ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 09/08

2012-09-09 06:11:54 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。『検察崩壊』を読ん考えさせられた。IT革命によりもはや権力者たちも情報を独占できなくなっている。と同時に個人情報もほとんど世間にさらされていると思った方がいい。そこに現代の最も深刻な問題がある。午後10時就寝、午前5時起床。体調快調。チュン、チュン。
posted at 05:06:48

#losungenj 09.08(sat)
わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。(Ps73:28)
posted at 05:22:27
#losungenj 09.08(sat) 奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになります。(1Tim3:13)
posted at 05:22:48
#losungenj 私の黙想:
今日の聖句はそのまま素直に味わいたい。「神の近くにあること」は幸いだ。何かを愛する人はそれの近くにいること、それだけで満足だ。山を愛する人は山にいるだけで、海が好きな人は海辺にいるだけで満足だ。恋人同士は一緒にいるだけで幸せを味わっている。神を愛する人にとって神の近くにいると思うだけで幸いだ。キリスト者は教会に属し、教会に自分の場があるというだけで幸せ者だと思う。
posted at 05:30:12

今日の名言:RT @meigenbot: meigenbot:
真実の言葉は美しくなく、美しい言葉は真実ではない。正しい言葉は聞こえがよくなく、聞こえがよい言葉は正しくない。 (老子)
<一言>そうかなぁとも思うし、そうじゃないとも思う。真実は美しく、嘘は醜いとも言える。
posted at 05:52:07

文屋 知明 少し違うが・・「良薬は口に苦し」か・・・老子:「言葉」がついてるのがポイントか? 真実(うそ偽りのないこと)は美しい!「事実は小説より奇なり」で苦しいことも多いね!

文屋 善明 老子の言葉は絶対的な真理を述べているのではなく、具体的な場での一種の警告で、その意味では逆も又真なりで、私は後半の言葉でそれを言いたかったのですが、勘違いの表現になってしまったようです。

文屋 知明 そうですね!話し「言葉」は具体的な面が強いね!


「昨日のツイート 09/07」をブログにアップしました。 http://t.co/twGM10Bx
posted at 06:25:40

9月4日で中断していた廣松渉『新哲学入門』、「意味としての所識」44頁から読み始める。ここまでは主観客観図式、および三項図式(刺激受容~心象形成~心的能作)という従来の認識論の問題点を詳論している。ここからが廣松の認識論の展開である。できるだけ既成概念を排除して、日常的体験場面、知覚風景的な現象を正視するところから始める。
posted at 08:07:06

FB『もしニーチェが短歌を詠んだら』5(35頁)
オカルトな説明は ふと深そうに聞こえるけれど 実はからっぽ
『悦ばしき知識』第3書第126節
(どんどん、コメントをお寄せください。みんなでこの短歌を味わいましょう。)

文屋 善明 参考までに、この短歌の元になったニーチェの言葉(翻訳)を紹介しておきます。非常に短い文章です。
<神秘的な説明――神秘的な説明は深遠だとされている。だが、実際のところ、そうした説明はまだ表面的だとさえも言いかねるものだ。>
たった、これだけだ。「神秘的な説明」という部分を「オカルトな説明」と言い換えている。ここでは明白にキリスト教そのものを批判している言葉であるから、「オカルトな説明」としてしまうと一寸問題であろう。

FB<閑暇閑話(かんかかんわ>5
フェイスブックをお楽しみの皆さん、土曜日の午後という貴重なお時間をつまらない話でお茶を濁して申し訳ありません。でも、今日は680年前のフェイスブック・ファンからのポストです。お楽しみください。

徒然草第十二段
自分と同じ心を持っている人がいれば、水入らずに語りあい、興味深い話題や、どうでもよいつまらない与太話でも、お互いに歯に衣を着せず話し、癒しあうことができて、こんなに嬉しいことはない。でも、そういう人は都合よくいるわけなく、たいていの場合は、相手を逆上させないように適当に相槌を打って話す羽目になる。すると鏡に向かって話しているような気分になり、虚しくなる。
同じ結論の話であれば「そうだね」と聞いてみる価値もあるけれど、違った意見であったならば「そんなことはない」と論争が勃発し「そうしたら、こうなるではないか」などと議論になる。それはそれで退屈な気持ちから解放されて良いのかもしれない。けれども本当は、小さな愚痴も受け止めてもらえない人と話していたら、とりとめのない話をしているうちは良いけれど、魂まで交流できる友達と比べたら宇宙の彼方にいる人と話しているようで、切ない気持ちになる。(吉田兼好著・吾妻利秋訳)

清水 晴好 兼好さん、fbやったらはまってたろうな。WWW

文屋 善明 私もそう思います。

上野 博志 ‎~~たく、その通りです。と言って、自分の意見と同じようなのがネットに流れているのを見ると~~マッ~~いいかぁ~と遠慮してしまうのです。あまりにも、情報が豊富すぎるのです。ラジオもテレビも感心がない時代に、酒を交わしながら友と語り合ったのが懐かしい。今では「あっ、それネットで見たよ」で終わりです。

<補遺>完全引退後の「生き甲斐」もほぼ見通しが付いたような気がする。


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