このところ長男の反抗期がいよいよ本格化してきていて、子供のためにと踏み留まっているイスラエルでの生活を投げ出したい気持ちになることが増えた。
どこに住んでいようとも子供が成長していく過程で反抗期を迎えるのはごく自然で健全なことなのだが、それに対処するだけの強さや冷静さが私には欠けていると痛感する。
日本の文化や伝統を後ろ盾にした育児がままならない環境で、息子からヘブライ語で強い口調で言い返されると、私は糸の切れた凧のように途方に暮れてしまう。
ここでの暮らしで日本語の会話ができる数少ない相手である。そんな長男に現地の言葉で反抗されると、ただならぬ心の距離を突きつけられたような気分になる。
「きっとここには私の居場所がないのだろう」という想いが込み上げてきて何とも切ない。
それでも、私自身が反抗期の頃はもっとひどい言葉を母に向かって浴びせていたし、普段の態度も長男の比にならないくらいぶっきらぼうだったのを思えば、たまに素直にコミュニケーションを取ってくれる長男はまだまだかわいい方なのだろう。
あの頃、私の母はどういう気持ちで子育てをしていたのだろうかと思う。
今となっては確かめることも謝ることもできないけれど、ずいぶん悩ませ、苦しめていたことだろう。
母を傷つけるようなことを平気で言い放っていた自分。いや、まったく平気だったかというとそうではなかった。本当はもっと違うことを伝えたかったはずなのだけど、当時の私が母に対して拾い上げられたのはガラスの破片のような言葉ばかりだった。
長男もそんな葛藤を秘めながら日々を暮らしているのだろう。
いつか彼が、それに続く長女が、自分の力で心に折り合いをつけることができるようになるまで、一体どれくらいかかるだろう。
子育ては子供が大きくなれば楽になるものだと思っていたけど、成長と共に課題が複雑になってくるばかり。
あ、なんだかアーサナに似てる。
Nozomi
どこに住んでいようとも子供が成長していく過程で反抗期を迎えるのはごく自然で健全なことなのだが、それに対処するだけの強さや冷静さが私には欠けていると痛感する。
日本の文化や伝統を後ろ盾にした育児がままならない環境で、息子からヘブライ語で強い口調で言い返されると、私は糸の切れた凧のように途方に暮れてしまう。
ここでの暮らしで日本語の会話ができる数少ない相手である。そんな長男に現地の言葉で反抗されると、ただならぬ心の距離を突きつけられたような気分になる。
「きっとここには私の居場所がないのだろう」という想いが込み上げてきて何とも切ない。
それでも、私自身が反抗期の頃はもっとひどい言葉を母に向かって浴びせていたし、普段の態度も長男の比にならないくらいぶっきらぼうだったのを思えば、たまに素直にコミュニケーションを取ってくれる長男はまだまだかわいい方なのだろう。
あの頃、私の母はどういう気持ちで子育てをしていたのだろうかと思う。
今となっては確かめることも謝ることもできないけれど、ずいぶん悩ませ、苦しめていたことだろう。
母を傷つけるようなことを平気で言い放っていた自分。いや、まったく平気だったかというとそうではなかった。本当はもっと違うことを伝えたかったはずなのだけど、当時の私が母に対して拾い上げられたのはガラスの破片のような言葉ばかりだった。
長男もそんな葛藤を秘めながら日々を暮らしているのだろう。
いつか彼が、それに続く長女が、自分の力で心に折り合いをつけることができるようになるまで、一体どれくらいかかるだろう。
子育ては子供が大きくなれば楽になるものだと思っていたけど、成長と共に課題が複雑になってくるばかり。
あ、なんだかアーサナに似てる。
Nozomi
子供にとって安心して本音や本気をぶつけられる存在であることは、やはり喜ぶべきことなのかな。
渦中にいると「大好き」の裏返しとしての「大嫌い」を額面通りに受け止めてしまうけれど。