泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

日本最初の厄除け霊場・岡寺の「シャクナゲ・牡丹の花が見頃」

2019年04月29日 13時18分23秒 | 散歩

久しぶりに飛鳥に戻ってきました。奈良県明日香村にある西国三十三所の第七番札所『岡寺(龍蓋寺)』のシャクナゲや牡丹の花が丁度見頃ということで、早速行ってきました。

今回は、日本最初の厄除け霊場・岡寺の「シャクナゲ・牡丹の花が見頃」の様子を紹介したいと思います。

「岡寺」は、飛鳥の東の山の中腹にあり、坂を上ると重要文化財に指定されている鮮やかな朱色をした仁王門があらわれます。本堂などはその奥、石垣の上に建ちならんでいます。本尊である「如意輪観音座像」は塑像(土で造られた仏様)で、塑像としてはわが国最大の仏像です。また本尊は厄除け観音で知られ、古来より信仰を集めています。西国三十三所の第七番の札所ともなっています。

奈良時代の名僧「義淵僧正」が創建した『岡寺(龍蓋寺)』の名前の由来は、民衆を苦しめていた悪い龍を岡寺を開山した義淵僧正がその法力で池に封じ、大きな石で蓋をしたという伝説から来ています。のちに龍は改心し、よい龍になったとのことです。

この池は今でも境内に残されており、悪龍の災厄を取り除いたとして、岡寺は日本最初の厄除け霊場としても知られています。

歴史ある境内には、約3,000株もの石楠花(シャクナゲ)や樹齢500年のサツキ、牡丹・著莪(しゃが)、ツツジなど、美しい花々が境内を彩ります。

8時半過ぎに『岡寺(龍蓋寺)』に参拝に行ったのですが、すでに多くの方が来られていました。

仁王門近くの池から手水舍・本堂前の鉢などに浮かぶ、たくさんの天竺牡丹(ダリア)はなんとも素敵で、境内の池は「華の池」に変わります。多くの方が、カメラにおさめていました。

また、限定復刻御朱印や特別拝観もあっていました。2020年までは西国三十三ヶ所草創1300年記念行事の一環として、江戸時代に押印されていた御宝印や揮毫されていた文字などを一部再現した限定御朱印「西国復刻御朱印」を授与されています。こちらのほうも、多くの方が求められていました。特別拝観では、普段目にすることが出来ない「如意輪観音座像」のすぐ横から特別に拝観できました。

現在、シャクナゲや牡丹の花がほぼ満開で、とても綺麗で見事でしたよ!

 

                                       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九州最古の仏蹟「武蔵寺(長者の藤)」

2019年04月24日 11時57分20秒 | 歴史

福岡県筑紫野市にある「武蔵寺(ぶぞうじ)」の創建年については、飛鳥時代とも奈良時代ともいわれ定かではありませんが、境内から発見された瓦や経塚から11世紀頃までには寺が建立されていたことは確認されており、九州最古の仏蹟です。また、境内にある「長者の藤」は、1300年の歴史を持つと言われ、市指定の天然記念物となっています。

今回は、九州最古の仏蹟「武蔵寺(長者の藤)」の様子を紹介させていただきます。
「武蔵寺」の創建にかかわったのが、藤原鎌足の子孫、藤原虎麿(虎丸・虎麻呂・登羅麻呂)といわれています。なお、虎麿は初代の大宰帥蘇我日向臣無邪(耶)志(だざいのそち・そがのひむかのおみ・むさし)と同一人物ではないかともいわれています。寺名については、武蔵国池上より日蓮宗の僧が来て「武蔵寺」となったといわれています。686年に藤原虎麿が亡くなった後、その命日に「地蔵会」が行われ、現在も続いています。藤原虎麿の像が、近くの天拝山自然公園に建っています。

伝説では、虎麿が山中で怪火を射落としたが、夢の中でそれは薬師如来が宿る霊木の精であり、その霊木で薬師十二神将像を作り、堂を建てて祀るようお告げあった。これが「武蔵寺」の建立の由緒と伝えられています。虎麿は30歳を過ぎても子供がいないことが悩みであったようです。虎麿は薬師堂にこもり薬師三尊に祈り縋ったところ、その加護をえて女児を授かることができたということです。ところが疫病が流行り、多くの人々も亡くなった。虎麿の子もこの流行病に罹り、治す手立てがありませんでした。虎麿はさらに薬師如来に祈願し続けたところ、ある夜、夢の中に一人の僧侶が現れて「ここから東方に葦の生えている湿地があり、そこに温泉がある。ここで入浴させれば、必ず病は治るであろう」と告げ、姿を消しました。早速虎麿はその場所に行き茂った葦を刈り、こんこんと湧き出る温泉を見つけました。その温泉に子供を入浴させると、たちまち病気が治ってしまったそうです。これが、「二日市温泉(薬師温泉・旧武蔵温泉)」の始まりと言われています。太宰帥で万葉歌人でもある「大伴旅人」も、この温泉に入っています。現在も、安価で入浴できる施設が2か所あります。とっても、気持ちがいい温泉ですよ。

      

〇「武蔵寺」の境内にある藤は、1300年の歴史を持つと言われ例年4月末~5月の初旬(連休の時期)が 見頃となります。4月29日には「二日市温泉藤まつり」がおこなわれ、武蔵寺では稚児姿のかわいらしい子供たちも参加し、 フジの供養などが行われます。また隣接してある天拝山自然公園では、吹奏楽部演奏や撮影会などのイベントがあり、多くの家族連れでにぎわいます。

散策した時の「長者の藤」は、まだ2~3部咲きでしたが後1週間もすれば、満開になると思われます。

              

〇「武蔵寺」の入口近くに、小さな滝があり「紫藤(しとう)の滝」と言います。菅原道真公が901年に太宰府に左遷され、天拝山に登り 無実を訴えたと時に、この「紫藤(しとう)の滝」で身を身を清めたといわれています。 紫藤(しとう)とは、「武蔵寺(ぶぞうじ)」の「長者の藤」に由来しています。

          

〇そして、その滝から少し上った所に「御自作天満宮」と言うのがあります。 変わった名前ですが、名前の由来は、道真公が武蔵寺に参籠(祈願のため、神社や寺院などに、ある期間こもること)した時、 自分の等身大の木像座像を刻んで納めたと伝えられ、それが御神体となっていることから、こういう名前が付いています。

久しぶりに、「武蔵寺」周辺を散策しましたが、新緑がとても綺麗でしたよ!

         

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」(自然編)

2019年04月19日 12時41分38秒 | 散歩

NHKのBSプレミアムで放送されている『こころ旅』、ご存知ですか?

「人生を変えた忘れられない風景」「大切な人との出会いの場所」「こころに刻まれた音や香りの情景」「ずっと残したいふるさとの景色」など、お手紙に書かれたエピソードをもとに、ひとりひとりの心に大切にしまってある「こころの風景」を訪ねる番組です。

前回は、テレビで放送されているわけではありませんが、私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」(歴史編)を紹介させていただきました。

今回は、私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」(自然編)を紹介したいと思います。

「牛頸」と書いて、「うしくび」と呼びます。福岡県福岡市の南に隣接する都市である大野城市の南西に位置する地域に、「牛頸」地区と呼ばれる場所があります。

「牛頸」地区は豊富な自然に恵まれ、大野城市では唯一里山の景色が残っていて、夏季に入ると蛍(ゲンジボタル)が飛び交うことから、見物の人々の涼む姿で賑わう場ともなっています。なんとなく、飛鳥の里山の風景に似たような所で、とても癒される場所です。私にとって、飛鳥と共に「心の故郷」です。

珍しい地名である「牛頸(うしくび)」の地名は、「筑前国続風土記」によれば、平野神社(牛頸神社)から見える西の山の形(牛が横たわっている姿)に由来すると記されています。また、6~8世紀にかけてこの地にやってきた渡来人の村の名に由来するという説もあるようです。

「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」(自然編)は、里山の風景が残る「牛頸」地区の自然を紹介したいと思います。

「牛頸」地区の、里山の風景が残る散策コース

平野神社(牛頸神社)-牛頸小学校跡ー薬師堂ー牛頸地区の集落ーホタルが飛び交う牛頸川ー牛頸ダムー大野城いこいの森公園(桜の園)

〇大野城市牛頸にある「平野神社」は、京都の「平野神社」を本社とするお社で、地元では地名をとって「牛頸神社」とも呼び親しまれています。巨大な楠木が包み込む境内には、今木神や仁徳天皇をはじめとする五つの神をお祀りしております。正月の初詣では多くの方が参拝されます。

        

〇大野城(おおのじょう)市域南部の山麓に位置する牛頸(うしくび)地区には、かつて「牛頸小学校」という学舎がありました。

明治11年(1878年)に設立されたその学校は、当時の所在を御笠郡(みかさぐん)牛頸村字平野(ひらの)の一地とし、途中第三大野尋常小学校、牛頸尋常小学校、牛頸小学校との改称を経ながら、昭和46年(1971年)の閉鎖にいたるまで約100年その歴史を刻み続けてきました。その後、廃校ののちに「桜公園」と呼ばれる公園として、その痕跡をこの地に遺しました。散策した時は、丁度桜が満開で地元の方が「牛頸小学校」跡地で花見をされていました。跡地にたつ「二宮尊徳」の像が、懐かしさ感じさせられる風景でした。

      

〇 畑の中にある鎮守の森で、「薬師堂」の境内となっています。エノキ・クスノキ・タブノキ・ヤブニッケイ・クロキ・ヤブツバキなどから構成されています。特にエノキは最大級に成長したものです。またエノキにはキズタが登っていて、独特な雰囲気を出しています。この「薬師堂」にまつ祀られているお薬師様は目の神様としてあがめられています。「薬師堂」がある地域には、牛頸地区に昔からある集落が数件残っています。

            

 〇「大野城いこいの森公園」は、牛頸ダム湖を囲む公園です。公園に行く途中には、小さな牛頸川 が流れており、夏季に入ると蛍(ゲンジボタル)が飛び交っています。「いこいの森公園」には、遊具が充実している中央公園、スポーツのできるスポーツ公園、ダムを見渡せるダム記念公園、水際の水辺公園、またキャンプ場等多くの施設がダム湖を囲うように配置されています。
特に、公園内にある「桜の園」は、人も少なくゆっくりと花見ができる隠れた桜のスポットです。この場所にも、未調査の「牛頸窯跡」が残っています。
「牛頸」地区の風景は、私にとってはとても癒される場所で、飛鳥と共に「ずっと残したいふるさとの景色」ですね~!
 
 
                
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」(歴史編)

2019年04月14日 16時10分57秒 | 歴史

NHKのBSプレミアムで放送されている『こころ旅』、ご存知ですか?

「人生を変えた忘れられない風景」「大切な人との出会いの場所」「こころに刻まれた音や香りの情景」「ずっと残したいふるさとの景色」など、お手紙に書かれたエピソードをもとに、ひとりひとりの心に大切にしまってある「こころの風景」を訪ねる番組です。好きな番組で、よく見ています。

以前、明日香村の「岡本寺」が放映されましたので、ブログでこころの風景「飛鳥の岡本寺」を紹介させていただきました。(2016年10月12日)

今回は、テレビで放送されているわけではありませんが、私の、こころの風景「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」ということで、2回(歴史・自然編)に分けて紹介させていただきたいと思います。

「牛頸」と書いて、「うしくび」と呼びます。福岡県福岡市の南に隣接する大野城市の南に位置する地域に、「牛頸」地区と呼ばれる所があります。

大野城市は、福岡県福岡市の南に隣接し、古くから博多と大宰府を結ぶ交通の要所として繁栄した場所です。現在は、都市化していますが牛頸地区は豊富な自然と歴史に恵まれ、大野城市では唯一「里山」の景色が残っていて、夏季に入ると蛍(ゲンジボタル)が飛び交うことから、見物の人々の涼む姿で賑わう場ともなっています。

今は丁度桜が散りはじめ、田畑にはレンゲの花等を見ることができます。なんとなく、飛鳥の里山の風景に似たような所で、とても癒される場所です。私にとって、飛鳥と共に「心の故郷」です。今回は、「ずっと残したいふるさとの景色・牛頸」の歴史を紹介させていただきます。

珍しい地名である「牛頸(うしくび)」の名は、「筑前国続風土記」によれば、平野神社(地元では牛頸神社と呼んでいます)から見える西の山の形(牛が横たわっている姿)に由来すると記されています。また、6~8世紀にかけてこの地にやってきた渡来人の村の名に由来するという説もあるようです。

〇まず「大野城市」の名称について紹介しますと、665年に大野山(現在の四王寺山)に築いたわが国最古の朝鮮式山城「大野城」に由来します。
「大野城」がつくられた理由は、663年の朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで、わが国の遠征軍が敗れたためです。唐と新羅の攻撃に備えて「大宰府」を守るために、平野が最も狭くなった所を人工の土塁「水城」で防ぎました。「水城」は太宰府市との大野城市境に今も残り、長さ1.2キロメートル、基底部幅80メートル、高さ10メートルを誇ります。現在、整備されて水城の東門跡の所にある「水城館」で関係資料を手に入れることができます。また、あちらこちらに「小水城」が残っています。「水城」・「大野城」は佐賀県基山町を中心に広がる「基肄城」とともに日本を守るため連携して防衛にあたりました。

水城と同じ目的と構造で造られたものが、大野城市上大利(現在は旭ヶ丘)・春日市大土居(おおどい)・天神山(てんじんやま)、佐賀県基山町(JR基山駅のそば)に関屋土塁・とうれぎ土塁など知られていますが、規模が小さいのでこれらは特に「小水城(しょうみずき)」と呼ばれています。

牛頸地区傍の「上大利小水城」は、現在の規模は高さ約2メートル、最大幅15メートル、長さ約80メートルですが、造られた当時はまだ大きかったと思われます。今は埋まっていますが、前面(下大利側)には濠があったと思われます。これも立派な防衛施設です。現在は、整備され平成30年4月15日に「小水城ゆめあかり広場」としてオープンしました。大野城市の、貴重な歴史を感じることのできる広場となっています。

             

〇牛頸の地域は、「須恵器の窯跡」でとても有名です。6世紀中ごろから9世紀中ごろにかけて操業され、近畿を除けば西日本で最大規模の須恵器窯跡群です。大野城市の南部に位置する牛頸地区は、古墳時代後期から平安時代はじめまでの須恵器(すえき)という焼き物の窯(かま)が数多く見つかっていることで、全国的にも有名な「牛頸窯跡群〈うしくびかまあとぐん〉」です。現在は中学校が建っていますが、ここにも「ハセムシ窯跡」がありました。

窯は. 谷に面した丘陵の斜面に地下式窖窯を掘ったもので、たき口、燃焼部等の遺跡の一部は、現在公園(日の浦池公園)に保存されていて見学できます。まだ、未調査の窯跡が牛頸地区には数多く残っています。不動城跡には、未調査の窯跡があり煙道等を見ることができます。

         

      

〇「不動城」(牛頸城)は、牛頸地区の平野台団地の東にある標高93.3mの山に中世の城が築かれています。山は宅地造成によって大きく削られています。山頂部が主郭と思われるが南と西が大きく削られています。北西に伸びる尾根に堀切が二条あり、東側に竪堀として伸びているが西側は消滅しています。主郭から北東へ伸びた尾根の遺構は比較的良好で、曲輪と通路が延び西斜面に竪堀とそれに付随する土塁の付いた曲輪などが残ります。北東端は、堀切ではなく竪堀があります。

飛鳥にある中世の城郭を散策していたので、なんとなく曲輪などの跡が見てとることができました。

築城年代は定かではないですが、秋月氏の家臣「奈良原刑部少輔」によって築かれたと云われています。「奈良原兵庫亮」のときに、豊臣秀吉の九州征伐の軍勢と戦って討死したといわれています。また、筑紫氏の家臣幡崎兵庫と筑紫越前守が在番したとも云われています。現在は、公園になっています。

牛頸地区には、全国的にも有名な「牛頸窯跡群」が残っており、散策していると須恵器のかけら等を見ることができ、歴史が身近に感じられる素敵な所ですよ!

      

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新元号「令和」の聖地は大宰府?

2019年04月05日 18時45分31秒 | 歴史

久しぶりに「大宰府」に戻ってみると、テレビや新聞等で大騒ぎになっていました。新たな元号「令和」は、ここ「大宰府」とも関わりがあるということのようでした。
新元号が「令和」と決まったことを受け、太宰府市は「令和」の典拠なった万葉集の序文に続く歌が奈良時代の初めに「大宰府」で詠まれたものだと発表しました。新元号「令和」のゆかりの地は,1300年前の「大宰府」にあるといわれています。新元号「令和」の由来は梅花の宴がうたわれた万葉集の序文になっており、大宰府の長官である「大伴旅人」が催したとされる「梅花の宴」が開かれた邸宅は、大宰府政庁跡の周辺や「坂本八幡宮」の付近にあったという説があるそうです。そのため、「大宰府」と「坂本八幡宮」が新元号「令和」のゆかりの地として話題となっていました。

今回は、新元号「令和」の聖地は大宰府?を紹介したいと思います。

新元号「令和」の典拠となった万葉集の序文に続く歌は、奈良時代の初め、当時の大宰府の長官「大伴旅人」の邸宅で開かれた「梅花の宴」で詠まれたということです。
「梅花の宴」は、当時としては一般には珍しかったという中国から渡ってきたばかりの「梅の花」をめでて開かれたとされています。
筑前の守だった「山上憶良」をはじめ大宰府や九州の高官たちが参加し、梅の花を題材に和歌を披露しあったといいます。
太宰府市によると、宴が開かれた邸宅の場所については諸説残されているということですが、そのうちの1つが太宰府天満宮から南西におよそ2キロほどの「坂本八幡宮」付近とされています。市文化財課によると、旅人邸は、役所跡が残る大宰府政庁の北西部にある「坂本八幡宮」周辺に存在していたというのが有力とされています。ただ、発掘調査などにより、他にも複数の候補地があると言われています。
その一つが、政庁東側の月山東地区官衙(かんが)跡(現在、仏心寺が建っている所)です。九州歴史資料館の学芸員は「万葉歌で歌われた丘陵地帯に面している」と理由を挙げています。他に、高官が使用した陶器や装飾品が出土し、官人の居住区だったと考えられる政庁南側の大宰府条坊跡周辺も候補の一つだといわれています。はたして、宴が開かれた邸宅の場所はどこなのでしょうか・・・

   「初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す。」

この「梅花の歌三十二首并せて序」には、太宰府の長官であった「大伴旅人」が梅花の宴を開いたときに詠まれた歌32首が収録されています。宴が始まるにあたって述べられた、前書き(序文)にあたるものです。 

(現代語訳)

天平二年正月十三日(西暦730年2月8日)に、太宰府の長官の「大伴旅人」の家に集まり、梅花の宴を開きます。

「季節は、初春のよい月で、大気もよく風も穏やかになり、梅の花は鏡の前(に座る美女たちが化粧に使う)白い粉のように(白く)開き、蘭は(身にまとう)装飾品の香りのように薫っている。」 

「令和」は奈良時代、福岡県太宰府市にあった大宰府の長官「大伴旅人」邸で開かれた「梅花宴(ばいかえん)」(梅の花を見る宴会)で詠まれた32首の歌の序文から採用されました。

この宴の様子は、大宰府政庁跡の史跡そばにある「大宰府展示館」(公益財団法人 古都大宰府保存協会運営)には、「大伴旅人」の邸宅で開かれた「梅花の宴」の様子を、博多人形を使って再現した模型が展示されています。

宴会が開かれた候補地である大宰府政庁跡の傍にある「坂本八幡宮」は、「大宰府歴史の道」沿いにありますが、普段は地元の人しか行かないような神社です。「大伴旅人」邸で開かれた「梅花宴(ばいかえん)」の候補地として紹介されたせいか、多くの人でにぎわっていました。(以前、紹介させていただいたブログ「梅花の宴」では、梅が満開の様子を紹介させていただきました。)

まさか、いつも散策していた所が新元号「令和」の地?となろうとは・・・

梅の花は終わっていましたが、「大宰府」は桜が満開でとても綺麗でした。「飛鳥」とともに「大宰府」は、「万葉集」の世界が味わえる素敵な場所ですね~!

                             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする