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ぶんやさんの記録

断想:復活節第4主日の旧約聖書(2017.5.7)

2017-05-05 08:54:17 | 説教
断想:復活節第4主日の旧約聖書(2017.5.7)

新しいユダヤ人共同体の成立 ネヘミヤ9:6-15

<テキスト>
6 あなたのみが主。天とその高き極みを、そのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものをあなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。
7 あなたこそ、主なる神。アブラムを選んでカルデアのウルから導き出し名をアブラハムとされた。
8 あなたに対して忠実なその心を認め彼と契約を結び、子孫に土地を与えると約束された。
カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の土地を。あなたは約束を果たされた。まことにあなたは正しい方。
9 わたしたちの先祖がエジプトで苦しんでいるのを見葦の海で叫び声をあげるのを聞き
10 ファラオとその家来、その国民すべてに対して、あなたは数々の不思議と奇跡を行われた。
彼らがわたしたちの先祖に対して、傲慢にふるまったことをまことにあなたは知っておられた。
こうしてかちえられたあなたの名声は今日も衰えることを知らない。
11 あなたは先祖の目の前で海を二つに裂き、海の中の乾いた地を通らせ、
追い迫る敵をあたかも石のように、荒れ狂う水の深みに投げ込まれた。
12 昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、わたしたちの先祖を導き、その進み行く道を照らされた。
13 あなたは天からシナイの山に降って彼らと語り、正しい法、真実の律法、優れた掟と戒めを授け、
14 あなたの聖なる安息日を布告し、僕モーセによって、戒めと掟と律法を授けられた。
15 彼らが飢えれば、天からパンを恵み、渇けば、岩から水を湧き出させ、
必ず与えると誓われた土地に行って、それを所有せよと命じられた。

<以上>

1.復活節第4主日
復活節も第4主日まで来ると、いつまで「復活、復活」と言っているんだという気分になってくる。もっといろいろメッセージがあるだろうと思う。
復活日は確かに復活の喜びが課題であり、旧約聖書でも出エジプトの際に紅海を歩いて渡ったということが取り上げられ、そこでモーセの姉ミリアムのリードにより喜びの歌が歌われたことを聞いた。
次の第2主日では、復活についての少々理屈っぽい、人間存在の「死と再生」の神秘に触れた。ある意味ではかなり哲学的なメッセージであった。
第3主日では復活という出来事の最も実践的な課題としての日常生活における復活論として「主が共におられる」ということを学んだ。
それで第4主日で何が取り上げられるというのだろうか。福音書ではヨハネの10章、羊と羊飼いの譬え話が取り上げられている。つまりイエスと信徒たち、つまりイエスの復活に始まる共同体との関係である。ここまでの言わば、復活論は確かに個人の経験に基づいているが、それだけでは終わらないことに気づく。復活節第4主日のテーマは復活を信じる共同体の形成ということである。それを仮に「復活共同体」と呼ぶことにする。
イエスの復活がただ個人の経験にとどまっていたら、それはただ「そういう話があった」ということで終わってしまう。ところが、イエスの復活を経験した人たちが共同体になると、もう個人の問題ではなく、世界の歴史となる。つまり、それが教会である。
復活節第4主日の旧約聖書で取り上げられるのはまさにそれである。バビロンの捕囚から解放された人たちが祖国へ帰ってきた。もし、それだけであったらイスラエル民族史の一コマにすぎないが、その人たちが新しい共同体を形成した。それはもはや昔のイスラエル史の延長ではなく、新しい民族、つまりユダヤ人共同体が始まった。ここからはもはや「イスラエル」ではなく「ユダヤ人」となる。

2.バビロンからの解放からエルサレムの第2神殿の完成まで
私たちは旧約聖書を読んでいて、一つの大きな誤解があるように思う。何となくペルシャのキュロス王によって祖国復帰が許可されて、ほとんどすべてのイスラエル人が喜び勇んで祖国に戻ったという印象で読んでいる。ところが厳密に読むと、その時祖国に帰った人は全部ではなく「一部」であったと思われる。それがどの程度なのかはっきりしない。このことについて細かく論じはじめると、それだけで一つの論文が出来そうである。それで、ここでは簡単に関連することだけを拾って語る。祖国に帰った人々は帰るだけが精一杯だったものと思われる。ともかく祖国に帰って最初にしようとしたことは荒れ果てた神殿の再建であったが、それも定礎式だけをしただけで、工事は中断してしまった。なんだかんだあって第2神殿が完成するまでに20年近くかかっている。それこそ神殿はできたものの、祭儀を司る祭司たちも新米ばかりで、人々は自分の生活に精一杯だったらしい。従って人々の宗教心も道徳心も民族意識も混乱したままで、とうてい組織された「国民」と言える状況でなかった。
そういう状況の中で立ち上がったのがネヘミヤであった。実はネヘミヤは帰還組ではなかった。つまりペルシャにとどまった残留組であった。彼はペルシャ王アルタクセルクセスの側近として活躍していたが、祖国の状況を知り、矢も盾も堪らず、王に祖国に帰らせて欲しいと願い出た。王はネヘミヤの願いを聞き入れ、彼をユダヤ州の総督に任命し、周辺諸国への紹介状も準備して帰国させた。紀元前445年のことである。解放後、すでに100年近く経っていた。
その時、恐らく祭司エズラもネヘミヤと一緒に帰国し、エズラは神殿の祭儀の復興、ネヘミヤは国土の整備を初め政治的な部門を担当したものと思われる。ネヘミヤが担当した国土の整備というのは主に外敵から自国を守る城壁の建設と、新しい律法の制定であり、その詳しい報告がネヘミヤ記である。

3.本日のテキスト(ネヘミヤ9:6-15)
祖国の回復が一段落したところで、大きな祝典が開催された。それがネヘミヤ記7章以下の部分に詳しく報告されている。祝典の第1日目の主な行事は、エズラによる律法の朗読、つまり新しいユダヤ人共同体の憲法の制定と考えればいいであろう。第2日目は「仮庵祭」と呼ばれる行事である。この祭についてはネヘミヤ記8:13以下で次のように記されている。
二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七の月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず、これを知らせ、エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。「山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されているとおりに仮庵を作りなさい。」
民は出て行き、枝を持って来て、各自の家の屋上、庭、神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に仮庵を作った。こうして捕囚の地から帰った人々から成る会衆は、皆で仮庵を作り、そこで過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。それは、まことに大きな喜びの祝いであった。(ネヘミヤ8:13~17)
この中でとくに注意しなければならない言葉17節で、実は仮庵祭は古い祭りであるが、ヨシュアの時代から忘れられていた、という。ヨシュアの時代というのはイスラエル民族が荒野での40年間におよぶ放浪の生活から、「約束の地」カナンに入った時代である。それは紀元前1200年頃のことであるから、少なくとも700年昔のことである。
ちなみにユダヤ暦では「過越しの祭」、「刈入れの祭」、「仮庵の祭」という3つの大きな祭がある。過越しの祭は出エジプトという大事件、これが事実上の建国日である。出エジプトのとき、「種入れぬパン」を食べたところから「種入れぬパンの祭」とも呼ばれる。それはまたカナン定着後は大麦の収穫期と重なる。刈入れの祭は過越しの祭から50日目の祭であり、「五旬節(ペンテコステ)」とも呼ばれ、小麦の収穫期にあたる。通常、この祭は律法制定の祭とされる。
3番目が「仮庵祭」で季節的には葡萄の収穫期の祭である。イエスの時代では、仮庵祭はかなり盛んで、ヨハネ福音書がかなり細かく述べている(ヨハネ7:2、10以下)。この祭の期間、イエスは人々の前に姿を現し、2つの説教をしている。1つは「生きた水」の説教、もう一つは「世の光」というテーマであった。恐らくイエスの時代にはこの祭は「水の祭」「光の祭」と考えられていたようである。
恐らく、仮庵祭はネヘミヤの時代から始まったのではないかと思われる。彼らは7日間仮小屋を建ててその中で過ごし、先祖の出エジプトの出来事を追体験する。そして祭の最終日に、礼拝を捧げる。この礼拝の趣旨は「懺悔」である。懺悔をすることによって新しく出発する。
本日のテキストは、この祭の中で歌われる懺悔の歌の一部であるが、この部分だけを取り上げると、懺悔というよりも、ヤハウェが私たちの先祖に何をなさったのかということが歌われている。重要なポイントを拾い上げると、
(1) 6節、「あなたは万物に命をお与えになる方」
これは天地万物の創造者である神を誉め称えた言葉である。とくに、その中でも彼らの課題としては「命をお与えになった」というところにポイントがある。この部分を字義通りに訳すと「あなたはこれらすべてを生かす方」という意味であろう。彼らは捕囚期間、死んだような民であったと思っていた。そして祖国に帰ってきて、新しい生活を始めた。これが復活節のメッセージと重なる。

(2) 8節、「あなたは約束を果たされた。まことにあなたは正しい方」
ここではアブラハムを選び出されたということから「約束」ということにポイントがある。この約束という考えは、旧約聖書の民の一貫した神との関係である。神は約束を果たされる。それを破るのは常に人間側の問題である。

(3) 10節、「こうしてかちえられたあなたの名声は今日も衰えることを知らない」
ここでは出エジプトの出来事が想起され、そのときの神は今も健在であるということが強調されている。神は「昨日も、今日も、変わりなく、生きておられる」。これが復活信仰の核心である。
(4) 12節、「(あなたは)先祖を導きその進み行く道を照らされた」
ここでは砂漠をさまよい歩く先祖たち、とくに仮庵祭のテーマが述べられている。それは単に過去の物語ではなく、これからの新しいユダヤ人共同体の行く末が重ね合わされている。

(5) 14節、「(あなたは)僕モーセによって戒めと掟と律法を授けられた」
このポイントが、ネヘミヤがとくに強調するポイントで、「私たちの戒めと掟」の源泉はモーセに由来しているということが述べられている。新しい民の律法は、モーセに与えられた神の律法の更新であって、革命ではない。

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