泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

早春を彩る大和郡山 「大和な雛まつり」

2016年02月26日 15時41分45秒 | 散歩

奈良県大和郡山市にある「郡山城」は、豊臣政権の中初期には秀吉の実弟の羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心でした。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれたました。現在、早春を彩る「大和な雛まつり」が、旧城下町一帯で寺社・町屋・店舗などの展示場所(約130数ケ所)で開催されています。

今回は、「国営飛鳥歴史公園」においてボランティア活動をされている皆さんと一緒に、旧城下町を散策しながら、早春を彩る「大和な雛まつり」を見学しましたので、紹介したいと思います。

(行程) 郡山八幡神社ー源九郎稲荷神社ー旧川本邸(雛まつり見学)-薬園八幡神社(金箔の襖絵を特別拝観)ー菊屋(雛まつり見学)-郡山城(梅満開の郡山城見学)-解散

金魚で有名な郡山の旧城下町を、半日散策しました。早春を彩る「大和な雛まつり」見学の中で、メイン展示会場の木造3階造りの旧川本邸の「大階段」「流しびな」など多くの「お雛様」が、とても素晴らしかったです。今回の「大和な雛まつり」は、日本の早春を肌で感じさせられるひと時となりました!

                                             

 

 

 

 

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飛鳥時代の 「古代ガラス製作体験」

2016年02月20日 16時18分36秒 | 歴史

「飛鳥」には、色々な楽しみ方があります。今回は、実験考古学体験として「明日香村埋蔵文化財展示室」後方の「古代ガラス工房」で、「古代ガラス製作体験」を行いましたので紹介したいと思います。

奈良県明日香村の「飛鳥池遺跡」は、1997年から1999年にかけて県万葉文化館建設に伴う発掘調査において、古代のガラス工房や日本最初の銅銭である「富本銭」等が出土しました。飛鳥時代の官営工房として様々な製品を作っていたようです。

「飛鳥池遺跡」から発見されたガラス玉は、緑・青・黄・褐色などの色彩豊かな物が見つかりました。また、ガラス玉だけでなくその原材料や鋳型・羽口・るつぼなども多く出土しています。炉の規模や出土点数の多さから推察して、大量にガラス玉が作られていたと考えられています。今回、古代の製法で「古代ガラス製作」を、インストラクターの丁寧な指導のもと体験させていただきました。完成した古代ガラスは、飛鳥での貴重な体験と共に宝物となりました。古代に思いをはせながらの「古代ガラス製作体験」は、飛鳥ならではの楽しいひと時でした!

                                             

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梅が咲き始めた 「大宰府の西戒壇(さいかいだん)」 

2016年02月12日 18時29分41秒 | 歴史
「大宰府」にある「戒壇院」は、観世音寺が完成(746年)してから15年後の天平宝字5年(761年)に、日本三戒壇のひとつとして観世音寺の区域内に建立されました。
今回は、梅が咲き始めた大宰府の「西戒壇(さいかいだん)」を紹介したいと思います。
日本三戒壇とは、「中央階段(東大寺)」・「東戒壇(下野薬師寺)」「観世音寺の西戒壇(さいかいだん)」を言います。「戒壇」とは中央部に石で築いてある壇のことで、出家する者に対して、僧侶として守るべき戒律を授けるための儀式が行われる場所です。「観世音寺の戒壇院」は、花崗岩ができており、高さ約50cm・5m四方で中には、天竺(インド)・唐(中国)・大和(奈良)三国の土が納められています。
我が国の戒律は聖武天皇の招請によって唐から来た「鑑真和上」によって伝えられました。「鑑真和上」は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行ないました。これが最初の「戒壇」です。その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に「戒壇」をつくりました。
現在の寺は、江戸時代に観世音寺から独立して現在では博多聖福寺の末寺となっています。
「戒壇院」の本尊である「毘廬舎那仏」は、平安時代(12世紀)の作で漆の上に金箔をはっています。仏像の手の形を印というがこちらの形はお釈迦様が説法するときの形で、「説教印」といいめずらしい姿をしています。国の重要文化財です。脇侍は、向かって左は弥勒菩薩、右は文殊菩薩です。どちらも元禄時代の作で、太宰府市指定文化財です。右端には、「鑑真和上」像も見ることができます。
惣門・本堂があり、門前には、「不許葷酒肉入境」の石碑があります。意味は、肉や酒は修行の妨げと言うことです。
境内には、「鑑真和上」が唐から請来したものと伝えられる「菩提樹」や、江戸時代に作られた石造五重塔・鑑真の供養塔(五輪塔)・鐘楼等を見ることができます。
梅が咲き始めた「大宰府の西戒壇(さいかいだん)」。「菅原道真公」が愛した梅の香りを嗅ぎながら、のんびりと時を過ごすことが出来ました!
                               
 
 
 
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無病息災を願う 「奈良大立山まつり」

2016年02月08日 20時57分53秒 | 散歩

「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」とうたわれた「平城京」をしのばせる平城宮跡において、1月29日から2月2日までの5日間、「奈良大立山まつり」が開催されました。

今回は、無病息災を願う「奈良大立山まつり」を紹介したいと思います。

大和の各地には、 江戸時代の頃から「造りもの」を身代わりとして、降り懸かる厄を落とすという風習があり、この習わしを奈良独自の呼び方で「立山」と呼んでいるそうです。

この大和伝承の地域資源である「立山」を"由来"とした、無病息災の願いを継承する象徴的なまつりを新たに創出されたのが、今回の「大立山まつり」です。

「大立山まつり」では、奈良を代表する守護神の一つである四天王に因んだ巨大な「大立山」を4基制作し、灯りを入れた山車に仕立てられています。そして、これらの山車を近隣の高校生をはじめとする地域の人達が曳き、夜の平城宮跡大極殿院を練り歩きます。

併せて、県内各地の伝統行催事もご披露されます。丁度、「龍」の伝統行催事が披露されていました。

大和では、奈良時代の昔から「万灯会」という灯りを用いた祭りが行われてきました。世界の人々の幸せと平和を祈る「大立山まつり」を、「灯りのイベント」の始まりともいえる奈良を象徴する代表的な祭りとして、今後も行われるそうです。

また、会場入口には、「あったかもんグランプリ」が開催され、温かい食べ物をテーマに、県内市町村一斉で、地元の食材を使った料理が一堂に会されていました。鍋料理はもちろん、あったかい汁ものなど、奈良の色んなあったか料理が、一食300円で味わえます。この夜、三種類の料理を食べました。とても、おいしかったです。

東西南北の各方角を護る四天王は、風水によって定められた色でライトアップされていて、とても幻想的でした。さすが、古(いにしえ)の都は、冬のイベントが多いですね!

                              

 

 

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福多かれ 「元興寺の節分」

2016年02月04日 20時41分31秒 | 散歩

2月3日は、大和の多くの神社や寺院で「節分」の催しが行われました。昨年は、東大寺二月堂の「節分」に参加しました。今年は、奈良町にある「元興寺」の節分に参加しましたので、紹介したいと思います。

「元興寺」は、我が国最初の本格仏教寺院とされている「法興寺(ほうこうじ)」までさかのぼります。「法興寺」とは、推古天皇4年(596)に時の権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)が飛鳥に建立した寺で、一般には、"飛鳥寺”と呼んでいます。

和銅3年(710)に都が藤原京から平城京へ遷されました。その平城京遷都に伴って、「法興寺」も養老2年(718年)に飛鳥から平城京に移され、寺名も「元興寺」と改称されました。

「元興寺」では、節分行事の一つとして、本堂に不動明王を遷座して僧侶による供養が行なわれます。続いて本堂前で導師と行者衆による星祭・厄除け・招福祈願の柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)と火渡りが修されます。剣技の奉納が終わると、元山上千光寺修験者によって柴燈大護摩供が執り行われます。最初に四方と護摩壇に破魔矢を放って結界を張る所作を行ない、二本が結界の外に放たれる縦・横・高さ、数メートルに組んだ薪で護摩を焚き、熾(お)き火の上を素足で火を渡る修行です。

先ず導師が火渡りをし、続いて火渡りの希望者が素足で次々と渡ります。護摩供養ではこれが火伏せと言う行法である不動明王を勧進して祈願を行います。願いを書いた護摩木を炎に投入し焼き尽くすことで、我々のけがれ、心の迷いや煩悩を護摩の火(不動明王の智慧の火)で焼き清めてもらおうというものです。

最後の催しである豆まきは、午後3時を少し過ぎて行われました。壇上に並んだ、しかまろくん・せんとくん・福男・福女からかけの声とともに豆袋がまかれました。豆まきは、鬼を追う神事から始まったとされ、一般的には「福は内」の掛け声に「鬼は外」が対句として使われていますが、「元興寺」の豆まきのかけ声は変わっていて、「福は内、鬼も内」です。

「元興寺」には「元興神(がごぜ)」という鬼がいて、悪者を退治すると言い伝えがあるそうです。そのため、掛け声は「福は内、鬼も内」と言うそうです。寺によると「鬼は外ではなく、自分の心の内にいる」という戒めからだということだそうです。

今回は、見学だけでしたが、来年は火の上を素足で渡る体験をしてみたいと思っています。さすがに、古(いにしえ)の都は、伝統的な催し物が多いですね!

                                 

 

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