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断想:主イエス変容の日の旧約聖書(2017.8.6)

2017-08-04 07:02:37 | 説教
断想:主イエス変容の日の旧約聖書(2017.8.6)

モーセの顔が輝いていた 出エジプト34:29~35(通年)

<テキスト>
29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
30 アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、
31 モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。
32 その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。
33 モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。
34 モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。

<以上>

1.主イエス変容の日
福音書ではルカ9:28~36が読まれる。この日の日課は3年通年で、毎年同じ個所が読まれる。
この日の特祷では「神よ、あなたは選らばれた証人たちに、み姿が変わりみ衣が白く輝く尊い独り子を、山の上でお示しになりました。どうかわたしたちに恵みを与え、揺れ動くこの世から救い、信仰によって、栄光の王の麗しいみ姿を仰ぎ見ることが出来ますようにしてください。父と聖霊とともに一体で世々栄光ある主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」である。この特祷にこの日の意味がすべて明らかにされている。
今年は、この日が日曜日にあたる。

2.この日の旧約聖書
この日のために選ばれている旧約聖書は、出エジプト34:29~35で、これは通年である。何故この日にこの個所が読まれるのかについては、説明を要しないであろう。イエスが山の上で容貌が変わったときに、そこに居たのはモーセとエリヤであった。預言者エリヤについては旧約聖書では生きたまま天に引き上げられたということで(列王記下2:11) 、預言者の代表とされたのであろう。勿論、律法の代表者はモーセであり、これには異論はないであろう。つまり、ここでは旧約聖書をの主要部分と見做される「律法」と「預言者」とがイエスと共にいるというところが変容の山での出来事の中心点である。

3.第1回目の十戒授与
さて、この日の旧約聖書のテキストは、モーセが神の手によって十戒が刻まれた2枚の石を手に抱えて山から下りてくる場面である。イスラエル史において「十戒」が占める意味を考えると、この場面は旧約聖書においても最も重要な場面である。簡単に十戒が授与された経緯を述べると、出エジプトした民は、エジプトの軍隊に追われ、紅海に至り、窮地に陥るが、そこもモーセの祈りとヤハウェの導きにより奇跡的に紅海を渡り出エジプトが成功した。しかし、困難はそれだけではなく、食糧問題、飲料水の問題等も神の助けによって何とかしのぐことができた。そして民はシナイ山の呼ばれるところに到着し、そこで天幕を張り、何とか落ち着くことができた。その時にヤハウェはモーセに山に登って来い、とお命じになる。それでモーセは後を兄のアロンに託して単独で山に登る。ところが山に登ったモーセがなかなか降りてこない。人びとはヤハウェからもモーセからも見棄てられたのではないかと非常な不安に陥る。結果的にはモーセが山に滞在していたのは40日ほどであるが、不安に陥った民はアロンをたきつけて、我々の手で新しい神を作ろうということを決議し、民からなけなしの金銀を供出させて「金の牛」の像を作り、これを「我々をエジプトから導き出した神」としてどんちゃん騒ぎのお祭りをした。
一方、山の上ではヤハウェからいろいろ教えを受け、ヤハウェご自身お手によって十戒を刻んだ石がモーセに託される。この戒めを守れば、ヤハウェはどこまでも民を導き、幸せな生活を保障するという。この十戒が刻まれた2枚の石版を手に山を降るとき、ヤハウェはモーセに言う。大急ぎで山を降りなさい。山の下では大変なことになっているという。
山の麓ではアロンがリーダーとして、金の牛を担いでのお祭りの真っ最中で、それを見たモーセは怒り狂い、2枚の石版を民に投げつける。当然、石版は粉々になってしまう。その後、モーセは首謀者たちを処刑する。何故か、アロンは処刑を免れる。怒ったのはモーセだけではない。ヤハウェも怒り、もうこの民を捨てるという。そこで、モーセは必死になってヤハウェに執り成す。これが、第1回目の十戒授与の場面である。モーセの必死の執り成しにより、ヤハウェも民の罪を赦し、もう一度十回を作り直すということになった。前回と同じように、モーセは再び山に籠もり、新たに作り直された十戒を手に山を降っている。

4.十戒授与第2回目
この日の場面はその第2回目のシーンである。第1回目に授与された十戒と第2回目の十戒とが全く同じなのかどうか、疑問が残る。状況は全く変わってしまった。最初の十戒の時には、まだ民族としての罪を犯していなかった。その意味では無垢な民であった。しかし、第2回目の十戒は既に神を裏切るという最大の罪を犯した、いわば前科者である。私はどう考えても同じものだとは思えない。しかし、残念ながら最初の十戒は破壊されてしまった。彼らの手にあるのは第2回目の十戒である。しかし、聖書はそのことに全く触れていない。
さて、今日のテキストを主イエス変容の日という特定の日に読むと、一つのことに焦点が合わされてくる。それが、モーセの顔が輝やいていたとされる点である。第1回目の時はそんなことに触れる余地がなかった。そこに見られるモーセの顔は怒り狂う、夜叉のような表情だったのではないだろうか。その意味では大2回もの場合のモーセの表情は穏やかだったに違いない。ところが、その時、人びとはモーセの顔をまともに見ることができなかったという。それを聖書は「彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」という。この「恐れ」は第1回目の時の「怖ろしい顔」とは異なる種類の怖ろしさである。日本語では「おそろしい」という言葉を二通りの漢字で表現する。一つは「怖ろしい」であり、もう一つは「畏れる」恐ろしさである。それは神と共に過ごしたものだけが持つ「畏敬」の感である。近頃の宗教家にはこのような畏敬の感を持っている人が少ない。物わかりのいい、優しい神父さまというのが宗教家の顔になっている。宗教から、この「畏れ」が亡くなったらもはや宗教としての生命を失っていると見てよい。

5.「モーセは知らなかった」
ところで、そのことについて聖書は面白いことを書いている。モーセ自身は自分の姿形がそのように変化していることを知らなかったという。「(彼自身は)自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった」。神と交わってきた人の顔には「畏れ」がある。その人の内面から出てくる「畏れ」であって、それは衣装や演出によって醸し出されるものとは異なる。それは彼の顔を見た人たちが感じる。ところがそれにご本人は気が付かない。宗教的な権威、「畏れ」、それは通常「カリスマ」と呼ばれている事柄であるが、それは他人が感じることであって、本人はそれを知ることができない。それは断じて上からの面線ではない。むしろ謙遜な「下からの目」である。その点を多くの人びとは見間違っている。悪いことに、それを最も勘違いしているのがご本人であることが多いということである。

「鬼の顔慈愛の顔に変貌す、神との出会い人を変える 善明」

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