泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

畿内地域の大王墓「今城塚古墳」

2022年05月29日 19時35分08秒 | 歴史

大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある「今城塚古墳(いましろづかこふん)」は、前方後円墳で国の史跡に指定されています。宮内庁の治定は受けていませんが、第26代「継体天皇」の真の陵とする説があります。

今回は、「継体天皇」の真の陵とする説がある「今城塚古墳」を紹介したいと思います。

「 今城塚古墳」は、造営時の6世紀前半では最大級の古墳です。三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約360メートルをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。淀川流域最大級の前方後円墳で、墳丘だけで全長181mあり、その周囲の二重の濠を合わせると総長約350m、総幅約340mもの規模を誇ります。この古墳は6世紀前半につくられた「継体天皇」(聖徳太子の曾祖父)の墓だといわれています。

平成13・14年度の調査 で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわさいしく)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。なお「今城塚」という名称は、戦国時代に城砦として利用されたことに由来し、江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。

大王墓(天皇陵?)でありながら、古墳の中を自由に歩きまわれる公園は“日本でここだけ”だそうです。とても整備されています。特に、復元された埴輪祭祀区が素晴らしいです。近くには、「今城塚古代歴史館」もあります。ここで、発掘された物を中心に展示してあります。

また、近くの阿武山と呼ばれる山の麓には、「乙巳の変」で活躍した「藤原鎌足」の墓ではないかと言われている「阿武山古墳」もあります。古墳好きな方には、お薦めのスポットです!

                 

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新緑に囲まれながら流れる「飛鳥川」

2022年05月21日 20時22分06秒 | 散歩
奈良県明日香村の中央を流れる飛鳥川は、万葉の歌にも多く登場する河川です。万葉集では、明日香川と記されていることが多いようです。現代では、飛鳥川と記されています。飛鳥は、まだ新緑がとても綺麗です。
今回は、新緑に囲まれながら流れる「飛鳥川」の風景を紹介したいと思います。
飛鳥川の源流は、明日香村の南東の畑・入谷地区や芋峠に発します。
奥飛鳥である栢森・稲渕地区の谷あいを流れ、祝戸で平地に出て冬野川に合流し奈良盆地南部を流れ大和川中流部に注ぎます。全長約24㎞の河川です。
今回紹介するのは、万葉集にも詠まれた稲渕地区の石橋のある風景と、その上流にある栢森地区の飛鳥川の風景です。
明日香村を流れる飛鳥川には、栢森・稲渕地区の村を守るしめ縄がかけられています。上流にある雌綱(栢森地区)と、下流の雄綱(稲渕地区)は、毎年1月に新しくかけかえられます。
〇稲渕地区の飛鳥川の風景
稲渕地区の入り口にある「男綱」から、飛鳥川上流域にある日本で一番長い名前の神社「飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社 」付近の風景です。この神社は、「皇極女帝」(のちの斉明女帝)の雨乞いが、南無天踊りとしていまに伝わっています。 

「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」作者不詳
(訳)「明日香川、明日にでも渡って逢いに行こう。石橋の遠い先の見通しなど思いもよらないのです。」

        

〇栢森地区の飛鳥川の風景
栢森地区の入り口にある「女綱」から、集落の中の川の風景と芋峠の入り口にある「ごろ滝」の風景です。

「今日もかも 明日香の川の 夕さらず かはづ鳴く瀬の 清けくあらむ」 上古麻呂
(訳)「今日もまた明日香川では、夕方になるといつもカエルの鳴く瀬がすがすがしいことだ。」

新緑に囲まれながら流れる飛鳥川沿いの散策は、とても気持ちがいいですよ!
          


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古代の予想される「飛鳥地域の道路網をブライズミ」(3)

2022年05月16日 20時18分07秒 | 歴史
奈良県の飛鳥地域の予想される道路を、古代に思いを馳せて研修で学んだ「古い道と遺跡を考える」の資料や文献資料を参考にしながら、たいした根拠もありませんが、何か痕跡が残ってはいないか探しながら「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」をしてみました。
前回は、「飛鳥宮東辺道路」・「宮内道路」でした。
第3回目は、「飛鳥寺周辺の道路」です。
〇飛鳥寺西辺道路
・場所
飛鳥寺西門には南北方面の石敷きがあり、道路状遺構とも推定されるようです。石敷きは、10~20cmの小礫を敷き、東西端には自然石を並べて切り石としているようです。飛鳥寺の西側は「日本書紀」に出てくる「西の槻樹(つきのき)の広場」に該当する地域で、遺構としては確認できていませんが南北道路が通過していた可能性が考えられているようです。
・痕跡
これといった痕跡はないのですが、前回紹介した「飛鳥宮北辺道路」の段差のある南から北への道は、予想される地図をみると古代の道路のようです。
真っ直ぐ北に進むと、飛鳥寺の西門前(西門の礎石)を通過しているようです。さらに、北に進むと、飛鳥寺の寺域の北西限や飛鳥時代の時計台である水落遺跡や迎賓館である石神遺跡がある飛鳥時代の古道と思われる「古山田道」(7世紀前半?)に繋がります。さらに北に進むと、「新山田道」(7世紀中半?)に繋がります。
普段、散歩している道が古代の道路と思うと、何か不思議な感覚に陥ります!

                


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古代の予想される「飛鳥地域の道路網をブライズミ」(2)

2022年05月09日 17時20分08秒 | 歴史
奈良県の飛鳥地域の予想される道路を、たいした根拠もありませんが、何か痕跡が残ってはいないか探しながら「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」をしてみました。
飛鳥には、古代の道の跡の遺構としての道路が確認された地点は少ないですが、飛鳥宮跡周辺の道路として確認されているのは、「飛鳥宮北辺道路」と「飛鳥宮東辺道路」があります。
前回は、「飛鳥宮北辺道路」でした。
第2回目は、「飛鳥宮東辺道路」・「宮内道路」です。
〇飛鳥宮東辺道路
・場所
「飛鳥宮東辺道路」の場所は、「飛鳥宮」跡の東にある「天理教岡大教会」前の道路の横の歩行者用道路の所です。
「飛鳥宮東辺道路」は、飛鳥宮跡東面大垣の東で検出した、南北方向の石敷きです。幅1.2mで10~30cmの川原石を並べていて、幅約9mの硬化面があり南北道路面であったと考えられています。(2001年・2002年に飛鳥京跡146次・147次調査)
調査の結果、ここから道路遺構と敷石を伴う建物が見つかりました。
7世紀後半の天武天皇時代の道路のようです。
北に道が続き、「飛鳥寺東南道路」に繋がります。古代の予想される道路地図では、飛鳥宮跡の東(右の赤い南北線)の道路です。模型図では、一番下に見える道路です。
・痕跡
残念ながら、痕跡らしきものは残っていません。多分、現在の道路とかなり重なっているのではないかと思います。
この道をそのまま北に進むと、飛鳥寺の東に到着します。

                

〇「宮内道路」
・場所
「宮内道路」は、「天理教岡大教会」前の道路横の歩行者用道路のすぐ西側は、空き地になっています。この場所で、発掘調査がおこなわれました。(2001年・2002年に飛鳥京跡146次・147次調査)
この場所から西に進むと、「飛鳥京跡苑池」の東面塀の門に着くようですこれらを結ぶ東西ラインが「宮内道路」のひとつと考えられています。
・痕跡
残念ながら、発掘調査がおこなわれ道路遺構の西側を見ても、門の跡から東側をみても痕跡は残っていません。現在は田んぼになっています。
「飛鳥京跡苑池」に伴う新たな掘立柱建物は、南北4間(約10.8m)・東西2間(東西約5.4m)が検出されました。
門の跡が見つかった時の、現地説明会(2015年9月)の様子です。
「飛鳥京跡苑池」における位置関係から考えて、苑池出入り口である「門」となる可能性が考えられるようです。
苑池に入るために、斉明天皇や天武・持統天皇が、「宮内道路」を通りこの「門」を通って苑池に入ったかもしれないと想像するだけでも、楽しいですね!
         



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古代の予想される「飛鳥地域の道路網をブライズミ」(1)

2022年05月02日 14時07分55秒 | 歴史
古地図を参考にしながら歩くという「ブラタモリ」という番組がありますが、いつも興味深く視聴しています。ご覧になった方も、多いのではないでしょうか?
以前、「ブラタモリ」をまねて、奈良県の飛鳥を「ブライズミ」して紹介させていただきました。(2015年8月「飛鳥京への道」・2017年1月「古代からの畔」)
今回は、その続編です。
奈良県の飛鳥地域の予想される道路を、たいした根拠もありませんが、何か痕跡が残ってはいないか探しながら「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」をしてみました。数回にわたって、紹介したいと思います。
研修で学んだ「古い道と遺跡を考える」の資料や飛鳥資料館の「飛鳥宮を中心とした模型」・「古代飛鳥の都市構造」等の文献資料を参考にしながら、古代に思いを馳せながら飛鳥地域の予想される道路を探索しました。
どうも古代の道路は、基本的に直線で築かれていたようです。
現在、何か痕跡(畔・段差等)が残ってはいないか、予想される道路地図を見ながら歩いてみました。
飛鳥には、古代の道の跡の遺構としての道路が確認された地点は少ないですが、飛鳥宮跡周辺の道路として確認されているのは、「飛鳥宮東辺道路」と「飛鳥宮北辺道路」があります。
第1回目は、「飛鳥宮北辺道路」です。
飛鳥には、古代の道の跡の遺構としての道路が確認された地点は少ないですが、飛鳥宮跡周辺の道路として確認されているのは、「飛鳥宮東辺道路」と「飛鳥宮北辺道路」があります。
〇飛鳥宮北辺道路
・場所
飛鳥宮・飛鳥京跡苑池から飛鳥寺へ行く周遊道(南から北への道)の途中で、段差がある所です。
飛鳥資料館の模型を見ると、丁度「飛鳥寺」と「飛鳥宮」の北限との間の大道のようです。
古代の予想される道路地図では、飛鳥宮跡の北の東西道路です。
・痕跡
飛鳥宮の北限に関わる遺構としては、飛鳥寺南大門の南110mで確認された東西石垣大溝があります。東西道路の状況からみると、石組大溝の南に広がるバラス敷きの道路面の可能性が高いようようです。道路幅が26m以上の東西道路と考えられているようです。
この辺りが、飛鳥宮外郭の北限とされているところです。
地図を見ながら、何か痕跡(畔・段差等)が残ってはいないか探した所、丁度その場所と思われる所は、「飛鳥京跡苑池」から北にある「飛鳥寺」に行く道の途中で、道が急に下がっている所です。南から北の道路が急に低くなっており、測ってみると約1mの段差がありました。 
ひょうとして、この辺りが古代の東西「飛鳥宮北辺道路」ではないかと思うと、何だか古代にタイムスリップしたような感覚に陥りました・・・
東に行くと、「飛鳥宮東辺道路」と繋がっています。
また、飛鳥資料館の模型を見ると「飛鳥宮北辺道路」の東側の近くには井戸のようなものがみうけられます。現地に行ってみると、小さな井戸がありました。地元では、「安居(あんご)の井戸」と呼ばれているようです。ひょうとして、これも古代からの井戸かも?と思いました。それにしても、飛鳥資料館の模型は古代の道路等も示してあり、大変良く調べて作成されていると感心しました。
今回、予想される「飛鳥宮北辺道路」の探索は、真に「ブラタモリ」ならぬ「ブライズミ」でした! 

   
       


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