Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

つべこべ言わずに

2014-12-18 11:40:16 | エッセイ
前回の記事はだいぶ泣き言めいた内容になってしまった。
あれから色々と思いを巡らせて、ひょっとしたら「目的」そのものが誤っていたんじゃないかという考えに行き当たった。

「アーサナだけがヨガじゃない」と、繰り返し、それこそ呪文のように唱えてきた。
自分は絶対にアーサナ信仰の罠にかかるものかという思いがあった。
ところがそんな思いが強すぎて、まんまとその考えに支配され、知らず知らずのうちに自分の練習の重きをアーサナの上達に置いていたというわけだ。

そもそもヨガの道にそんな我欲を持ち込むこと自体が恐らく間違いの始まりで、私はそれを向上心だと思い込んで取り繕っていたに過ぎない。
本当は皆のように華麗なジャンプスルーや深い後屈が出来るようになりたいのだ。だけど、それを欲だと認めたくないから、体のよい言葉にすり替えて、あたかも自分は囚われていないふりを装っていた。
ヨガパフォーマーをわざわざ批判的に取り上げるのも、裏返しに思い通りにならない我欲を発散しているだけなのだろう。
欲が悔しさや妬みに発酵して、私からヨガの楽しさを奪いつつあったということに気が付いた。


人間は面白いもので否定的な概念を思えば思うほど、それとは逆の事が自分の内に起こることがある。


痩せたいのになかなかダイエットに成功しなかった時にもこれに似た経験をした。
「太るから食べちゃいけない」という強迫観念に支配されて食べる事への関心を人一倍持ち続け、結果、何かしら食べずにいられなくなるあのループ。
そこから抜け出せたのは、「痩せたい」という思いを手放してから。
というと自主的な決断のようで聞こえは良いが、実際には子供が生まれて育児に翻弄される日々の中で、自分の体型など考える余裕がなくなったというのが適切だろう。
そうこうしているうちに気付けば痩せていたのだから、あの頃の苦悩と葛藤は何だったのかと思う。



私は今でも「アーサナだけがヨガじゃない」と考えているし、これからもきっと変わらないと思う。
だからと言って、アーサナを疎かにするというわけではない。アーサナが上達することで享受できる成長や変化があるのも事実だから、それも含めて自分を高めていくことを今一度吟味していかなくてはと思っている。

目的を設定し直すより、もしかすると、目的など持たないでやってみる方が良い時期なのかもしれない。


とどのつまりは、好きなら、つべこべ言わずにやれってこと。
こんなシンプルなことを悩ましく複雑にするのが自分自身だなんて、これじゃ言い訳できないな。


ナマステ&シャローム
Nozomi

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