私の今年の年明けはどうにもモヤモヤとしたものだった。
先の日記で書いた恐怖の体験は思いの外後を引かなかったのだが、大晦日の夜から元旦朝にかけての強い風雨、元旦にはテルアビブで2名の死者を出す拳銃乱射テロ(この犯人は1/7現在まだ逃走中)、そしてわが家では雨による度々の停電。
一年の幕開けの、あの意味もなくパーっと心が晴れ渡る感じを今年はすっかり掴み損ねてしまった。
初夢は学生時代の同級生と今年の抱負を語り合うという、なんだかずいぶん意識の高い人みたいな夢だったけれど、それさえも自分が語る番になって「えっと、私は」と言い始めたところで目が覚め、何を言わんとしていたのか不明なまま。
これからの一年の己の在り方にパリッと糊を効かせられないまま2016年をスタートしてしまった。別にそれが悪いわけではないのでだろうが、「一年の計は元旦にあり」と元旦を重んじる文化の中で育ってきた日本人としては、新年のセットアップをしないでいることは、パジャマのままだらしなく一日を過ごしてしまう時のダラダラ感をまとっているような気分がしてどうにもすっきりしない。
が、昨日、ネットで何かしら検索していた時に辿り着いた武田鉄矢さんのブログで何かがパッと目覚めるような感覚を覚えた。
何を検索していたのか忘れてしまう勢いで私が一気に読んだのは、哲学とご自身の名前の鉄をもじって「鉄学の道」と題された11話のエッセイ。
武田さんの紡ぐ言葉の引力がすごい。かの金八先生を演じ切った方だけあって、語り口にも選ぶ言葉にも重さと知性と温もりがあり、哲学という難しい題材を扱っているのにも拘らずグイグイ引き込まれていってしまう。
例えば、第1話目にある哲学に関するエッセイをブログで綴るに至った経緯が語られるこの箇所。
「しかし、思想や初心というモノも、それが個人を励ます道具である以上、耐久年数があります。
中年期に差し掛かり、趣味と遊びにおいて、道具にこだわり続ける事は(こだわり)と言う愛嬌に成り得ますが、それを日常の中で振り回す事は凶器を手にした人物の振るまいと同様です。
青春の己の思想を度量衡として、世界を測る博識者語や己の青春を下敷きにして、今ある青春に添削を加える採点主義者を遠ざけねばなりません。」
どうだろう、この、思想や初心を耐久年数のある道具と言い切ってしまうところ。それから「青春の己の思想を~」の一文の度量衡、下敷き、添削、採点主義者という言葉を織り交ぜた言い回し。たまらないではないか。武田鉄矢さんの秀逸な言葉選びに興奮した。
第1話が書かれたのが2006年6月。この時、武田鉄矢さんは57歳。還暦を間近に一般的にはおおよその人生観が築かれていてもおかしくない年齢、まして、武田さんのように役者としても数多くの人生経験を積んでこられた方なら尚のこと確固たる人生観、あるいは人生哲学を持っていても不思議でもなんでもないようなのに、思想や初心を耐久年数のある道具に過ぎないと一蹴してしまうこの爽快さ、大胆さ。
そして、新たに己の哲学を探っていく作業をブログの読者への交信という形式で始められたわけだが、ここに初回から身体論を絡めてくる。ヨガ修練者としては早くも目が離せない展開に。
まずは甲野善紀という武術家の哲学ネタの冒頭で、
「彼の人物は哲学的審問に悩み、武道をその解決の糸口としようと試みた人物です。心の悩みを身体で解決しようとしたところに彼の異様さがあります。」
と述べてあり、今まさに私がやっている、まぁ、この武道家のようなストイックさにはまるで及ばないまでも、日々の練習の中で求め、垣間見、理解しようともがいている自分の行為と何かしら共通するものがあるのではないかと思わせる導入である。
そして、その先で武道用語の「居着き」という言葉を取り上げ、心のはたらきと身体の動き(ここで武田さんは”身体操作”と言い表している)を哲学していく。私の幼稚な語彙力では纏められないので再び引用。
「「居着き」の撤回。つまり、決意を一点に集めて駆動力にするのではなく、分散する事で異質の機動力を瞬時に創造せよと提案しています。まずは「型」を求めない。脳に近く意志が現れやすい肩の力を抜く。」
このアイデアをさらに分かりやすくサッカーの中田英寿選手の動きを例に解説していく流れがまた見事である。
創造性や自由とは先の運命を自分で決めつけずに保留しながらも、どのような状況にも対応できるある種の不安定さの受容であるのかなと、昨日の時点で私は解釈したが、これは一時の解釈でわかったつもりになるのはあまりにも勿体無い。するめのように噛んで噛んでその時々の新たな解釈を味わっていくのが相応しそうだ。
これと似た身体論が11話にも出てくる。
ゴルフを嗜む武田さんがどうしてスウィングが苦手なのか、それを克服するために注目した「腰」という身体部位と腰の武道術理的応用について語られている。
要は手に意識を向けるあまりに手とゴルフクラブだけのスウィングになり、道具に操られた形になるので思うように飛ばない。そこで、腕先だけのスウィングの時に置き去りにされていた身体全体、とりわけ「腰」に意識を向ける対象を変える。そのことにより力の発生する場所が手から身体軸に変わるので威力がまるで違ってくる。
又、脳が感情に左右されやすい臓器であり、ひとつのことに囚われる意識のはたらきにより脳が身体の動きに関与する。つまりは感情に身体の動きを支配させてしまう結果になるという指摘も、自身の体験と照らし合わせても大いに頷けた。
私が最も衝撃を受けたのは、身体部位をバラバラなものとして認識するところから始まる身体操作のくだり。
いつも当たり前のように身体部位は統一したものと認識して練習してきた。その認識と裏腹に身体がいうことを聞いてくれないことが多々あり、なんども躓いている。それがここでは一旦バラバラに分解して捉えていくというのである。身体の動きの肝は力の発生地点をどこに置くかということだと語られている。
ゴルフではないがイチロー選手がバットを振る時のフォームを武田さんは次のように観察している。
「足裏に両脚が乗り、両脚の膝に大腿部が乗り、大腿部に支えられて腰が乗り、腰に上体が・・・
その結び目が頭で、これらの部位が実はバラバラに存在して、ただダウンスウィングの一瞬から打撃という行為に向かって協力し、落ちてくる両腕と回転する「腰」の動作をバケツリレーのように受け取り、受け渡してゆく。」
バケツリレー。身体の統一とは身体をひとつの塊とみなすことではなく、実はこの力の流れによって繋げられる作用を指していたんじゃないだろうかと、はたと目覚めた。
そして今朝の練習で、とりあえず現時点で私が理解できたと思っていることを早速試してみることに。
「腰」を起点にした「力のバケツリレー」。
今日は単に調子が良かっただけかもしれないが、それにしても一味違う感覚があったのは確かで、今まで1カウントも保っていられなかったピンチャマユーラアーサナで初めて5カウントキープできたのである。バランスポイントを見出すのにあれほど必死だったのが、今日は力まずともごく自然にバランスポイントに両足が収まっていた。
これまでの練習が報われた喜びで目頭が熱くなったと同時に、身体感覚だけを頼りに漠然と求めていたものが言語化されることによってこれほどの変化がもたらされるものなのかと驚いた。
それもこれも武田鉄矢さんの語彙力、表現力、多岐にわたる知識の総合力のなせる技である。このことに私はひどく学習意欲を駆り立てられている。自分の考えや経験を細かい機微に至るまで言語化して伝える力を養いたいと思った。まずは読書量を増やすことを今年の目標に立てた。それに加えて、ヨガの練習では「腰」をテーマにしてみようかと思いつき、年が明けて7日目にして今年のセットアップができた。
武田鉄矢さんのブログエッセイ『鉄学の道』はこちら↓↓↓
http://www.takedatetsuya.com/takeda/takeda_essay.php
というわけで、今年も一年よろしくお願いします。
ナマステ&シャローム
Nozomi
先の日記で書いた恐怖の体験は思いの外後を引かなかったのだが、大晦日の夜から元旦朝にかけての強い風雨、元旦にはテルアビブで2名の死者を出す拳銃乱射テロ(この犯人は1/7現在まだ逃走中)、そしてわが家では雨による度々の停電。
一年の幕開けの、あの意味もなくパーっと心が晴れ渡る感じを今年はすっかり掴み損ねてしまった。
初夢は学生時代の同級生と今年の抱負を語り合うという、なんだかずいぶん意識の高い人みたいな夢だったけれど、それさえも自分が語る番になって「えっと、私は」と言い始めたところで目が覚め、何を言わんとしていたのか不明なまま。
これからの一年の己の在り方にパリッと糊を効かせられないまま2016年をスタートしてしまった。別にそれが悪いわけではないのでだろうが、「一年の計は元旦にあり」と元旦を重んじる文化の中で育ってきた日本人としては、新年のセットアップをしないでいることは、パジャマのままだらしなく一日を過ごしてしまう時のダラダラ感をまとっているような気分がしてどうにもすっきりしない。
が、昨日、ネットで何かしら検索していた時に辿り着いた武田鉄矢さんのブログで何かがパッと目覚めるような感覚を覚えた。
何を検索していたのか忘れてしまう勢いで私が一気に読んだのは、哲学とご自身の名前の鉄をもじって「鉄学の道」と題された11話のエッセイ。
武田さんの紡ぐ言葉の引力がすごい。かの金八先生を演じ切った方だけあって、語り口にも選ぶ言葉にも重さと知性と温もりがあり、哲学という難しい題材を扱っているのにも拘らずグイグイ引き込まれていってしまう。
例えば、第1話目にある哲学に関するエッセイをブログで綴るに至った経緯が語られるこの箇所。
「しかし、思想や初心というモノも、それが個人を励ます道具である以上、耐久年数があります。
中年期に差し掛かり、趣味と遊びにおいて、道具にこだわり続ける事は(こだわり)と言う愛嬌に成り得ますが、それを日常の中で振り回す事は凶器を手にした人物の振るまいと同様です。
青春の己の思想を度量衡として、世界を測る博識者語や己の青春を下敷きにして、今ある青春に添削を加える採点主義者を遠ざけねばなりません。」
どうだろう、この、思想や初心を耐久年数のある道具と言い切ってしまうところ。それから「青春の己の思想を~」の一文の度量衡、下敷き、添削、採点主義者という言葉を織り交ぜた言い回し。たまらないではないか。武田鉄矢さんの秀逸な言葉選びに興奮した。
第1話が書かれたのが2006年6月。この時、武田鉄矢さんは57歳。還暦を間近に一般的にはおおよその人生観が築かれていてもおかしくない年齢、まして、武田さんのように役者としても数多くの人生経験を積んでこられた方なら尚のこと確固たる人生観、あるいは人生哲学を持っていても不思議でもなんでもないようなのに、思想や初心を耐久年数のある道具に過ぎないと一蹴してしまうこの爽快さ、大胆さ。
そして、新たに己の哲学を探っていく作業をブログの読者への交信という形式で始められたわけだが、ここに初回から身体論を絡めてくる。ヨガ修練者としては早くも目が離せない展開に。
まずは甲野善紀という武術家の哲学ネタの冒頭で、
「彼の人物は哲学的審問に悩み、武道をその解決の糸口としようと試みた人物です。心の悩みを身体で解決しようとしたところに彼の異様さがあります。」
と述べてあり、今まさに私がやっている、まぁ、この武道家のようなストイックさにはまるで及ばないまでも、日々の練習の中で求め、垣間見、理解しようともがいている自分の行為と何かしら共通するものがあるのではないかと思わせる導入である。
そして、その先で武道用語の「居着き」という言葉を取り上げ、心のはたらきと身体の動き(ここで武田さんは”身体操作”と言い表している)を哲学していく。私の幼稚な語彙力では纏められないので再び引用。
「「居着き」の撤回。つまり、決意を一点に集めて駆動力にするのではなく、分散する事で異質の機動力を瞬時に創造せよと提案しています。まずは「型」を求めない。脳に近く意志が現れやすい肩の力を抜く。」
このアイデアをさらに分かりやすくサッカーの中田英寿選手の動きを例に解説していく流れがまた見事である。
創造性や自由とは先の運命を自分で決めつけずに保留しながらも、どのような状況にも対応できるある種の不安定さの受容であるのかなと、昨日の時点で私は解釈したが、これは一時の解釈でわかったつもりになるのはあまりにも勿体無い。するめのように噛んで噛んでその時々の新たな解釈を味わっていくのが相応しそうだ。
これと似た身体論が11話にも出てくる。
ゴルフを嗜む武田さんがどうしてスウィングが苦手なのか、それを克服するために注目した「腰」という身体部位と腰の武道術理的応用について語られている。
要は手に意識を向けるあまりに手とゴルフクラブだけのスウィングになり、道具に操られた形になるので思うように飛ばない。そこで、腕先だけのスウィングの時に置き去りにされていた身体全体、とりわけ「腰」に意識を向ける対象を変える。そのことにより力の発生する場所が手から身体軸に変わるので威力がまるで違ってくる。
又、脳が感情に左右されやすい臓器であり、ひとつのことに囚われる意識のはたらきにより脳が身体の動きに関与する。つまりは感情に身体の動きを支配させてしまう結果になるという指摘も、自身の体験と照らし合わせても大いに頷けた。
私が最も衝撃を受けたのは、身体部位をバラバラなものとして認識するところから始まる身体操作のくだり。
いつも当たり前のように身体部位は統一したものと認識して練習してきた。その認識と裏腹に身体がいうことを聞いてくれないことが多々あり、なんども躓いている。それがここでは一旦バラバラに分解して捉えていくというのである。身体の動きの肝は力の発生地点をどこに置くかということだと語られている。
ゴルフではないがイチロー選手がバットを振る時のフォームを武田さんは次のように観察している。
「足裏に両脚が乗り、両脚の膝に大腿部が乗り、大腿部に支えられて腰が乗り、腰に上体が・・・
その結び目が頭で、これらの部位が実はバラバラに存在して、ただダウンスウィングの一瞬から打撃という行為に向かって協力し、落ちてくる両腕と回転する「腰」の動作をバケツリレーのように受け取り、受け渡してゆく。」
バケツリレー。身体の統一とは身体をひとつの塊とみなすことではなく、実はこの力の流れによって繋げられる作用を指していたんじゃないだろうかと、はたと目覚めた。
そして今朝の練習で、とりあえず現時点で私が理解できたと思っていることを早速試してみることに。
「腰」を起点にした「力のバケツリレー」。
今日は単に調子が良かっただけかもしれないが、それにしても一味違う感覚があったのは確かで、今まで1カウントも保っていられなかったピンチャマユーラアーサナで初めて5カウントキープできたのである。バランスポイントを見出すのにあれほど必死だったのが、今日は力まずともごく自然にバランスポイントに両足が収まっていた。
これまでの練習が報われた喜びで目頭が熱くなったと同時に、身体感覚だけを頼りに漠然と求めていたものが言語化されることによってこれほどの変化がもたらされるものなのかと驚いた。
それもこれも武田鉄矢さんの語彙力、表現力、多岐にわたる知識の総合力のなせる技である。このことに私はひどく学習意欲を駆り立てられている。自分の考えや経験を細かい機微に至るまで言語化して伝える力を養いたいと思った。まずは読書量を増やすことを今年の目標に立てた。それに加えて、ヨガの練習では「腰」をテーマにしてみようかと思いつき、年が明けて7日目にして今年のセットアップができた。
武田鉄矢さんのブログエッセイ『鉄学の道』はこちら↓↓↓
http://www.takedatetsuya.com/takeda/takeda_essay.php
というわけで、今年も一年よろしくお願いします。
ナマステ&シャローム
Nozomi
あれもこれも言葉が珠玉のオンパレードすぎて、ムズムズが止まりません。
武田鉄矢さんがこういうことを書いている・考えている方とは全く知りませんでした。
それだけでなく、nozomiさんの捉え方やその表現にも、惚れ惚れするテキストの嵐で、わたし完全にクラクラしています 笑
「(身体部位を)一旦バラバラに分解して捉えていく」この概念は、ある方が語っておられた「時計」の話しを思い出しました。ここでの話しと少し角度が違うかもしれませんが、こんな感じです。「いくつもの部品はそれぞれの役割で動きを果たしているが、それそのもので時間が分かるわけではなく、それらが統合されてはじめて時間を知らせてくれる」
nozomiさんがおっしゃるように、「言語化」されることでこれまでの自分が持ち合わせていた感覚ががらっと変わったり、見えてくる世界がまるで変わったり、ありますよね。
言葉の力は捉える力につながりますね。
「時計」のお話も唸らせませすねぇ。なるほど納得。「統合」がこんなにわかりやすい例えを私は他に聞いたことがないかもしれません。
「統合」の結果が「時間がわかる」というとてもシンプルな結論である点もすごくいいなと思いました。
言語化の上手な人はやはり読書量が違うなと、今更ながら痛感し、今までノータッチだったジャンルも含め10冊ほど慌てて取り寄せてみました。武田さんのエッセイにも出てきた甲野善紀さんの本を先ほどから読み始めました。読むのが遅いのですが、こちらもまたご紹介できればと思います。