泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

奈良県御所市で行われた「大塩平八郎手配書を読み中井家御所まちを巡るツアー」

2025年03月17日 09時28分07秒 | 歴史
奈良県御所市ごせ町センターにおいて、3月5日に「大塩平八郎手配書を読み中井家御所まちを巡るツアー」(歴史館あすか☆小山座主催)に参加しました。
初めての古文書ツアーということでしたが、講座の先生のわかりやすい解説のもと、御所市において登録有形文化財(1792年の棟札)にも指定されている中井家に伝わる「大塩平八郎の乱」後の手配書を読みときました。
その後、ガイドさんによる古い町並みを散策しました。
途中「中井家」に立ち寄り江戸時代の御所町の公文書等を御当主により説明をうけました。
古い町並みが残る「御所まち」は、江戸の風情が残る陣屋町です。
関ヶ原の戦いの後、御所一万石の大名に取り立てられた桑山家により整備され、奈良中南部の中心地としてなっていきました。南北に流れる葛城川を挟んで「西御所」「東御所」という2つのエリアに分かれており、西御所は大和絣や菜種油づくりを営む家が並んだ商家の町として発展。対する東御所は、1546年に開山された「大和五ヶ所御坊」のひとつである「円照寺」を中心に、寺内町として栄えてきました。
250年以上前の検地絵図と見比べても、町割りや背割り下水などがほとんど変わらないほど当時の姿をよく残しており、国の登録有形文化財である「中井家住宅」を筆頭に、江戸から昭和初期に建てられた百数十軒もの町家が今も人々の生活の場として残っています。
今回の「大塩平八郎手配書を読み中井家御所まちを巡るツアー」は、とても充実していて、またこのような機会があれば参加したいと思いました!

       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県明日香村石神遺跡で「天武朝期の塀跡出土の現地見学会」

2025年03月12日 05時49分11秒 | 歴史
奈良県明日香村石神遺跡で、7世紀後半につくられたとみられる堀跡がみつかり、2025年3月8日11時~15時に現地見学会が行われ、多くの古代史好きな方が来られていました。
飛鳥時代に、国内外の賓客をもてなす施設などがあったとされる明日香村の石神遺跡の発掘調査で、新たに南北方向の塀の跡などが見つかりました。  
石神遺跡には、飛鳥時代に迎賓館の役割を担った建物や役所などがあったとされています。
 2023年度の発掘調査では、7世紀後半から末とみられる東西方向の塀の跡が確認されており、今回はその東側で発掘調査が行われました。その結果、東西方向の塀はさらに約21メートル東に延び、そこから北に折れることが分かりました。南北方向の塀は約6.3メートル確認され、さらに北に延びるとみられます。
  これまでの発掘調査の成果を踏まえると、塀に囲まれた区画は、東西に長さ約133メートル、南北に95メートル以上の大規模なものだと考えられるということです。 
 石神遺跡では、7世紀後半から末にかけて役所の存在が推定されていて、その関連が注目されます。
 天武朝の石神遺跡は迎賓館の役割を終え、飛鳥浄御原宮の北館のような宮殿関連施設や役所があったのではないかと考えられる先生もおられるようです。
いつも、さんぽの途中に何か新しい発見があるのかワクワクしながら発掘現場を見学していました! 次は、何がでてくるのかな・・・

                     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥宮跡現地説明会「飛鳥京跡第191次調査・2024」

2024年12月02日 09時17分00秒 | 歴史
奈良県明日香村「飛鳥宮跡」で、2024年11月30日・12月1日に、飛鳥宮跡現地説明会「飛鳥京跡第191次調査」が行われ、晴天のもと多くの方が来られていました。
今回の発掘調査の場所は、「飛鳥宮跡」から北へ約40mの所で吉野川分水の南側です。すぐ側は、飛鳥京跡苑池(休憩所)です。
今回の大型建物の跡は、「飛鳥宮跡」で10年余り前に一部が発見されたものです。
橿原考古学研究所が、10月下旬から周辺でさらに調査をすすめたところ、7世紀後半の建物の柱を据えた跡とみられる四角い大きな穴が合わせて14基見つかりました。
なんと、柱抜取穴の深さは約2m・幅約1.4mもあります。柱抜取穴には、50~60cm位の大型の石が含まれています。
おそらく、藤原京遷都の時に柱は抜き取られ、柱抜取穴を埋める際に入れられた考えられています。
これらの柱の穴について、位置や間隔大型の建物の跡は、当時の建物の中で最大だったことがこのほど行われた発掘調査でわかりました。柱の穴は、以前見つかった大型の建物跡の一部で、建物全体の大きさは、東西約35.4、南北約15と当時としては最大の建物になるということです。それまでは、「エビノコ大殿」と呼ばれている建物跡で、東西約29.2m・南北約15.3mです。
この最大の建物跡は、天武・持統天皇の時の「飛鳥浄御原宮」の時の建物と考えられているようです。
建物跡は、「飛鳥宮跡」の中にはあるものの天皇が生活し政務を行う場所でもあった「内郭」と呼ばれる区域の外側に設けられていてます。
研究所は、「後の平城宮に設けられていた『内裏』と呼ばれる天皇の私的空間のさきがけだったのではないか」と考えられているようです。
他にも色々な説が出ているようですが、はたして、「飛鳥宮跡」では最大の建物は一体何に使われたのでしょうか? 
ロマンいっぱいの、建物跡ですね?!
ところで、今回の発掘調査の場所は私の畑の近くにあり作業の合間に発掘現場を見学していました。大きな石が出ていて、一体何だろうか思っていました。現地説明会で、あの大きな石は柱抜取穴を埋める際に入れられたということがわかりました。
今回、まさか畑仕事の合間に見学していた所が「飛鳥宮跡」では最大の建物跡とは思いもしませんでした・・・
    「飛鳥はロマンいっぱいで、面白い!!!」

                        


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥の劇団(時空)さんによる「大化の改新」

2024年10月04日 09時35分19秒 | 歴史
良県明日香村中央公民館において、9月29日午後13時より地元劇団「時空」さんによる「大化の改新」の劇が上演されました。
あすか劇団「時空」さんは. 1999年9月旗揚げ公演されています。
飛鳥の魅力を伝えたいと地域作りの 一環として村民によって立ち上げた劇団です。台本、衣装、大道具、小道具まで団員で 作り上げる手作り劇団です。飛鳥時代の人物にスポットを当てた、創作劇を上演されています。 
今回は、久しぶりに「時空」さんのルーツともいえる「大化の改新」を見ることができました。
今回は、13時からなんと英語による「大化の改新」の上演。
14時からは日本語による「大化の改新」の上演でした。
小役人の小麻呂とその妻が、関西弁でコミカルに「大化の改新」へと誘う歴史創作劇でした。
舞台は645年6月12日、飛鳥板蓋宮においての出来事です。
当時は、豪族の蘇我氏は天皇家をしのぐほどの絶大な権力を持っていました。一方、天皇を中心とした中央集権国家の確立を目指す中大兄皇子は、蘇我氏の意のままに政治が行われるのを何とかしなければならないと思っていたのです。
中大兄皇子は、ある日蹴鞠の席で中富鎌足に出会います。同じ思いを持つ二人は南淵請安のところに出掛けて教えを請います。ところが、請安が蘇我氏の配下に殺されてしまいます。
意を決した二人は入鹿を倒そうと立ち上がりました。
いわゆる、乙巳の変(大化の改新)です。
約30分くらいの歴史創作劇でしたが、「時空」さんの熱演に拍手喝采でした!

             
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香村真弓にある「マルコ山古墳」

2024年09月09日 21時38分24秒 | 歴史
奈良県明日香村大字真弓に所在する「マルコ山古墳」は、真弓丘陵の尾根南斜面に位置し、横口式石槨を有した対角長約24mの高さ約5mの二段築成の多角形墳と思われます。
墳丘の北側には石敷が巡ることや排水施設の存在が発掘調査で確認された。埋葬施設は、凝灰岩の切石を組み合わせて築いた横口式石槨で、床や天井部分、奥壁、側壁など計17石で築かれ、天井石の内側は屋根形に掘り込まれています。
墳丘部分は調査で墳丘北裾に暗渠排水溝やバラスが敷かれていることが確認されています。
墳丘の西南方向から大きな盗掘孔があり、鎌倉末期から室町初期にかけての盗掘が遺留品から判明しています。 
石室内は全面に漆喰が施されていましたが、残念ながら壁画は描かれていません。棺は、杉板を銅釘で組み合わせた木棺が想定されており、棺の表面は、黒漆や朱漆によって仕上げられた麻布が張り合わせてある。出土した遺物には、鉄釘や銅釘、金銅六花形飾金具、金銅製大刀金具、尾錠などがあります。遺物は、飛鳥資料館で見ることができます。
これら、墳丘、石槨、木棺、出土遺物などから、高松塚古墳やキトラ古墳と同様の石槨構造であることが明らかとなり、7世紀末〜8世紀初頭に築かれたと考えられています。
現在は史跡整備により築造当時の姿に復元されています。
また、マルコ山古墳がある真弓の丘陵には、終末期古墳が数基あります。
この古墳の謎として、同時期に造られたキトラ古墳や高松古墳には壁面が描かれているのに、この古墳には漆喰までしているのにどうして壁面が描かれなかったのでしょうかね❔

                





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする