八坂神社すぐ横の「二軒茶屋」で美味しいあんみつを楽しんだ後、再び「祇園の垂れ桜」を見に、南桜門から八坂神社境内に入って行く。神社の中もお昼間に見た感じとは違う幻想的な雰囲気が溢れていた。
こちらは帰りに通った四条通りから見た八坂神社の様子↓
四条通りと祇園の様子↓
境内を横切り円山公園に向かって歩いて行くと、日中に見た景色とはひと味も二味も違う表情の満開の桜達が目の前に現れ始めた🌸
そして、遠くの暗闇にライトアップされ一際目立つ大きな垂れ桜が浮かび上がって来た。吸い寄せられる様に垂れ桜に向かって行くと、夜の「祇園の垂れ桜」は妖しい魅力で溢れ、まるで生きている女性の様に思える艶かしさが、お昼間よりも更にパワーアップしていた。こちら↓
見る角度によっても全然違う様に思える「祇園の垂れ桜」。
妻子ある与謝野鉄幹を情熱的に愛した与謝野晶子もこの時期、この「祇園の垂れ桜」を見上げながら恋に身を焦がしていたのだろうか。
私が子供の頃に流れてたCMで、何のCMだったのかは覚えていないが、与謝野晶子の短歌をしっとりとしたメロディにのせて歌っていたものがあった。その時の短歌が与謝野晶子の代表作とも言える、
" 柔肌の 熱き血潮に 触れもみで
寂しからずや 道を説く君 "
(与謝野晶子 『みだれ髪』より)
だった。子供心に「これってスゴい歌なんじゃないか、、(・・;)」と衝撃を受けたのを覚えている。それ以来、与謝野晶子に興味を持って、彼女の短歌や生涯についての書籍を読み漁った時期がある。そう言えば、短大の卒論のテーマも与謝野晶子だった(^^;
この短歌の解釈は、
“理性で止めようのない、貴方を欲している私の体。
その体を前に、これからの文学や短歌のありようを真剣に語る貴方。
貴方は、私の体を抱きしめなくても、寂しくないのですか。”みたいな感じらしいが、「サラダ記念日」で一躍有名になった現代の歌人、俵万智は、与謝野晶子の短歌を現代風にこんな感じで詠っている。
" 燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの "
俵万智風に、口語的な短歌にして詠んだとしても、艶かしくてドキドキしてしまう事には変わらない(^^;
この衝撃度に匹敵する短歌で思い出すのが、私が以前記事にした河野小百合女史が詠った「私をジャムにしたなら」だ🎵
いつの世にも、「祇園の垂れ桜」の様な情熱的で恋の炎やフェロモンを惜し気もなく出せる女性が存在するのだ(^_^;)
私は" 女性 "を売り物にする女性は好きではないが、これだけ" 女性 "である事を武器にして、誇らしげに能動的に女性に徹する事ができるなんて、ある意味女性である事に甘えて受動的な私からすると羨ましくさえ思ってしまう。
与謝野晶子は又、反戦を公に口に出来なかった時代に、
「あぁ弟よ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 」
と、日露戦争旅順攻囲戦に従軍した弟に向けて詠った事でも有名だ。個人的にはこの歌も、自分の正直な溢れ出る想いとして詠った与謝野晶子も大好きで、尊敬さえしている。
与謝野晶子と鉄幹の恋は、実質的には不倫であったけれど、今巷で世間を賑わしている" ゲス不倫 "なんかではなく、弟に向けて詠んだ時の様に、自分の身を呈してでも真剣に愛した上での不倫と言う形だったんじゃないかと思う。彼女の恋は、きっと真っ直ぐで全身全霊の恋だったのだろう。
与謝野晶子しかり、河野小百合しかり、「祇園の垂れ桜」の様な妖艶さは私にはないけれど、「祇園の垂れ桜」に限らず夜桜の下にいたとして、「君と僕と桜だけだよ…」なんて耳元で囁かれたとしたら、、、惑わされても構わない
と思ってしまうかもしれない。
夜の桜はそれ程までに、妖しく美しい魔力で溢れてる。
こちらは帰りに通った四条通りから見た八坂神社の様子↓
四条通りと祇園の様子↓
境内を横切り円山公園に向かって歩いて行くと、日中に見た景色とはひと味も二味も違う表情の満開の桜達が目の前に現れ始めた🌸
そして、遠くの暗闇にライトアップされ一際目立つ大きな垂れ桜が浮かび上がって来た。吸い寄せられる様に垂れ桜に向かって行くと、夜の「祇園の垂れ桜」は妖しい魅力で溢れ、まるで生きている女性の様に思える艶かしさが、お昼間よりも更にパワーアップしていた。こちら↓
見る角度によっても全然違う様に思える「祇園の垂れ桜」。
妻子ある与謝野鉄幹を情熱的に愛した与謝野晶子もこの時期、この「祇園の垂れ桜」を見上げながら恋に身を焦がしていたのだろうか。
私が子供の頃に流れてたCMで、何のCMだったのかは覚えていないが、与謝野晶子の短歌をしっとりとしたメロディにのせて歌っていたものがあった。その時の短歌が与謝野晶子の代表作とも言える、
" 柔肌の 熱き血潮に 触れもみで
寂しからずや 道を説く君 "
(与謝野晶子 『みだれ髪』より)
だった。子供心に「これってスゴい歌なんじゃないか、、(・・;)」と衝撃を受けたのを覚えている。それ以来、与謝野晶子に興味を持って、彼女の短歌や生涯についての書籍を読み漁った時期がある。そう言えば、短大の卒論のテーマも与謝野晶子だった(^^;
この短歌の解釈は、
“理性で止めようのない、貴方を欲している私の体。
その体を前に、これからの文学や短歌のありようを真剣に語る貴方。
貴方は、私の体を抱きしめなくても、寂しくないのですか。”みたいな感じらしいが、「サラダ記念日」で一躍有名になった現代の歌人、俵万智は、与謝野晶子の短歌を現代風にこんな感じで詠っている。
" 燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの "
俵万智風に、口語的な短歌にして詠んだとしても、艶かしくてドキドキしてしまう事には変わらない(^^;
この衝撃度に匹敵する短歌で思い出すのが、私が以前記事にした河野小百合女史が詠った「私をジャムにしたなら」だ🎵
いつの世にも、「祇園の垂れ桜」の様な情熱的で恋の炎やフェロモンを惜し気もなく出せる女性が存在するのだ(^_^;)
私は" 女性 "を売り物にする女性は好きではないが、これだけ" 女性 "である事を武器にして、誇らしげに能動的に女性に徹する事ができるなんて、ある意味女性である事に甘えて受動的な私からすると羨ましくさえ思ってしまう。
与謝野晶子は又、反戦を公に口に出来なかった時代に、
「あぁ弟よ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 」
と、日露戦争旅順攻囲戦に従軍した弟に向けて詠った事でも有名だ。個人的にはこの歌も、自分の正直な溢れ出る想いとして詠った与謝野晶子も大好きで、尊敬さえしている。
与謝野晶子と鉄幹の恋は、実質的には不倫であったけれど、今巷で世間を賑わしている" ゲス不倫 "なんかではなく、弟に向けて詠んだ時の様に、自分の身を呈してでも真剣に愛した上での不倫と言う形だったんじゃないかと思う。彼女の恋は、きっと真っ直ぐで全身全霊の恋だったのだろう。
与謝野晶子しかり、河野小百合しかり、「祇園の垂れ桜」の様な妖艶さは私にはないけれど、「祇園の垂れ桜」に限らず夜桜の下にいたとして、「君と僕と桜だけだよ…」なんて耳元で囁かれたとしたら、、、惑わされても構わない
と思ってしまうかもしれない。
夜の桜はそれ程までに、妖しく美しい魔力で溢れてる。