人は死ぬときどうなるのか?在宅診療医が語る「看取りの作法」 蘇生措置は“儀式”でしかない?
現代ビジネス より 220317 久坂部 羊
誰にも訪れる「死」。しかし、実際に人がどのようにして死んでいくのか知っている人は少ないのではないでしょうか。作家の久坂部羊氏は、平穏で幸せな死を迎えるためには、事前の「予習」と「準備」が必要だと助言します。同氏が、新しい「死の教科書」として書いた新刊『人はどう死ぬのか』より、在宅診療医として数々の患者を看取った経験に基づく、リアルな死の姿をお届けします。
⚫︎死のポイント・オブ・ノーリターン
突然死や即死の場合は別として、ふつうの死はまず昏睡状態からはじまります。完全に意識がなくなって、呼びかけにも痛みの刺激にも反応しない状態です。唸り声やうめき声を発していたり、顔を歪めていたりする間は、昏睡とは言いません。
昏睡のときは、エンドルフィンやエンケファリンなど、脳内モルヒネが分泌されますから、本人は心地よい状況にあるなどと言われますが、もちろんこれは仮説で、確かめようがありません。
脳内モルヒネは人生最後のお楽しみであり、ほんとうに心地よい状態が用意されているのかもしれませんが、実際はそれほどでもなく、単に死戦期(生から死への移行期)の不安をやわらげるためのおまじないかもしれません。
昏睡状態になれば、いっさいの表情は消えます。
意識がないのだから当然です。昏睡に陥ると、間もなく下顎呼吸がはじまります。
顎を突き出すような呼吸で、これが死のポイント・オブ・ノーリターンとなります。
顎を突き出すような呼吸で、これが死のポイント・オブ・ノーリターンとなります。
呼吸中枢の機能低下によるものですから、酸素を吸わせても意味がありません。
つまり、これがはじまると、回復の見込みがゼロになるということです。
ほとんど空気を吸っていないように見えるので、はじめて見る人には喘(あえ)いでいるように感じられるかもしれません。ですが、先に述べたように意識はないので、本人は苦しくない(はずです、確認はできません)。
この状態になると、蘇生処置をほどこしたところで元にもどることはまずなく、仮にもどったとしてもすぐまた下顎呼吸になります。
ほとんど空気を吸っていないように見えるので、はじめて見る人には喘(あえ)いでいるように感じられるかもしれません。ですが、先に述べたように意識はないので、本人は苦しくない(はずです、確認はできません)。
この状態になると、蘇生処置をほどこしたところで元にもどることはまずなく、仮にもどったとしてもすぐまた下顎呼吸になります。
生き物として寿命を迎えているのですから、抗わずに穏やかに見守るのが、周囲の人間のとるべき態度と言えます。
下顎呼吸がどれくらい続くのかは人によりますが、たいていは数分から一時間前後で終わります(私は在宅医療で一昼夜続いた患者さんを看取ったことがありますが)。
次第に呼吸数が減って、無呼吸と下顎呼吸が入れ替わり現れます。これは「チェーンストークス呼吸」と呼ばれるもので、やがて最後の一息を吐いて、ご臨終となります。
⚫︎看取りの作法
今では禁止されていますが、私が医学部を卒業したころは、大学病院の研修医がアルバイトで市中病院の当直を行っていました。
その病院で夜に患者さんが亡くなると、アルバイトの研修医が看取ることになります。
下顎呼吸がどれくらい続くのかは人によりますが、たいていは数分から一時間前後で終わります(私は在宅医療で一昼夜続いた患者さんを看取ったことがありますが)。
次第に呼吸数が減って、無呼吸と下顎呼吸が入れ替わり現れます。これは「チェーンストークス呼吸」と呼ばれるもので、やがて最後の一息を吐いて、ご臨終となります。
⚫︎看取りの作法
今では禁止されていますが、私が医学部を卒業したころは、大学病院の研修医がアルバイトで市中病院の当直を行っていました。
その病院で夜に患者さんが亡くなると、アルバイトの研修医が看取ることになります。
研修医はヒヨコ医者で、迂闊な看取りをすると家族を傷つけたり、混乱させたりするので、先輩から看取りの作法を教えられました。
夜中に起こされても眠そうな顔をするな、白衣はきちんとボタンを留めろ、だらしない恰好はするな等、基本的なこともありますが、看取りのコツは「慌てず、騒がず、落ち着かず」だと、伝授されました。
「慌てず」というのは、慌てると医療ミスを疑われるからであり、「騒がず」というのは、新米だと見破られないためですが、あまりに落ち着いていると、患者さんを見捨てているように受け取られるので、適度な緊迫感が必要なため、「落ち着かず」ということになります。
もう一つのポイントは、あまり早くに臨終を告げないこと。
当直の夜、看護師から危篤の連絡を受けて病室に行くと、患者さんはたいてい下顎呼吸になっています。
夜中に起こされても眠そうな顔をするな、白衣はきちんとボタンを留めろ、だらしない恰好はするな等、基本的なこともありますが、看取りのコツは「慌てず、騒がず、落ち着かず」だと、伝授されました。
「慌てず」というのは、慌てると医療ミスを疑われるからであり、「騒がず」というのは、新米だと見破られないためですが、あまりに落ち着いていると、患者さんを見捨てているように受け取られるので、適度な緊迫感が必要なため、「落ち着かず」ということになります。
もう一つのポイントは、あまり早くに臨終を告げないこと。
当直の夜、看護師から危篤の連絡を受けて病室に行くと、患者さんはたいてい下顎呼吸になっています。
間隔がだんだん間遠になって、最後の息を吐き終わったとき、腕時計で時刻を確認して、「残念ですが、何時何分。ご臨終です。力及びませんで」と、殊勝な顔で一礼します。すると、家族がわっと泣き崩れたりするのですが、この判断が早すぎると、思いがけない最後の一呼吸が起こるのです。
すると、家族は「あーっ、まだ生きてる!」と混乱します。
心電図も同じで、徐々に波が乱れ、スパイクの間隔が延びて、やがてフラットになる。
心電図も同じで、徐々に波が乱れ、スパイクの間隔が延びて、やがてフラットになる。
そこで早まって臨終を告げると、ピコンと最後の波が現れたりして、家族がまた、「あーっ、まだ……」と叫ぶことになります。
そのあとで、もう一度、時刻を確認し直して、「えー、何時何分……」と告げるほど間の悪いことはありません。ですから、最後の呼吸が終わったと思っても、しばらく待って、ほんとうにもう下顎呼吸が二度と起こらないと確信してから、おもむろに時刻を確認し、臨終を告げるのです。
そのあとで、もう一度、時刻を確認し直して、「えー、何時何分……」と告げるほど間の悪いことはありません。ですから、最後の呼吸が終わったと思っても、しばらく待って、ほんとうにもう下顎呼吸が二度と起こらないと確信してから、おもむろに時刻を確認し、臨終を告げるのです。
そして、心電図にオマケのスパイクが出てもわからないように、スイッチはすぐに切るべしと教えられました。
すなわち、実際、患者さんは私が告げる時刻より少し前に亡くなっているのです。
⚫︎死に際して行う“儀式”
アルバイトで当直をする病院に着くと、まずその病院の医者から申し送りを受けます。今夜は何号室のだれそれが危ない等、亡くなりそうな患者さんを引き継ぐのです。そのとき、「この人は“儀式”はいらんから」とか、「悪いけど“儀式”もよろしく」などと言われます。
別に宗教的な儀式をするわけではありません。これは看取りのときに行う蘇生処置を指す医者の隠語なのです。
具体的には、心臓が止まったあと、強心剤を静脈注射するとか、心腔内投与といって、カテラン針(長さ六、七センチの深部用注射針)で心臓に直接、強心剤を注入したりします。
さらには心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。
すなわち、実際、患者さんは私が告げる時刻より少し前に亡くなっているのです。
⚫︎死に際して行う“儀式”
アルバイトで当直をする病院に着くと、まずその病院の医者から申し送りを受けます。今夜は何号室のだれそれが危ない等、亡くなりそうな患者さんを引き継ぐのです。そのとき、「この人は“儀式”はいらんから」とか、「悪いけど“儀式”もよろしく」などと言われます。
別に宗教的な儀式をするわけではありません。これは看取りのときに行う蘇生処置を指す医者の隠語なのです。
具体的には、心臓が止まったあと、強心剤を静脈注射するとか、心腔内投与といって、カテラン針(長さ六、七センチの深部用注射針)で心臓に直接、強心剤を注入したりします。
さらには心臓マッサージの真似事をします。本格的な心臓マッサージは、ベッドのスプリングで力が吸収されないように、背中側にボードを入れ、かつ、胸骨が凹むほど圧迫しなければなりません。
高齢者ややせた人だと、肋骨がバキバキ折れます。死にゆく人にそんなことをする必要はないので、軽くやっているフリだけするのです。
そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。
真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。そこでようやく“儀式”を終え、時刻を確認して、「残念ですが……」のセリフとなるのです。
これがなぜ儀式かというと、蘇生する可能性など端からゼロであることをわかって行うからです。つまりはパフォーマンス、無駄な行為ということになります。
なぜそんなことをするのか。それは家族に精いっぱいの治療をしたという納得感を与えるためです。
そのあとで聴診器を当てて、心拍が再開しなければ、ふたたびマッサージのフリをして、また聴診器で無音を確認します。チラッと家族のようすを横目で見て、まだ不足そうなら、またマッサージのフリを繰り返す。
真剣な顔で、死ぬな、生きろと訴えるような目つきで、額に汗など垂らしてやっていると、さすがに家族もあきらめ、大切な身内の死を受け入れる雰囲気になります。そこでようやく“儀式”を終え、時刻を確認して、「残念ですが……」のセリフとなるのです。
これがなぜ儀式かというと、蘇生する可能性など端からゼロであることをわかって行うからです。つまりはパフォーマンス、無駄な行為ということになります。
なぜそんなことをするのか。それは家族に精いっぱいの治療をしたという納得感を与えるためです。
単純に看取って臨終を告げると、あとで「あの病院は何もしてくれなかった」などと言われる危険性があります。それは困るので、無駄かつ当人には残酷とも思える処置をせざるを得ないのです。
「“儀式”はいらない」と申し送られるのは、家族が患者さんの死をすでに受け入れている場合です。そのときは厳かに臨終を告げるだけでいい。看取るほうも楽なら、看取られるほうも余計な処置をされずにすみます。
最近ではインフォームド・コンセントが進んでいるので、病院も患者さん側に事実を伝え、“儀式”をする必要性は減っているかもしれません。
「“儀式”はいらない」と申し送られるのは、家族が患者さんの死をすでに受け入れている場合です。そのときは厳かに臨終を告げるだけでいい。看取るほうも楽なら、看取られるほうも余計な処置をされずにすみます。
最近ではインフォームド・コンセントが進んでいるので、病院も患者さん側に事実を伝え、“儀式”をする必要性は減っているかもしれません。
こんな無益で残酷なことを減らすためにも、家族の側がしっかりと死を受け入れる心構えが重要です。死を拒んでばかりいると、ロクなことはないということです