本日、研修の為、直行直帰。
一日中、座って講義を聴く。
終盤は腰が痛くなったが、なんといっても『眠かった~』。
帰宅後、研修の反動で無性に走りたくなって、着替えて即スタート。
いつもの1時間コースを突っ走る。
そして、いつもの通り後半はヘトヘトに。
自虐的な走りでヒザが悲鳴を上げていたが、最近はまあまあの調子。
走りながら『大切な人をなくされて何を学んだのだか…。』の問いが頭の中をグルグルまわる。
以前、ブログで投げかけられた質問だ。
走りながら考える。
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
何だろう?
今日は答えが出なかった。
昨日は、妻の誕生日だった。
年齢は私より一つ年下だったけれど、
誕生日付けは2週間弱早かったので、
これから数日間は同い年。
『数日間は同い年だね』と、毎年毎年話をしていたね……。
答えがひとつとは限らないし。
あたしは…どうだろう?
と、思ったら。
真っ先に浮かんだのは、
「伴侶が死んでも生きていけること」
でした。
すっごく、当たり前のことなんだけど。
だけど、
「あぁ、生きてる…。暮らしてる…」
と、思うことが出来たとき、意外に不思議でした。
心の穴がふさがらなくても。
眠れなくても。
胸が張り裂けそうでも。
「普通」の家族を見るだけで泣けたり、地雷を踏んでも。
生きていける。
この、実感は、死別しなきゃわからなかった。
ひざ、痛めないで下さいね(^^)。永く走るために。
ふみさん>
コメント、ありがとう。
なんだかね、走っている間ずっと呪文のように頭の中をクルクルと……。
文章の前後の脈絡もあるので詳しくは、こちらをご覧下さい。
→ブログのコメント 2010/01/24
ふみさんの言う不思議な感じ、分かります。
死別直後、特に病院で同じ感覚を味わいました。
これは現実なのか?
それとも夢??
自分の命と引き換えにすれば、妻は戻ってくるの?
今でもたまにそう感じることがあります。
最近、「地雷」踏んでも負けません(笑)。
例の「卒業」の話につながるんだけれどね。
と言っても、100%勝つ訳もなく、5、6回に1回程度は撃沈。
それに、分かっていても踏んじゃうこともあります。
あぁ、なんとおバカなんでしょう、私。
今度、高崎に来たら一緒に走ろう。
(^◇^)
本日、これから出勤。
研修の2日目です。
居眠りしないように頑張ります。
(^_^;)
未だ…グルグルさせてしまっているようで…でもきっと、いわともさんの心のなかで私のコメントとは別に言葉が根付き育っているんでしょうね。
私は、思い出を忘れたいとか、越えたいとか思わなかったし、ただし忘れることに罪悪感もなかったから…なんで再生とか、思い出に触れてアクシデントとか…卒業とか…言葉にこだわる男性死別視点がよくわからなかった。もちろん言葉での表現が心全てを映すものでないことも…重々に承知しながら…性別、環境、死因みなそれぞれ違い、共有できる哀しみあり、固有の哀しみあり人それぞれだと…
ただ新しい記事でいわともさんのおっしゃられるステップではないのですが、やはりショッキングなことから立ち直るとき人は、似たような段階を踏むとも実感しています。
私は、高校時代に学んだマズローの自己実現のピラミッドは、まさに私の喪失過程だったと。
喪失そのものより、自分が自分を越えて社会的認知要求が満たされ、自己実現が果たされていくなかで私のなかでの喪失も色を変えて行きました。ただこれもいわともさんのおっしゃられる通り、新しい問題に遭遇すると、また始めからになるし、なんで…とまた喪失のせいにもしたくなる弱さも。
行きつ戻りつ…のこれまででしたし、これからもでしょう…それでも時のなかでいつのまにか淘汰されてゆくものがあり、自然に再起、再生というより受容していたと振り返り思うのです。
いわともさんより、少し先を歩む私です。繰り返しの歩みの なかでもやはり、少しずつ積み上がってきたものを感じています。
昨年あたりから過去からの解放を感じていたのですが、今年は、いつになく四季が新鮮に映ります。自然に本当に自然に過去がおさまるところにおさまり新しい人生を歩いていると実感してます。
不思議ですね、最近開かずのクローゼットを開けて、あの頃輝いたものたちに触れると胸はキュン……でもまよいなく空に届けと…整理処分できる私がいます。やっとそう出来る時を迎えた…そんな感じです。上手く表現できませんが…大切な人を亡くして得たものは、哀しみをしったからこそ幸せを近くに感じられるようになった…恵みだったとそれだけは私は、断言できます。
そして今、その恵みの上に新しい時を重ねている…
私にかつてそうした喪失感に包まれた時間があったことさえ忘れてしまうんだろうなと…そう感じる自分に少し驚きながら…
恩恵とよぶかどうかですが、私は時がすべてを癒してくれたような気がしてます。
ただなるたけは非業の主人の死を無駄にしたくないという思いが私は強くて…喪失をいつか幸せに変えられたらという思いは常にありました。私をただ愛してくれた主人に報い、届けられる精一杯の思いでした。
どこまで思いが伝わるかわかりませんが長々と失礼しました。
いわともさん、ご無理なきよう、自然にまかせて、笑顔でいてください。
いつかと願った日はいつのまにか訪れていた…そんな感じです。
ルカさん>
コメント、ありがとうございます。
あの言葉を投げかけられた当初は、非常にショックであったことは事実です。
『何故、見ず知らずの人からこんなことを問われるんだ?』と(笑)。
でもお察しの通り、、あれから私の中で「投げかけられた言葉」は変化して行きました。
私はルカさんの域までまだまだ達していません。
いつのまにかその域に達しているものでしょうか……。正直、分かりません。
まぁ、でも、『そろそろかなぁ~』と言う漠然とした感覚はありますし、
死別直後に比べれば格段に良くなっているのは実感しています。
ルカさんは、新しい人生を歩き始めているのですね。
おめでとうございます、良かったですね。
私はもうちょっとみたいです。
いや、もう越えているのかな?