「そら、見たことか」
サビーネが吐き出すように言いました。ぼくはこのときほど、彼女を憎んだことはありませんでした。できることなら、駆け出していって、魚を抱き上げてやりたいと思いました。
「しょせん、品物なんて、何もできはしないのよ。人間のご都合次第で、どうにでもなるのよ」
サビーネが、少し寂しそうな声で言いました。ぼくはふと、以前近くの棚にいた木彫りの仮面の話を思い出しました。それによると、サビーネは、まるで実の子供のように自分をかわいがってくれた金持ちの女主人が死んだあと、財産分けに集まってきた親類達の手で、二束三文でこの店に売られてきたらしいのです。ぼくは、じんと胸がうずくのを感じました。サビーネはサビーネで、ぬぐうことのできない悲しい思い出を持っているのでした。
翌朝、魚は、店の掃除に出てきた店員の手で、もとの壁に止められました。夜になって、ぼくは、おそるおそる魚に話しかけました。
「君、だいじょうぶかい?」
魚は答えませんでした。まるで死んだように、鎖につりさがったまま身動き一つしませんでした。あの輝いていた目も、今では人間の手で不器用に描かれた模様にすぎませんでした。品物たちの間で、ひそひそとサビーネを非難する声が起こりましたが、サビーネも、何も言いませんでした。彼女はかたくなに目をつむって、じっとうつむいていました。旗魚は、溜め息ばかりついていました。
それから、何か月かが過ぎました。その間に、いくつかの品物が買われていき、いくつか新しい品物も入ってきました。でも、サビーネと旗魚と魚とぼくは、売れずにまだ残っていました。相変わらず、魚は何も言いませんでした。ただ、ときおり、ふと夢から覚めたように、まぶたのない目を虚空に向けて、何かをぶつぶつとつぶやくことがありました。
どうにかして、もとのきらきらした魚に戻ってくれないものだろうか。ぼくはそう思って、何度か彼に海の話をしてみました。でも魚は、それから一度も、ぼくの話を聞いてはくれなかったのです。
そして、あれは、そう、あれは、雨の降っている夜でした。ぼくが、憂うつな気分でぼんやり店のシャッターを打つ雨の音を聞いていたとき、いきなり、雷鳴がひらめくように、魚がとんきょうな叫び声をあげました。
「海だ! 海だ!」
まわりの品物達が、いっせいに魚を見つめました。見ると、魚は、狂ったように壁の上で鎖を振り回して暴れ回っていました。とうとう気が違った、とぼくは思いました。それほど、彼の様子はただならぬものでした。
「わかった! とうとうわかったぞお!」
そう、彼が叫んだ次の瞬間でした。雨の音がいきなり強く響いたかと思うと、瞬時のうちに、店のシャッターが破裂し、その向こうから信じられないくらいの黒い大きな水が、もの凄い勢いで落ちてきたのです。
あたりに強い潮の匂いが満ちました。サビーネの甲高い悲鳴が、波の向こうから微かに聞こえました。水はまるで飢えた狼の群れのように店の中をばりばりと食い荒らし、棚やテーブルを瞬く間になめとり、天井の明りをひきちぎりました。
「あああ、うううう海いいっ!」
旗魚の叫びが響きました。その瞬間、魚の体が、鎖を離れて、空中高く飛び上がったかと思うと、まるで花火のように、ばちっと音をたてて砕けました。青い鱗も細いひれも鎖をくわえた顔も、何もかも粉々でした。そしてそのとき、ぼくは見たのです。ええ、もしかしたら幻だったのかも知れません。だけどあのとき確かに、粉々に砕けた彼の体の中から、一匹の小さな飛び魚が跳ね上がったのです。飛び魚は、ひらひらと空中を飛んだかと思うと、瞬く間に、波の中に消えて行きました。
(つづく)