「愛」
4つの愛
アガペー
無条件の愛 神の愛
原則によって導かれ,それに支配された愛という意味があります。
それには,愛情や親愛の気持ちが含まれる場合も含まれない場合もあります。
アガペーに愛情や温かさが含まれる場合のあることは多くの章句から明らかです。
フィレオー
友情など人格的な愛 絆や信頼。
ストルゲー
親子の愛 家族や兄弟等の家族愛、
エロス
聖書にはない。
恋愛 男女間の愛情。
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愛(Love)
友人,親,子供などに対する温かい個人的な愛着や深い愛情の気持ち; 他の人に対する温かい親愛の情また好感; さらには,神がご自分の創造物に対して持つ情け深い愛情,
また創造物が神に示すべき畏敬に満ちた愛情; また,神の創造物が互いに対してふさわしく示す優しい愛情; 異性に対して人が抱く強い情熱的な愛情で,結婚の関係に至る感情的動機づけとなるもの。愛の同義語の一つは「専心」です。
これらの意味のほかに,聖書はまた,原則によって導かれる愛についても述べています。例えば,義に対する愛,また自分が愛情を抱いてはいない敵対者に対してさえ示す愛などです。
愛のこの面あるいはこのような表現は,義に対する無私の専心,また他の人の永続的福祉に対する誠実な関心であり,他の人の益のためにそれを積極的に表わすことを伴います。
ヘブライ語で前述のさまざまな意味の愛を表わす語としておもに用いられたのは,動詞アーヘーヴまたアーハヴ(「愛する」),および名詞アーハヴァー(「愛」)です。その意味合いと強さの度合いは文脈によって決まります。
クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)は主として,アガペー,フィリア,およびストルゲーに由来する二つの語の種々の語形を用いています(異性間の愛を表わすエロースという語は用いられていない)。アガペーが他の語より頻繁に出て来ます。
名詞アガペーとその動詞形アガパオーについて,「バインの旧新約聖書用語解説辞典」はこう述べています。「愛はそれが促す行動によってのみ知られる。神の愛はそのみ子という贈り物のうちに見られる。
「神は独り子を世に遣わし,その方によって私たちが命を得られるようにしてくださいました。このことから,神が私たちを愛してくださっていることが明らかになりました。私たちが神を愛したというより,神が私たちを愛し,私たちの罪を償う犠牲としてご自分の子を遣わしてくださったのです。これこそが愛です」。
(ヨハネ第一 4:9,10)
しかし明らかに,それは自己充足的な愛や愛情ではない。つまり,それはその対象物に何か優れた点があるために引き出されるものではない。
「しかしキリストは,私たちがまだ罪人だった間に,私たちのために死んでくださいました。そのことにより,神はご自分の愛を私たちに示してくださっています」。
(ローマ 5:8)
それは意図的な選択による神の意志の行使であり,神ご自身の性質に宿るものを別にすれば,挙げ得る原因のないものである。
「主(神)があなたたちに愛情を傾けて,あなたたちを選ば れたのは,あなたたちがほかのどの民よりも数が多かったからではない。事実,あなたたちはすべての民の中で最も数の少ない民であった。しかし,主(神)はあなたたちを愛し,また先祖に立てた誓いを守られたので,主(神)は強いその手であなたたちを導き出し,奴隷の家から,エジプトの王ファラオの手からあなたを贖われた」。
(申命記 7:7,8)
動詞フィレオーに関して,バインは次の解説を加えています。「それは次の点でアガパオーと区別されるべきである。すなわち,フィレオーは,むしろ,優しい愛情の概念を表わす。……また,生きる真の目的を忘れて,ただ命を長らえさせたいとの過度の願いから命を愛する(フィレオー)ことは,主によって戒められている。
「自分の命に執着する人はそれを失いますが,この世界で自分の命を惜しまない人は,それを保って永遠の命を得ます」。
(ヨハネ 12:25)
それとは反対に,ペテロ第一 3章10節で用いられている意味で命を愛する(アガパオー)ことは,生きる真の益を考慮することであり,ここでフィレオーは極めて適切さを欠いた語となろう」
『こう書かれています。「生きることを愛して良い日々を送りたい人は,悪を語ってはならず,欺きを語ってはならない」』。
(ペテロ第一 3:10)
ジェームズ・ストロングの「聖書詳細用語索引」のギリシャ語辞典の部分(1890年,75,76ページ)は,フィレオーの項で次のように述べています。「友となる([ある人または物]が好きになる),すなわち,愛情を抱くこと(感情や気持ちの面での個人的な愛着を意味する。
一方,[アガパオー]は意味がさらに広く,特に,原則,義務,また妥当性などにおける判断や意志の意図的な承諾を包含する……)」。
したがって,アガペーには,原則によって導かれ,それに支配された愛という意味があります。それには,愛情や親愛の気持ちが含まれる場合も含まれない場合もあります。アガペーに愛情や温かさが含まれる場合のあることは多くの章句から明らかです。
ヨハネ 3章35節で,イエスは,『父はみ子を愛しておられる[アガパーイ]』と言われました。ヨハネ 5章20節では,『父は子に愛情を持っておられる[フィレイ]』と言われました。言うまでもなく,イエス・キリストに対する神の愛には多大の愛情が伴っています。
イエスはまたこう説明されました。『わたしを愛する[アガポーン]人はわたしの父に愛されます[アガペーテーセタイ]。そしてわたしはその人を愛します[アガペーソー]』。
「私のおきてを受け入れてそれに従う人は私を愛しています。さらに,私を愛する人は父に愛されます。そして私はその人を愛して,自分のことをはっきり知らせます」。
(ヨハネ 14:21)
み父とみ子のこの愛には,そのような愛を示す人々への優しい愛情が伴っています。神の崇拝者たちは神(エホバ,ヤハウェ)とみ子に,また互いに対しても,これと同じような愛を示さなければなりません。
『弟子たちが朝食を終えると,イエスはシモン・ペテロに言った。「ヨハネの子シモン,これら以上に私を愛していますか」。ペテロは答えた。「はい,主よ,私があなたに愛情を抱いていることをあなたは知っています」。イエスは言った。「私の子羊を養いなさい」。また2度目に,「ヨハネの子シモン,私を愛していますか」と言った。ペテロは答えた。「はい,主よ,私があなたに愛情を抱いていることをあなたは知っています」。イエスは言った。「私の小さな羊を世話しなさい」。そして3度目に,「ヨハネの子シモン,私に愛情を抱いていますか」と言った。3度目に,「私に愛情を抱いていますか」と言われ,ペテロは悲しくなって,こう言った。「主よ,あなたは全て分かっています。私があなたに愛情を抱いていることを知っています」。イエスは言った。「私の小さな羊を養いなさい」』。
(ヨハネ 21:15~17)
ですから,原則を重んずるという点で区別されるとはいえ,アガペーに感情が欠如しているというわけではありません。さもなければ,それは冷厳な公正さと変わらないことになります。しかし,それは感情や気持ちに支配されず,決して原則を無視することのない愛です。
クリスチャンは,自分が必ずしも愛情や親愛の情を感じない人たちに対しても正しくアガペーを示し,しかもそれらの人々の福祉のためにそうします。
「ですから,機会がある限り,全ての人に,特に同じ信仰を持つ兄弟姉妹に,善いことを行いましょう」。
(ガラテア 6:10)
そして,愛情を感じないとしても,義の原則が許容し,それに導かれた範囲と方法で,そのような仲間の人間に対して同情を抱き,誠実な関心を示します。
しかし,アガペーが原則によって支配される愛を表わすとはいえ,その原則には良いものと悪いものとがあります。悪い原則に導かれて間違ったアガペーを示す場合もあり得ます。
例えばイエスはこう言われました。
「自分を愛してくれる者を愛した[アガパーテ]からといって,あなた方にとって何の誉れとなるでしょうか。罪人たちでさえ自分を愛してくれる者を愛するのです。そして,自分によくしてくれる者に善を行なったからといって,あなた方にとっていったい何の誉れとなるでしょうか。罪人たちでさえ同じことをするのです。また,利息なしで貸したからといって,その人から受け取ることを望んでいるのであれば,あなた方にとって何の誉れとなるでしょうか。罪人たちでさえ,同じだけ取り戻そうとして,罪人たちに利息なしで貸すのです」。
(ルカ 6:32~34)
そのような人たちの行動は,『わたしに善いことをせよ,そうすればわたしもあなたに善いことをしよう』という原則に基づいています。
使徒パウロは自分と相並んで働いた人のひとりについてこう述べました。「デマスは今の事物の体制を愛して[アガペーサス]わたしを見捨てました」。
(テモテ第二 4:10)
デマスは,世に対する愛が物質的な益をもたらすという原則に基づいて世を愛したのでしょう。使徒ヨハネはこう述べました。
「人々が光よりむしろ闇を愛した[エーガペーサン]ことです。その業が邪悪であったからです。いとうべき事柄を習わしにする者は,光を憎んで,光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです」。
(ヨハネ 3:19,20)
闇が彼らの邪悪な業を覆う助けになるという真理あるいは原則のゆえに,このような人たちは闇を愛します。
イエスは,『あなた方の敵を愛しなさい[アガパーテ]』と命じました。
(マタ 5:44)
使徒パウロが述べるとおり,神ご自身がこの原則を定めました。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,
ご自身の愛[アガペーン]をわたしたちに示しておられるのです。……わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです」。
「しかしキリストは,私たちがまだ罪人だった間に,私たちのために死んでくださいました。そのことにより,神はご自分の愛を私たちに示してくださっています。それで,今や私たちは,キリストの血によって正しいと認められたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです。敵だった時に神の子の死によって神と和解したのですから,まして和解した今,神の子の命によって救われるはずなのです」。
(ローマ 5:8~10)
そのような愛の際立った例は,使徒パウロとなったタルソスのサウロを神が扱われた方法に見られます。
『サウロは,なおも主イエスの弟子たちを脅し,殺そうと意気込んで,大祭司の所に行き,ダマスカスにある会堂への手紙を求めた。この道に従う人を見つけたら,男性も女性も縛ってエルサレムに連れてくるためだった。サウロが旅をしてダマスカスに近づいた時,突然,天からの光が彼の周りを照らし,サウロは地面に倒れ,「サウロ,サウロ,なぜ私を迫害しているのですか」と言う声を聞いた。サウロが,「主よ,あなたはどなたですか」と言うと,答えがあった。「イエスです。あなたは私を迫害しています。起きて町に入りなさい。そうすれば,何をすべきか告げられます」。一緒に旅をしていた人たちは,声の響きは聞こえたが誰も見えず,何も言えずに立っていた。サウロは地面から起き上がった。目は開いているのに何も見えなかった。それで手を引いてもらってダマスカスに入った。そして3日間,何も見えず,食べることも飲むこともしなかった。ダマスカスにはアナニアという弟子がいた。幻の中で主が,「アナニア!」と呼ぶと,アナニアは言った。「主よ,何でしょうか」。主は言った。「さあ,『真っすぐ』という通りに行き,サウロという人を捜しなさい。タルソス出身で,ユダの家にいます。今サウロは祈っています。サウロは幻の中で,アナニアという人が入ってきて,目が見えるように手を置いてくれるのを見ました」。 アナニアは答えた。「主よ,私は多くの人からこの男について聞いています。エルサレムにいる聖なる人たちにいろいろと危害を加えたとのことです。ここでは,あなたの名を呼ぶ人を皆捕らえようとして,祭司長たちから権限を受けています」。 しかし主は言った。「行きなさい。この人は私が選んだ器であり,異国の人々に,また王たちやイスラエルの民に私の名を知らせるからです。私は彼に,私の名のためにどれほど多くの苦しみを受けなければならないかをはっきり示します」』。
(使徒 9:1~16)
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来た,という言葉は真実であり,全面的に受け入れるべきものです。私はそのような罪人の中でも最も罪深い者です」。
(テモテ第一 1:15)
したがって,敵対者を愛するわたしたちの愛は,その愛に何らかの温かさや愛情が伴うかどうかは別として,神によって定められた原則に支配されるべきであり,神のおきてに対する従順のうちに示されるべきです。