解決に向け、未来学は活用できる。
加えて、少子高齢化など将来の人口動態が不安視される課題先進国である。未来学が大きく花開く素地が日本にはあるはずだ。
実際、日本で未来学の胚胎を予感させる動きはこのところ顕著だ。未来の技術や社会を予想したり、自社の将来像と重ねたりする企業の取り組みが目立ち、未来学者、フューチャリストという肩書も散見される。
ただ、それぞれの企業や人物が別個に活動している節があり、混沌とした状態とも言える。そこに未来学という横串を刺すことができれば、有機的な連携が生まれ、学問的発展も見込める。そうした期待や願いを連載には込めた。
世界未来学連盟をはじめ、未来学を学究する国際団体からも、日本の取り組みに対する注目度は高い。パンデミックに見舞われる前と後とで様変わりした世界において、2025年に控えた大阪・関西万博の開催方針、未来的な展示の打ち出し方が1つの焦点となっている。
⚫︎つまるところの未来学
それでは結局、未来学とは一体どのような学問か。それは論者によって
「未来学では未来に個人の人生・運命を委ねるのではなく、個人が未来をつくっていく」
「未来学は歴史学の延長線上にある」
「未来学とSFは相補的関係にある」
など、さまざまな言われ方をする。
それらは、どれが正解でどれが誤解というものではなく、未来学のどの側面に光を当てているかという違いである。中でも、最も重要なメッセージは「決められた未来はない。未来は変えられる」という大前提だ。
要すれば、未来学は冒頭触れた通り、「『あるべき』未来の姿を見据え、備え、行動するための学問」となるが、その理論やポイントをまさに本連載で解きほぐしていく。
次回以降、まずは未来学の嚆矢となったSFの巨匠らの構想、夢想を絡めた歴史からひも解いていきたい。
💋ローマクラブとか… 結局は関西中心で 首都圏でボツ 東大閥強し