Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

最近とらえた心の変化

2012-02-22 09:16:29 | 日記
朝晩の空気はまだひんやりとしているものの、先週末の嵐を境にイスラエルはひと足先に春めいて来ている。
今日は新月なのでヨガの練習は休み。

前回の記事で私はヨガを「好きだから続ける」と書いた。
葛藤やスランプに苛まれることがあっても、決してやめようとは思わない。むしろ、ヨガをやっている意義を見失いそうな時こそ「もっとやらねば」と心から思えるようになりつつある。


私がテルアビブのスタジオへ通えるのは月に数回で、それ以外は自宅での練習。
自宅練習は都合がつけやすいというメリットはあるが、実際にはそう簡単なことではない。
「今日から毎晩寝る前に腹筋と腕立て伏せをする」と誓ったことのある人なら、その難しさを分かってくれるだろう。
自主練というのは当たり前だがグループのエネルギーが働かないので、全くの自分の意思だけで行動を起こさなくてはならない。
他者の目がないところで人は怠けようと思えばいくらでも怠けることができてしまう。
私の場合は、時間と空間を整えてマットの上に立つまでの過程でもそうだし、いざ練習を始めてからもそうである。

大袈裟な表現になるけれどもヨガの練習が「孤独との闘い」になることがしばしばあり、そして、年に何度かは心が折れる。
そして、心の折れたまま次のクラスまでごっそり練習を休むこともある。
そんな時は大抵、施設も内容も共に充実したスタジオがあちらこちらに点在し、世界的に有名な先生が頻繁にやって来てワークショップを開いてくれる日本の都会のヨギを妬ましくさえ思っている。「これだけ環境が整っていれば続けやすいし、成長の度合いだって違うよね。」などとすねることも少なくない。

しかし、そろそろいい加減にこの見方を変えないとヨガの練習が苦しいものになってしまう、といつからか思い始めた。
「あれもない、これもない」という考えを退治するために、「何があるのか」を問いかけた。

見つけた答えのひとつは、一人ででも続けていること。その意思力はヨガ環境に恵まれた場所にいたら養えていなかったであろう。
あるいはまた、練習時に自分は生徒でありながら、同時に師となって自らを冷静に外側から観察し導く力も身に付いてきた。
そして、「あなたはよくやっているんだ」と自分を鼓舞している。心の中で呪文を唱えるように練習中に幾度も自分に言い聞かせている。

そうするうちに、肉体面での変化ばかりに囚われがちだったのが、だんだんと精神面での変化にも気付くことができるようになってきた。今この国で暮らしていることが、実は私自身が人として成長するために与えられた最良の環境なのかもしれないと考えを改められるまでになった。

当たり前という日常の中に自分自身を埋没させていたのが、自分の従来の当たり前が通用しない日常を持った国にやって来て、それを背景に否が応にも浮かび上がる自分。その自分と改めて向き合うことになったのが3年半前。この変化、つまりイスラエルへの移住は当初とても受け入れがたく、そもそも適応する価値などないとさえ思っていた。

でも、今はちょっと違う。
久々に会う友達はきっと「変わらないね」と言うだろうけれど、私は確実に自分自身が変わったことを感じている。
このイスラエルという国にいるとどうしても強くなった自分を感じさせられる場面が多いけれど、当然、強さやたくましさだけでやっていけるわけでもない。例えて言うなら、私の内面の変化は自分の意思という矢を的に向かって放つ時に使う弓が、日本にいる時よりも強く、そしてしなやかになったようなものだ。そして、意思という矢もその変化に従っているのがまた興味深い。


日本を離れることになった時に言われた言葉がある。
「イスラエルで暮らすという貴重な経験を、後で振り返ってみたらきっと良かったと思える時が来るよ。」
その時は「そんなものなのかな。そうだといいけど」と思ったものだが、今なら少しはその人の意図したことが理解できる。
とは言え、まだその経験とやらの真っ只中にいるので、ほんの欠片を垣間見てるに過ぎないのだろうけど。


何はともあれ、ヨガに出会えたこと、孤独だろうがなんだろうが練習を続けられる環境にいることはやはり感謝すべきことだ。

遠く離れた地で同じようにコツコツと練習を続けているヨガ仲間に思いを馳せつつ。



ナマステ&シャローム
Nozomi

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