泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

一足先に稲渕地区の 「案山子ロードの案山子 」

2017年08月31日 20時58分47秒 | 散歩

明日香村の奥飛鳥と呼ばれている稲渕の棚田地区には、「日本の棚田百選」に選ばれた棚田があり、 毎年9月下旬のお彼岸前後に彼岸花が見頃になります。毎年、多くの方が来られています。

2017年の「彼岸花祭り」は、9月23・24日に稲渕地区及び飛鳥歴史公園石舞台地区で行われます。

今回は、一足先に稲渕地区の「案山子ロードの案山子 」を紹介したいと思います。

 棚田の間の歩道は「案山子ロード 」と言われており、 毎年たくさんのユニークな案山子が並べられます。

今年のテーマは、何と「案山子」です。ジャンボ案山子は、「忍者」です。

日本の原風景が残る稲渕の棚田を散策していると、すでに今年の「案山子」が並んでいました。多分、半分くらいの「案山子」さんだと思いますが、いつもと違って何だか懐かしさを感じさせられる「案山子」さんでした。

飛鳥も朝夕、秋の気配を感じさせられるこの頃です。今年も、彼岸花をバックにした「案山子」さん達を、楽しみにしています!

                               

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飛鳥時代で最大級の石室があったとみられる 「小山田古墳」の現地説明会

2017年08月27日 21時01分48秒 | 歴史

奈良県明日香村において、8月26日に「小山田古墳」の現地説明会が行われ、多くの方が来られていました。

今回は、飛鳥時代で最大級の石室があったとみられる「小山田古墳」の現地説明会について紹介したいと思います。

「小山田古墳」は、飛鳥時代最大級の方墳です。「小山田古墳」を調査している県立橿原考古学研究所(橿考研)は8月24日、古墳の横穴式石室の通路である「羨道(せんどう)」の長さが少なくとも8.7メートルあることが分かったと発表しました。同時期で最大級の「石舞台古墳」の羨道に匹敵する可能性があるといされています。
発掘調査は7~8月に、同村の県立明日香養護学校の校舎を挟み、南北2カ所で実施されました。北側は約10メートル四方、南側は東西約8メートル、南北約10メートルの範囲にわたって行われました。

校舎南側の調査では、石を抜き取った穴を八つ確認されました。穴は大きいもので、長さと幅がそれぞれ2・5メートルほどあり、北に向かって2列に並び、羨道を構成していました。これらの穴のうち、前回の調査で一部が発見されていた一番南側の穴二つが、羨道の入り口部分(羨門)に当たると確認されました。調査結果を総合すると、羨道は幅約2.6メートルで、長さは少なくとも8.7メートルあるといい、さらに北に向かって延びているとみられているようです。
「小山田古墳」はこれまでの調査で、一辺が約70メートルと推測されており、出土品などから630~640年ごろに造られたと考えられています。橿考研は、中大兄皇子(天智天皇)の父、「舒明天皇が」最初に葬られた墓の可能性があるとしている一方で、当時権勢を振るった大豪族の「蘇我蝦夷」の墓とする説もあるようです。

今回とても興味をひかれたのは、石の抜き取り穴の中で、くさび(石を割る道具)を打った跡とみられる、江戸時代後半の「矢穴」がついた石を見ることが出来ました。

古墳そのもは、7世紀後半には壊されとされていたようですが、石室の石は、約1000年後の江戸時代まで残っていたのでしょうか・・・

また、この日は「小山田古墳」の西側にある「菖蒲池古墳」が5年ぶりに扉が開けられ、横穴式石室の中にある漆塗りの石棺を身近に見ることが出来ました。

「小山田古墳」に並ぶように築かれているのが「菖蒲池古墳」です。一辺約30mの方墳です。この2つの古墳を、蘇我蝦夷が自分自身と息子・入鹿のために生前に築いたとされる「双墓」ではないかという説も出てきて、注目を集めています。

はたして、「小山田古墳」や「菖蒲池古墳」の主は一体誰なのでしょうか? 「歴史は、ロマンですね~!」

                                                  

 

 

 

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緑一面に広がる 「飛鳥の夏の田園風景」

2017年08月23日 19時45分12秒 | 散歩

明日香村の夏の時期は、訪れる人が少なく閑散としています。その分、のんびりと飛鳥を散策することができます。

今回は、緑一面に広がる「飛鳥の夏の田園風景」を紹介したいと思います。

夏の飛鳥の風景は、何と言っても緑一面に広がる田園風景です。

特に、「真神が原」と呼ばれている飛鳥京跡から飛鳥寺にかけての田園風景や、細川谷や奥飛鳥と呼ばれている「稲渕」の棚田の風景が大好きです。

「稲渕」には、今年の大きな案山子が完成していました。今年は、「忍者」の案山子です。9月には、「彼岸花祭り」が行われ多くの方が来られています。「案山子コンテスト」も行なわれ、力作揃いで毎年楽しみにしています。今年は、どんな「案山子」を見ることができるのでしょうか・・・

飛鳥の夏の田園風景を見ながらの散策は、何か懐かしく感じられて、とても心が落ち着きます!

ところで、7月に地元の大学生と一緒に植えた「秋桜の花」が咲き始めました。

飛鳥の地も、少しづつ秋に近づいてきているのでしょうか・・・

                           

 

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飛鳥資料館での 「実験考古学 玉枕制作」

2017年08月17日 17時36分15秒 | 歴史

「実験考古学」とは、発掘調査で出土した遺物や遺構の持つ性質を探るために、その遺物や遺構の製作方法や使用方法を復元し、それらを使用したときの効果や有効性を確かめたり、ある考古学上の考え方や仮説に対しその考え方や仮説が正しいかどうかを確かめるために行われるものとされています。

過去、飛鳥において「実験考古学」として「川原寺裏山遺跡の塼仏」や「弥生式土器」の制作を体験しました。

8月中旬に、飛鳥資料館において「阿武山古墳」の貴人用の棺から発見された「玉枕」の制作の講座がありましたので参加しました。

今回は、飛鳥資料館での「実験考古学 玉枕制作」について紹介したいと思います。 

「阿武山古墳」(あぶやまこふん)は、大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳で、国の史跡に指定されています。

阿武山(標高281.1メートル)の山腹に位置します。地下から古代の貴人の埋葬遺体が発掘され、被葬者を大化の改新の中心人物である「藤原鎌足(中臣鎌足)」に比定する説が知られています。また、「阿武山古墳」の貴人用の棺には、遺体とともに「玉枕」と冠がありました。

1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見されました。通常の古墳にあるような盛り土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域が形成されていました。

墓室は墓域中心の地表のすぐ下にあり、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められており、上を瓦で覆われ地表と同じ高さになるように埋め戻されていました。内部には棺台があり、その上に、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)が日本で初めて発見されました。

棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていました。鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った「玉枕」のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられました。

飛鳥資料館での「実験考古学 玉枕制作」は、最初に「阿武山古墳」や「玉枕」について帝塚山大学の先生の説明が行われ、その後、飛鳥資料館のスタッフや帝塚山大学の生徒さんの協力を得ながら約2時間半くらいかけて、手のひらサイズの「玉枕」を作りました。夏休みのせいか、親子の参加が多かったです。

1本の糸に小さなビーズをつけながらの作業は、とても難しかったですが、なんとか完成することができました。

飛鳥時代を想い浮べながらの「玉枕」の制作、とても貴重な体験をさせていただきました!

                                            

 

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すみれ色の花が見事な 「本薬師寺跡のホテイアオイの花」

2017年08月10日 18時08分23秒 | 散歩

奈良県橿原市城殿町(きどのちょう)には、国の特別史跡に指定された「本薬師寺跡」があり、現在は金堂跡と東西塔跡が土壇として残っています。

今年も歴史的遺産の「本薬師寺跡」周辺(橿原市城殿町)の水田に、約14,000株のホテイアオイを植え付けられました。今、すみれ色のホテイアオイの花を見ることができます。

今回は、すみれ色の花が見事な「本薬師寺跡のホテイアオイの花」を紹介したいと思います。

本薬師寺跡」は、680年11月12日、鵜野皇后(後の持統天皇)が病に倒れました。天武天皇は皇后のために病気治癒を誓願し、薬師如来を本尊とする寺の建立を思い立ち、百人の僧を得度させました。これによって皇后の病気は平癒したといわれています。道ばたには、古びた案内板とその下に置かれた作家「黒岩重吾」の筆による、「大伴旅人」の万葉歌を刻んだ碑が置かれています。 

忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古りにし里を 忘れむがため」 (巻3-334)

薬師寺跡」の寺域は休耕田になっていて、「ホテイアオイ定植農園」とされています。橿原市では、農業施策の一環として、水田の持つ多面的な機能を利用して、景観形成作物栽培を推進し、やすらぎと潤いのある街づくりを展開しており、毎年約14,000株のホテイアオイを植えつけらています。近くの畝傍北小学校の2年生の子供たちや近所の農家の人たちと一緒に植え付けているそうです。

すみれ色の花が見事に水田に広がる「本薬師寺跡のホテイアオイの花」、なかなか見ごたえがありますよ!

                       


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