泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

飛鳥寺西方遺跡 「現地説明会2018」

2018年02月25日 15時38分15秒 | 歴史

奈良県明日香村飛鳥において、2月25日に「飛鳥寺西方遺跡」の現地説明会が行われました。この遺跡は、今年で10年目の発掘調査で最後の現地説明会となりました。多くの方が、説明会に来られていました。

今回は、飛鳥寺西方遺跡「現地説明会2018」の様子を紹介したいと思います。

「日本書紀」では、645年の乙巳(いっし)の変を起こした中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が出会った場所とされています。672年の「壬申の乱」時には、兵士が駐屯しその後、蝦夷や隼人など辺境の民をもてなしたとの記述もあります。遺跡は飛鳥時代の広場で、過去の調査では飛鳥寺とその西側の飛鳥川に挟まれた南北200メートル、東西120メートルの範囲とされていました。しかし、昨年11月からの調査で、川側へ少なくとも21メートル延びる石組み溝が見つかり、広場の東西が140メートルを超えると判明しました。

大型建物跡は、柱は直径30センチ前後で建物の東西端は調査区外に延び、今回確認された以上に大きかったと考えられています。東西19.2メートル以上、南北4.8メートルの大型建物跡が確認されました。今回の調査と合わせ、広場では4棟の建物跡が確認されたことになりました。

「日本書紀」には、7世紀中ごろ以降飛鳥寺の西側で外交使節をもてなしたとあり、供宴施設だった可能性が高く広場の実態を解明する上で重要な発見だったようです。今回の調査で、広場は従来の想定からさらに西に広がったようです。

最後の発掘調査では、残念ながら槻の木(ケヤキ)の残存は発見されませんでしたが、この遺跡のどこかに眠っているのではと、ふと思いました。飛鳥は、面白い!

                               

 

 

 

  

 
 
 
 
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宇陀市松山地区の「重要伝統的建造物群保存地区」

2018年02月20日 17時27分44秒 | 歴史

「重要伝統的建造物群保存地区」とは、昭和50年の文化財保護法の改正によって伝統的建造物群の制度が発足し、城下町、宿場町、門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになったものです。 市町村が都市計画または条例により「伝統的建造物群保存地区」を定め、文部科学大臣が市町村の申し出に基づき「選定」を行うこととされています。

奈良県には、五條市の「五條新町」・宇陀市の「松山地区」・橿原市の「今井町」の三か所が「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されています。

前回は、五條市の「五條新町」を紹介しました。

今回は、宇陀市松山地区の「重要伝統的建造物群保存地区」を紹介したいと思います。

奈良県宇陀市大宇陀にある「松山地区」は、明日香村から約30分位の所にあります。2006年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されたました。古いまちなみが今も残る町の名前です。古くから城下町として発展し、その町並みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。

宇陀松山が拓かれたのは、戦国時代「宇陀三将」と呼ばれた一人秋山氏の築いた城の城下町として発展してきました。以後、様々な時代の変遷を経ながら、今の松山の町並みが作られてきました。

「松山地区」は、保存地区に選定された古い町並みの散策はもちろん、町並みの隙間からふと顔を出す自然の表情や、何年も姿を変えていないような店の軒先など、時間の止まったようなゆったりした空気も魅力です。

近くに温泉もありたびたび「松山地区」は散策するのですが、とても癒される素敵な街です!

                          

 

 

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天平時代に建てられた八角円堂(国宝)「栄山寺」

2018年02月17日 16時11分05秒 | 歴史

奈良県五條市にある『栄山寺』(えいさんじ。榮山寺とも)は、藤原南家の創始者・藤原武智麻呂が、719年、父母を弔うために創建したと伝わる古刹です。

今回は、天平時代に建てられた八角円堂(国宝)「栄山寺」を紹介したいと思います。

藤原武智麻呂は、藤原不比等の長男で、後の光明皇后となる光明子の兄に当たります。藤原四兄弟の長男として、政敵であった長屋王を追い落とし、要職を藤原家が独占する時代を築いた人物です。その子の藤原仲麻呂は、道鏡の台頭などにより恵美押勝の乱を起こしました。

「栄山寺」は、藤原南家の菩提寺として栄え、南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていました。現在は、それほど広い規模のお寺では無くなっていますが、天平時代に建てられた「八角円堂(国宝)」などを有する古刹として、見所の多いお寺です。すぐ横に流れている大きな吉野川がとても印象的でした。

「八角円堂(国宝)」には、内陣の柱や天蓋には壁画が施されているなど天平建築の中でも法隆寺夢殿と並ぶ貴重な遺構です。平安期に造られた梵鐘(国宝)は「平安三絶の鐘」の一つで四面には菅原道真の撰、小野道風の書といわれる銘文が残されています。

五條市は、奈良県の南西部に位置し古代から近世に至るまでの史跡が市内に点在します。 特に、 五條新町では重要伝統的建造物群保存地区で江戸時代の雰囲気を残す地域です。飛鳥とは趣の違う 、楽しい歴史散策となりました!

                        

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古代寺院の跡(3)「尼寺北廃寺跡」

2018年02月14日 11時24分16秒 | 歴史

前回、古代寺院の跡(1)「夏見廃寺(なつみはいじ)」・(2)「毛原廃寺と駒帰(こまがえり)廃寺跡」を紹介しました。

飛鳥が大好きな「歴史サークル」の皆さんと一緒に前回、「古代寺院の跡」を何か所か歴史散策してきました。

今回は、古代寺院の跡(3)「尼寺北廃寺跡」を紹介したいと思います。

奈良盆地内にはたくさんの「廃寺跡(はいじあと)」があります。宇陀市の「駒帰(こまがえり)廃寺」跡、桜井市の「粟原(おおばら)寺」跡、香芝市の「尼寺(にんじ)廃寺」跡等です。その実態はほとんど分からず、大伽藍(だいがらん)の跡と思われる礎石(そせき)が残るだけです。

今回は、JR畠田駅から徒歩10分ほど、国道からは少し西へ入った場所に位置する国の史跡に指定されている「尼寺廃寺跡」です。 古くから尼寺の集落内では、古瓦が表採されることが知られており、北は「尼寺北廃寺」、南は「尼寺南廃寺」と呼ばれていました。「尼寺北廃寺」は、発掘調査によって7世紀後半に造営されたようです。

「尼寺廃寺跡」は,河内と大和の境にある二上山の北方,奈良盆地西縁の丘陵部の香芝市尼寺に所在します。この地には基壇や礎石が残り,瓦も多く出土していたことから寺院跡の存在が考えられていました。しかし,近年,周辺の開発が進み,その景観が変わりつつあった。このため、香芝市教育委員会が塔跡と推定されていた基壇跡などを中心に遺跡の範囲・内容確認調査を平成3年度から12年度にわたって行なわれました。平成7年にはこの基壇から,全国最大の巨大な地下式の心礎と舎利荘厳具が見つかり、「聖徳太子建立の葛城尼寺か?」として大きく報道されました。

調査の結果、中心伽藍は東向きの法隆寺式伽藍配置であり、北に金堂、南に塔が配置され,その周囲を東に中門が設けられた回廊が巡っていることが判明しました。回廊に囲まれた中心伽藍の範囲は南北約71.4m,東西約44.8mである。金堂の基壇は南北約16.2m,東西約13.6mで、塔は一辺約13.6m四方の基壇をもちます。この塔基壇では、長さ・幅とも3.8mの巨大な地下式の心礎が検出され,その柱座からは耳環12,水晶玉4,ガラス玉3,刀子1からなる舎利荘厳具が出土しました。また、寺域は南北110m以上,東西約80mとみられ,南面と東面には築地塀が設けられていたことが確認されました。東面築地塀のほぼ中央と推定される位置には東大門も検出されています。さらに、塔の瓦の型式や唐尺使用の可能性から7世紀後葉に創建され、平安時代初頭の9世紀から10世紀に焼失したと考えられているようです。

「尼寺北廃寺跡」には、尼寺廃寺跡学習館(ガイダンス施設)があり、長さ・幅とも3.8mの巨大な地下式の心礎の復元等を見ることができます。これだけの大きな心礎は、今まで見たことがなく大変感激しました.古代の廃寺跡の歴史散策は、大変面白くまた興味をそそがれました!

                     

 

 

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葛城市竹内にある「竹内街道と周辺の古墳」

2018年02月10日 21時45分15秒 | 歴史

「竹内街道」は、大阪府堺市から東へ向かい二上山の南麓・竹内峠を越えて、長尾神社付近に至る約26kmの街道です。613年に開通した飛鳥の都と難波を結ぶ、最古の官道です。大阪羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されています。

今回は、葛城市竹内にある「竹内街道と周辺の古墳」を紹介したいと思います。

二上山の南麓・竹内峠を越えた所が葛城市竹内です。この場所に、「竹内街道」が残っています。竹内集落は、歩いても約20分位の道矩ですが古い家等が残っておりとても雰囲気のある道です。街道の真中の所には、松尾芭蕉に関わる所もありました。

この沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町として栄えました。また、江戸時代に松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の綿弓塚には芭蕉の歌碑が建立されており、俳人の憩いの場となっています。

松尾芭蕉(まつおばしょう)が門人・苗村千里(なえむらちり)の旧里である竹内に宿泊した時に詠んだ句を記念し、1809年に建てられた句碑です。句碑の建つ庭と近くの民家を整備して休憩所とし、芭蕉の資料や司馬遼太郎氏の色紙などが置かれています。

芭蕉は、1684年に竹内を訪れ、當麻寺に参詣して諸仏を拝んだと言います。その後も度々この地を訪れ、孝女伊麻にも会いました。さまざまな句を残し、中でも「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」という俳句は有名です。

また、司馬遼太郎(しばりょうたろう)氏の母の実家が竹内にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。その著書『街道をゆく』の中でも「竹内街道」のことを語っています。

竹内集落の北側には、「竹内古墳群・史跡の丘」があります。キトラ山を中心に前方後円墳1基、方墳1を含む34基の古墳群です。多くは直径10m、高さ2m程度の円墳で、5世紀末から6世紀中頃にかけての築造と推定されます。県指定史跡です。22号墳は全長45mの前方後円墳で、前方部に横穴式石室が残っています。また、34号墳である茶山古墳では、疑灰岩の板石を組み合わせた家形石棺が土中に直接埋葬されていました。石棺内には3体分の人骨と鉄刀、鉄製のやじり等が発見され、棺外からは須恵器も出土しました。道沿いにあり、見逃してしまいそうな古墳群でした。

竹内集落の南側の兵家字平林にあるのが「平林古墳」です。兵家浄水場の側の丘陵上にある、全長約55メートルの前方後円墳です。築造は6世紀後半ごろと推定されます。後円部には大型の横穴式石室が南側に開口しており、石室には一辺150センチ程度の巨大な花こう岩が用いられています。石室における玄室の長さは5.7メートル、幅3.3メートル、高さ3.8メートル。羨道は長さ8.8メートル、幅1.9メートル、高さ2メートルで、前庭部がつながり、その全長は20.1メートルにもなる大きなものです。 石室内は盗掘を受けていましたが、直刀・鉄製のやり・矢尻などの武器や、馬具一式、鉄斧(てっぷ)などの工具、金環・ガラス玉 等が出土しています。柵から石室を見ることができます。「平林古墳」は丘陵上にあり、とても眺めがいい所に造られた古墳でした。

周辺にも多くの史跡等があり、また葛城の歴史散策をしたいと思っています!

                             

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