ES細胞やiPS細胞を超える!? 再生医療のホープ「ミューズ細胞」は何が凄いのか
文春online より 秋山 千佳 210302
心筋梗塞で心臓が弱まった人が拍動を取り戻し、脳梗塞で麻痺や認知などの障害を負った人が健常の生活を取り戻す――。特効薬がなかったこうした疾患を快復させるかもしれない画期的な製剤が今、開発されつつある。
「Muse(ミューズ)細胞」というヒトの細胞からつくられる製剤で、早ければ2022年度に製造販売が承認される見込みだ。
この細胞の発見者である東北大学大学院・出澤真理教授は、「ミューズ細胞のもたらす医療革命は大きいものになる」と展望を語る。
ミューズ細胞は、さまざまな細胞に分化する幹細胞の一種で、誰の体にも存在する自然の細胞だ。だが、出澤教授が2007年に発見するまで、その存在は知られていなかった。
「小さな怪我であれば、自然と治るのは誰でも経験していますよね。そういった修復は当たり前のように思いますが、どうやってなされているのか、はっきりした答えはわかっていませんでした。ですが、研究の結果、ミューズ細胞がその仕事をしている細胞だとわかったのです」(出澤教授)
◉「点滴するだけ」というシンプルさ
脳梗塞や心筋梗塞といった重大な疾患の時には、元から体内にあるミューズ細胞の数だけでは修復には足りない。そこで、ミューズ細胞の製剤で賄うことになる。外から投与し、傷害を修復できるだけの数を補充するのだ。
ミューズ細胞の製剤は、どの疾患でも、仕様や基本的な治療法が変わらない。現在行われている治験では、ドナーから採取し、培養して数を増やしたミューズ細胞製剤15ml(約1500万個の細胞を収蔵)を希釈して52mlにしたものを、点滴(静脈注射)で15分ほどかけて投与するだけ。体内に入ったミューズ細胞は血液の流れに乗って、損傷した臓器や組織に自動的に集まり、その修復を始める。
どんな疾患も「点滴するだけ」という極めてシンプルな治療が実現するのは、ミューズ細胞が再生医療への実用化に有利な「四つの特性」を備えているからだ。
◉「四つの特性」とは?
第一は、腫瘍性がなく安全性が高いこと。再生医療として先行して脚光を浴びてきたES細胞やiPS細胞は、この課題を完全にはクリアできていない。
第二は、分化誘導の必要がないこと。ES細胞やiPS細胞の場合、目的とする細胞に移植前に分化誘導する必要があるが、ミューズ細胞は自らあらゆる細胞に分化できる多能性を持つ。よって「手間もコストもかからずに済む」と出澤教授は言う。
第三は、外科手術が不要なこと。ES細胞やiPS細胞なら脳であれば開頭手術、心臓であれば開胸手術をして、分化させた細胞を移植することになる。一方、ミューズ細胞は点滴するだけで済む。
第四は、ドナーの細胞を使うにもかかわらず免疫抑制剤を必要としないことだ。健康なドナーが提供者であれば、誰のものでも気兼ねなく直接点滴できる。そのため、作り置きをしておいて、必要なタイミングで迅速に提供することができる。
◉ALSの治験が始まった
こうしたミューズ細胞の特性に可能性を感じ、製薬企業として名乗りを挙げたのが、三菱ケミカルホールディングス子会社の生命科学インスティテュートだ。同社は2018年1月、ミューズ細胞製剤の治験を開始した。治験は学術研究のための臨床試験とは異なり、薬機法(医薬品医療機器等法)に基づき、人を対象とした医薬品の承認を得るために安全性や有効性が慎重に審査される。
これまで急性心筋梗塞を皮切りに、脳梗塞、脊髄損傷、表皮水疱症、新生児低酸素性虚血性脳症という五つの疾患で治験が進められてきた。
さらに今年1月、六つ目として、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治験が始まった。有効な治療法が確立されていない難病であり、患者は過酷な闘病を強いられる。昨年には患者の嘱託殺人事件も起きている。
出澤教授は2月に行われた記者会見で「ミューズ細胞の研究の中でいくつかの疾患を思い浮かべた中の筆頭でした」とし、「道のりは長くかかったんですけど、やっとここに来た」と喜びをにじませた。
◉「まだ他にも可能性はたくさんある」
ミューズ細胞は主に急性障害に効きやすいと目されてきた。ミューズ細胞が損傷部位に集まるためのシグナルの役割を果たす物質は、急激に細胞が壊れていく疾患ほど著しく放出されるためだ。
しかしALSは進行性の慢性疾患だ。だが、岡山大の研究グループがマウスを使った動物実験を行い、ミューズ細胞にALSの進行を遅らせる効果があることを確認した。出澤教授は会見でこうも述べた。
「ALSのように、おじいさんのつぶやきのような小さなシグナルであっても、ミューズ細胞はシャープにたどり着くことができた。実は自分自身も当初そこまで期待していなかったので、点滴でいけると分かった時には大変興奮しました」
出澤教授は、ジャーナリストの森健氏と私の取材に、現在進行中の治験に限らず「まだ他にも可能性はたくさんある」と語っている。全国各地の研究者たちが地道に広げてきたミューズ細胞の研究は、今や中国はじめ他国でも精力的に進められているという。iPS細胞のような国家的プロジェクトに比べれば、日本国内での注目度はまだ高いとは言えない。だが、実用化が迫る今、ミューズ細胞が医療の常識を塗り替える可能性が出てきているのだ。
「文藝春秋」3月号および「文藝春秋digital」では、「『ミューズ細胞』の再生医療革命」と題したルポを掲載。発見者である出澤教授自身に、ミューズ細胞の特徴やメカニズムの解説、「うっかりミス」が突破口となったという発見に至る経緯などをたっぷり語ってもらった。またミューズ細胞製剤を手がける生命科学インスティテュートによる異例の挑戦も紹介し、出澤教授と描く「医療革命」の展望に触れている。
(秋山 千佳/文藝春秋 2021年3月号)
ミューズ細胞は、さまざまな細胞に分化する幹細胞の一種で、誰の体にも存在する自然の細胞だ。だが、出澤教授が2007年に発見するまで、その存在は知られていなかった。
「小さな怪我であれば、自然と治るのは誰でも経験していますよね。そういった修復は当たり前のように思いますが、どうやってなされているのか、はっきりした答えはわかっていませんでした。ですが、研究の結果、ミューズ細胞がその仕事をしている細胞だとわかったのです」(出澤教授)
◉「点滴するだけ」というシンプルさ
脳梗塞や心筋梗塞といった重大な疾患の時には、元から体内にあるミューズ細胞の数だけでは修復には足りない。そこで、ミューズ細胞の製剤で賄うことになる。外から投与し、傷害を修復できるだけの数を補充するのだ。
ミューズ細胞の製剤は、どの疾患でも、仕様や基本的な治療法が変わらない。現在行われている治験では、ドナーから採取し、培養して数を増やしたミューズ細胞製剤15ml(約1500万個の細胞を収蔵)を希釈して52mlにしたものを、点滴(静脈注射)で15分ほどかけて投与するだけ。体内に入ったミューズ細胞は血液の流れに乗って、損傷した臓器や組織に自動的に集まり、その修復を始める。
どんな疾患も「点滴するだけ」という極めてシンプルな治療が実現するのは、ミューズ細胞が再生医療への実用化に有利な「四つの特性」を備えているからだ。
◉「四つの特性」とは?
第一は、腫瘍性がなく安全性が高いこと。再生医療として先行して脚光を浴びてきたES細胞やiPS細胞は、この課題を完全にはクリアできていない。
第二は、分化誘導の必要がないこと。ES細胞やiPS細胞の場合、目的とする細胞に移植前に分化誘導する必要があるが、ミューズ細胞は自らあらゆる細胞に分化できる多能性を持つ。よって「手間もコストもかからずに済む」と出澤教授は言う。
第三は、外科手術が不要なこと。ES細胞やiPS細胞なら脳であれば開頭手術、心臓であれば開胸手術をして、分化させた細胞を移植することになる。一方、ミューズ細胞は点滴するだけで済む。
第四は、ドナーの細胞を使うにもかかわらず免疫抑制剤を必要としないことだ。健康なドナーが提供者であれば、誰のものでも気兼ねなく直接点滴できる。そのため、作り置きをしておいて、必要なタイミングで迅速に提供することができる。
◉ALSの治験が始まった
こうしたミューズ細胞の特性に可能性を感じ、製薬企業として名乗りを挙げたのが、三菱ケミカルホールディングス子会社の生命科学インスティテュートだ。同社は2018年1月、ミューズ細胞製剤の治験を開始した。治験は学術研究のための臨床試験とは異なり、薬機法(医薬品医療機器等法)に基づき、人を対象とした医薬品の承認を得るために安全性や有効性が慎重に審査される。
これまで急性心筋梗塞を皮切りに、脳梗塞、脊髄損傷、表皮水疱症、新生児低酸素性虚血性脳症という五つの疾患で治験が進められてきた。
さらに今年1月、六つ目として、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治験が始まった。有効な治療法が確立されていない難病であり、患者は過酷な闘病を強いられる。昨年には患者の嘱託殺人事件も起きている。
出澤教授は2月に行われた記者会見で「ミューズ細胞の研究の中でいくつかの疾患を思い浮かべた中の筆頭でした」とし、「道のりは長くかかったんですけど、やっとここに来た」と喜びをにじませた。
◉「まだ他にも可能性はたくさんある」
ミューズ細胞は主に急性障害に効きやすいと目されてきた。ミューズ細胞が損傷部位に集まるためのシグナルの役割を果たす物質は、急激に細胞が壊れていく疾患ほど著しく放出されるためだ。
しかしALSは進行性の慢性疾患だ。だが、岡山大の研究グループがマウスを使った動物実験を行い、ミューズ細胞にALSの進行を遅らせる効果があることを確認した。出澤教授は会見でこうも述べた。
「ALSのように、おじいさんのつぶやきのような小さなシグナルであっても、ミューズ細胞はシャープにたどり着くことができた。実は自分自身も当初そこまで期待していなかったので、点滴でいけると分かった時には大変興奮しました」
出澤教授は、ジャーナリストの森健氏と私の取材に、現在進行中の治験に限らず「まだ他にも可能性はたくさんある」と語っている。全国各地の研究者たちが地道に広げてきたミューズ細胞の研究は、今や中国はじめ他国でも精力的に進められているという。iPS細胞のような国家的プロジェクトに比べれば、日本国内での注目度はまだ高いとは言えない。だが、実用化が迫る今、ミューズ細胞が医療の常識を塗り替える可能性が出てきているのだ。
「文藝春秋」3月号および「文藝春秋digital」では、「『ミューズ細胞』の再生医療革命」と題したルポを掲載。発見者である出澤教授自身に、ミューズ細胞の特徴やメカニズムの解説、「うっかりミス」が突破口となったという発見に至る経緯などをたっぷり語ってもらった。またミューズ細胞製剤を手がける生命科学インスティテュートによる異例の挑戦も紹介し、出澤教授と描く「医療革命」の展望に触れている。
(秋山 千佳/文藝春秋 2021年3月号)