ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

聖霊降臨後第4主日(特定10)説教「応答する神 詩65」

2014-07-13 17:07:23 | 説教
S14T10Ps065(S)
2014.7.13
聖霊降臨後第4主日(特定10)説教「応答する神 詩65」

1.詩65の構成
この詩は、3つの詩が組み合わされたものであると言われている。1節は表題で、2~5節は「神殿において神を礼拝することの喜び」が歌われいる。、6~9節は「神の偉大な力をほめ讃える歌」、10~14節は「収穫感謝の詩」であろう。おそらくもともとは3つの独立した詩が一つにまとめられたものと思われる。
最初の部分で詩人は「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。あなたに満願の献げ物をささげます」(2節)という。おそらく神に対して何らかの願いごとをし、それがか叶えられたのであろう。そうだとすると、何故ここで詩人は「沈黙して」というのだろうか。沈黙するということと賛美を献げるということとは矛盾する。この句については翻訳者たちの間でも相当困りもので、70人訳では「あなたには賛歌がふさわしい」と翻訳している。口語訳でも聖公会の祈祷書訳でも、これを受けて、「あなたをほめたたえることはふさわしいことである」などと訳している。岩波訳などは思いきって「沈黙こそ賛歌」と訳し、新改訳では「あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります」と訳している。つまり、ここの礼拝は賑やかな祭りではなく、非常に個人的な礼拝を示唆しているのであろうか。おそらく叶えられた事柄が非常に個人的な願いであり、囁くように(他の人たちには聞こえないように)神を賛美している雰囲気が伝わる。ここで礼拝者は豊かな満足感を味わっている。
5節の「いかに幸いなことでしょう、あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように」という文章は例のアシュレー(幸いなるかな)の文章である。
6節から雰囲気がガラリと変わる。先ず第1に空間的情景が変わる。詩人の目には神殿の外、「遠い海、地の果て」が視野にあり、「山々」「大海のどよめき」「波のどよめき」が目の前で展開している。神はそれらの混乱を鎮める方であることが賛美されている。9節の「朝と夕べの出で立つところ」を祈祷書訳で「東と西の果て」と訳し、地球上に住むすべての人びとが神の「多くのしるし」に驚き、神の偉大さを賛美するという、実に壮大な歌である。
さて、10節以下では、神による豊かな世界が描かれている。「現代聖書注解」の詩編の担当者であるJ.L.メイズは10節の「(神は)地に臨んで」の部分を、「(神は)地の世話をなさる」と解釈し、神を「宇宙的農夫」と呼ぶ。この部分で特に強調されている点は「水」に関する叙述である。10節から12節には神の祝福が満ち満ちる雰囲気と喜びが溢れている。おそらくこの部分は「収穫感謝の祭り」に際して歌われたものであろうと思われる。メイズによると、現在でもアメリカでは収穫感謝礼拝でのこの詩が取り上げられるとのことである。

2. わたしたちの神
詩編の味わい方はいろいろある。その詩編全体を通して神の民に対する神の働きを学ぶのも一つである。また一つの詩編を深く読み、詩人の悩みや喜びを共有するという味わい方もある。今日は詩65において述べられている一つの句に注目して、それを語った詩人の個人的な経験からも離れて、その言葉自体を深く味わいたいと思う。取り上げる言葉は5節である。
<わたしたちの救いの神よ、あなたの恐るべき御業が、わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます。>(6節)
この詩(6節~9節)は上に述べたように、神の壮大さを賛美している。この詩における神は壮大であり、 「遠い海、地の果てに至るまで」万物が依り頼んでいるいる神である。その壮大さに比べると人間はいかにも小さく、取るに足りない存在であるが、その神は私たちにとって「答える神」、応答する神だという。呼べば答える神である。私たちが「わたしたちの救いの神よ」と呼びかけると、応えてくださる。「呼べば必ず応える神」。

3.呼べば答えるという関係
「呼べば答える」ということを馬鹿にしてはならない。人間は「呼べば応える」相手が居なくなったら生きていけない。若者たちの携帯電話、正確には携帯メールあるいはラインと呼ばれる会話機能。まさにこれは「呼べば応える」装置である。電話では受ける相手の状況が見えないし、わからないからどういう迷惑をかけるかわからない。それで私の方から電話をかけることに遠慮ないしは躊躇する。その点で「携帯メール」は一応お互いの間に適当な距離感がある。
呼べば答えるという関係が超緊密化すると、お互いに相手を縛ることになり、お互いに重荷になる。呼べば答える関係が長く保たれるためにはお互いの間に適度の距離、あるいは時間の幅が必要である。呼べば必ず答えてくれるが、時には相手を信頼して待つことも必要である。そうすることによってお互いの主体性が守られ「呼べば答える」関係は深まる。しかし受けた「呼びかけ」に全く応答しなくなると、その関係は終わってしまう。ときにはその終わり方によっては傷になることもある。しかし、誰からも呼びかけがなくなり、あるいは「呼びかける相手がいなくなると、人間は生きていけない。

4.神の応答は不思議な業
さてイスラエルの民はバビロンに連行され、バビロンにおいて生活を始めて、初めて「呼んでも答えない神」を目の前に見て、驚いたことであろう。彼らはその経験をこう歌っている。「なぜ国々は言うのか『彼らの神はどこにいる』と。わたしたちの神は天にいまし御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀にすぎず人間の手が造ったもの。口があっても話せず目があっても見えない。耳があっても聞こえず鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず足があっても歩けず喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。(詩115:2~8、135:16)豪壮な神殿の中に鎮座する「神」、確かに「耳もあり、口もある」が聞こえないし、話をすることでもできない。彼らはさぞ驚いたことであろう。ここに「わたしたちの神」と「彼らの神」との違いが明瞭化される。
神の応答は「不思議なわざ」として顕になる。行動による応答ということであろう。こちらからの呼びかけに、手を振って応えるとか、「おー」という声を発するとか、要するに何らかの反応がある。言葉による応答ではないにせよ、何らかの行動がある。神とペットとを並べるのはいかにも不謹慎であるが、ペットがペットとして意味を持つのはその応答性である。神による応答は「不思議なわざ」であるという。新共同訳では「恐るべき御業」と訳し、新改訳では「恐ろしい事柄」と訳している。つまり、神による応答は出来事である。受け止めた側の思いとか心理的安心感といったようなメンタルな出来事というよりも現実的な出来事である。それを私たちは「奇跡」と呼ぶ。奇跡とは必ずしも超自然的な出来事を意味しない。私たちにとって必要なまさにその時に、そのことが起こるということが奇跡である。人と人との出会いにおいて、まさに私たちが必要とするその時に、その人と出会うということも奇跡である。
確かに、それは起こった。その起こったことを否定することはできない。問題はそれが私の呼びかけへの応答であったのかどうか。おそらくそれを確定することは出来ないであろう。その問題について結論に至る前に一つの問題を解決しておこう。

5.神の応答はわたしたちを変える
実はこの句にはもう一つややこしい単語が残っている。「ふさわしい答え」のふさわしいとは何か。曖昧な言葉である。口語訳ではこの言葉を「業」の方に結びつけて「恐ろしい業」と訳している。最新の翻訳フランシスコ会訳と祈祷書では「正義によって、不思議を行い、わたしたちに答えられます」と訳している。どうやらこれがもっとも妥当な訳のように思われる。つまり神の応答は「正義による不思議なわざ」として人間に経験される。神が正義であるということは自明のことで正義でなければ神ではない。つまり神が現実の世界に働きかけられるとき、人間は恐怖を感じ、罪(不正義)を自覚する。
福音書に興味深い出来事が記録されている。ペトロたちがガリラヤ湖で漁をしている時、イエスの言葉に従って網をおろした時、いまだ経験をしたこともない大量であった。それを見たペトロは恐ろしさのあまり、「神の顕現」を感じ、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5:8)と告白している。この経験がペトロを魚を捕る漁師から、人間を捕る漁師に変えた。神の応答は人間を変える。

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