往来の多い街角などにわざわざ出かけて行ってヨガをやるアレは何なのだろう。
そういう現場に実際に出くわしたことはないけれど、ご丁寧に写真や動画に収めてインターネット上で披露してあるので時折目にすることがあり、その度になんだかモヤッとくる。
難易度の高いアーサナができるようになった喜びは充分に理解できるし、記録に残しておきたい気持ちもわからないでもないが、それをやる場所にわざわざ一般大衆の集う場所を選ぶことへの疑問は拭えない。おまけに、見向きもしないで素通りする人がいただの、警備員に退去させられただのというコメントが添えられているから余計に鬱陶しい。
空港にある動く歩道の上で見事なハンドスタンドをされたって、子を持つ親としてはもしも子供が真似をしたらと考えるとあまりにも思慮に欠ける行為である。
にもかかわらず、このような行動が「カッコいい」だの「ステキ」だのと賞賛されるのもまた頭の痛い現実だ。
これを名のある指導者がやっているという点を、私はどうにも見過ごすことができないでいる。
長い年月をかけて難しいアーサナを習得したって、それを自己顕示欲を満たす手段にしてしまったら本末転倒だ。
私自身の未熟さを差し引いて考えても、どうにもこれはおかしなことが起きているように思えるのである。
ヨガを通してというよりも、アーサナの上達によって自分の課題を棚上げして妙な方向へ突き進んでいる人というのは意外といる。
ところが、本人はヨガをやっているから自分は大丈夫と信じて疑わない。ヨガは良いものという世間一般のイメージにおぶさって、自分自身がそれに相応しく行動できているかどうかを吟味しない。
ヨガそのものは精神面においても身体面においても理想的な哲学、手段だが、それとそれを志すわが身とを同一視するのはよしたほうがいい。
ヨガは何に付けても万能だという考えに胡座をかいていると危ない。
これはヨガに限らずだが、癒し系とか自己啓発系のもので「それをやっている自分」に酔っている人は大なり小なりエゴを肥大させていたり、自分の課題をすっかり放置しているか余計に拗らせていたりする傾向がある。
そう言えるのは、私自身もうっかりそうなりかけていたし、似たような例に出会ってきたからだ。
ヨガをしているとか、セラピストになったとかでは、人間的な問題や人生の課題が自動的に解決されるわけではない。注意深くその哲学なり教えなりと自分自身とを照らし合わせてみる作業を惜しまずにやる必要がある。
肝心なのは、哲学を丸暗記することでもアーサナの上達に終始することでもなく、少しずつでも自分の在り方や生き方を整えていくことじゃないかな。
ヨガは本質に近づけば近づくほど深い理解力が求められるのは確かだが、特段トリッキーなものではない。
主観に溺れることなく、客観性と忍耐を持って臨めばそうそうおかしなことにはならないはずだ。
たとえヨガが完全でも、その道を志す者が完全であるとは言えない。むしろ不完全だからこそ目指すものだと認識するくらいが程良いかもしれない。
皆さんはどう思いますか。
ナマステ&シャローム
Nozomi
そういう現場に実際に出くわしたことはないけれど、ご丁寧に写真や動画に収めてインターネット上で披露してあるので時折目にすることがあり、その度になんだかモヤッとくる。
難易度の高いアーサナができるようになった喜びは充分に理解できるし、記録に残しておきたい気持ちもわからないでもないが、それをやる場所にわざわざ一般大衆の集う場所を選ぶことへの疑問は拭えない。おまけに、見向きもしないで素通りする人がいただの、警備員に退去させられただのというコメントが添えられているから余計に鬱陶しい。
空港にある動く歩道の上で見事なハンドスタンドをされたって、子を持つ親としてはもしも子供が真似をしたらと考えるとあまりにも思慮に欠ける行為である。
にもかかわらず、このような行動が「カッコいい」だの「ステキ」だのと賞賛されるのもまた頭の痛い現実だ。
これを名のある指導者がやっているという点を、私はどうにも見過ごすことができないでいる。
長い年月をかけて難しいアーサナを習得したって、それを自己顕示欲を満たす手段にしてしまったら本末転倒だ。
私自身の未熟さを差し引いて考えても、どうにもこれはおかしなことが起きているように思えるのである。
ヨガを通してというよりも、アーサナの上達によって自分の課題を棚上げして妙な方向へ突き進んでいる人というのは意外といる。
ところが、本人はヨガをやっているから自分は大丈夫と信じて疑わない。ヨガは良いものという世間一般のイメージにおぶさって、自分自身がそれに相応しく行動できているかどうかを吟味しない。
ヨガそのものは精神面においても身体面においても理想的な哲学、手段だが、それとそれを志すわが身とを同一視するのはよしたほうがいい。
ヨガは何に付けても万能だという考えに胡座をかいていると危ない。
これはヨガに限らずだが、癒し系とか自己啓発系のもので「それをやっている自分」に酔っている人は大なり小なりエゴを肥大させていたり、自分の課題をすっかり放置しているか余計に拗らせていたりする傾向がある。
そう言えるのは、私自身もうっかりそうなりかけていたし、似たような例に出会ってきたからだ。
ヨガをしているとか、セラピストになったとかでは、人間的な問題や人生の課題が自動的に解決されるわけではない。注意深くその哲学なり教えなりと自分自身とを照らし合わせてみる作業を惜しまずにやる必要がある。
肝心なのは、哲学を丸暗記することでもアーサナの上達に終始することでもなく、少しずつでも自分の在り方や生き方を整えていくことじゃないかな。
ヨガは本質に近づけば近づくほど深い理解力が求められるのは確かだが、特段トリッキーなものではない。
主観に溺れることなく、客観性と忍耐を持って臨めばそうそうおかしなことにはならないはずだ。
たとえヨガが完全でも、その道を志す者が完全であるとは言えない。むしろ不完全だからこそ目指すものだと認識するくらいが程良いかもしれない。
皆さんはどう思いますか。
ナマステ&シャローム
Nozomi
往来で「どうだ!」とポーズをとる人に遭遇したら・・・
たぶん思いっきり「引いちゃう」と思います。
「自分は悟った」と大声で喧伝してまわる人に
引いちゃうのと似てるかもです。
自称「オレすごい。できちゃった。完璧」ってのが
一切通用しない(というか必要のない)世界なんじゃないかなって思います。
ヨガの世界も、禅の世界も。
見落としてました。失礼☆
よく知りませんが聞くところによると、アサナの大会みたいなものも実際にあるようです。
デビッドもTTの時に確か似たような話しをしていませんでしたっけ...?
(オリンピックみたいな)何かの競技としてヨガの審査委員の話しがきたけど断った、、みたいな。
そもそも、ヨガは人に見せる類いのものではないはずだと認識しています。。
>ヨガをしているとか、セラピストになったとかでは、人間的な問題や人生の課題が自動的に解決されるわけではない。注意深くその哲学なり教えなりと自分自身とを照らし合わせてみる作業を惜しまずにやる必要がある。
全くそのとおりだと思います。
>肝心なのは、哲学を丸暗記することでもアーサナの上達に終始することでもなく、少しずつでも自分の在り方や生き方を整えていくことじゃないかな。
せっかく身につけたパワーも正しく使わないと、誰も何もいい方向にはいかないんですよね。
わたしなんかも、今から思えばほんとたいしたことないのに、一時、勘違いしたことがあったので、それを思うと何とも情けない身ではありますが、でもだからこそ少しはわかるようになったんです。正しく学び、正しく活用していくことがどれだけ肝心かということを。
それを学べるのがヨガではないかと認識しております。。
だから、他者の行為に反応して敢えて言葉に出してしまう自分だってどうなのかと思うのですが、耳に心地良いことばかりを綴って自身の実態からかけ離れるのもそれはそれで何か違う気がしまして。
目に見えるものに左右されない“道”にいることを姉さんの言葉で再認識できました。
この記事もデヴィッド先生のTTでのお話しを思い浮かべながらの私なりの考察です。
技術や能力の独り歩きによってヨガの本質をが覆い隠されてしまうとなると本末顛倒のような気がします。
私自身落ち入り易い罠なので、そこは最も心していきたい点です。
アーサナの美しさも刺激にしつつ、それ以上に日頃の在り方でヨガからの恩恵を味わいたいですね。