ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 08/11

2016-08-13 07:52:57 | ツイッター
お早うございます。主の平和。リハビリ、整骨院。昼食前に30分ほど仮眠。『キリスト教の世界』続読。あまり進まず。1時間半ほど昼寝。家内は一人で釣川堤防散策。夕食後、「7人の刑事」を見て10時に就寝。5時半起床。今朝の体温:36.0、血圧(141,73:67)・体調・快調。チュン、チュン。

31藤岡 秀興さん、松井 信一さん、他29人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

東山 富昭 おはようございます。今日も、よろしく、お願いします。

小貫 ツマ おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪朝から暑いことです。どうぞ、お大事になさって下さいますように!
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されます様にm(__)m


文屋 善明
8月11日 5:54 ·

お目覚めの花。「今日は山の日だって」「へー」「昔、ぼた山。今、原発ゴミの山」。
画像に含まれている可能性があるもの:1人、植物、花、木、屋外、自然

29北村 良輔さん、安田 信夫さん、他27人
コメント

西川 芳昭 ざぶとん1枚* でも、現実かなしいね。


文屋 善明
8月11日 6:24 ·

016 日々の聖句 08月11日(木)
万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。(詩80:20)
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。(ルカ7:13~14)
私の黙想:
この詩には同様の言葉が3回繰り返されている(4,8,20)。「連れ帰り」、面白い表現だ。「連れ帰り」であるから、「万軍の神」も民と共に捕囚の地に居られることになる。そのため、故郷は荒れ放題になっている。つまり、故郷には万軍の神は不在である。この言葉、口語訳では「(われらを)もとに返し」と訳されている。この表現では神の居場所は特定されていない。フランシスコ会訳では「立て直してください」、新改訳は口語訳と同じ。岩波訳では「連れ戻してください」。文語訳では「復(かえ)したまえである。この言葉はむしろ「帰し給え」であろう。
この詩は、私にとって、いやむしろ私の母にとって血を吐くような祈りであったと思う。(旧)満州の地で国から捨てられた日本人はみな、「(祖国に)帰し給え」と必死で祈り、北朝鮮を経て、38度線をくぐり抜け、山野を歩き続けた。ちょうど70年前の今頃である。だから、訳語の正否はともかく「連れ帰り」が身に浸みる。その頃、10歳であった私には分からないが、母の「万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」という祈りによって、無事に帰国できた。そして確かに「み顔の光が輝いた」。

31早乙女 実さん、福永 澄さん、他29人
コメント

門叶 国泰 旧約の代表的な動詞「シューブ」ですね。BDBは5ページにわたって用例を分析しています。聞く者、それぞれの思いが込められているのでしょう。


文屋 善明
8月11日 6:28 ·

今日の名言:@Schopen_bot
なるほど世の中には、自分のうちに現象している意志が弱いためにただ善良らしく見えるにすぎないような人々がいる。しかしこういう人々は、正しい善い行為を実行するに足るだけの十分な自己克服の能力をもっていないことでたちまち正体を暴露してしまうのである。(ショーペンハウエル、悲観論の哲学者)
<一言>私がその一人です。

21早乙女 実さん、西堀 俊和さん、他19人
シェア1件
コメント

増野 真美 いいねしにくいです。
私もその一人ですから

播 稔 全ての人にいえるのではないでしょうか。キリスト以外は。


文屋 善明
8月11日 6:48 ·

「昨日のFB 08/09」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

9播 稔さん、松井 理直さん、他7人


文屋 善明
8月11日 6:51 ·

イミタチオ・クリスチ(212):
熱心な信徒が万事に秩序正しく生きている姿を見ていると、こちらの心まで楽しくなる。逆に、ふしだらな生活をし、信徒としての当然の義務も疎かにしているのを見るのは、いかに悲しく痛ましいことか。25:23

18北村 良輔さん、播 稔さん、他16人


文屋 善明
8月11日 11:03 ·

さて、美しい羽根、神秘的な本体。短いこの世での命の最後を我が家のエアコンの屋外機にしがみついて4日間を過ごしていました。気持ちよく、昇天したのだろうか。
画像に含まれている可能性があるもの:花、屋外

36加藤 治さん、小貫 ツマさん、他34人
コメント

杉浦 紀明 クマゼミのようですね。。。美しい。

山本 友美 文屋司祭に見守られてきっと天国に飛び立ったと思います。

播 稔 何故木にとまらないのか。


文屋 善明
8月11日 11:14 ·

読書記録:C.S.ルイス『キリスト教の世界』
第2部は少し丁寧に引用しました。
第2部 キリスト教徒の信じていること
もっと簡単に述べてみましょう。悪であるためには、その人は存在し、知力を持ち、意志を持たなければなりません。しかし、存在、知力、意志はそれ自身において善なのです。ですから、それを善なる力から得ているのです。悪であるためには、敵陣から借りたり、盗んだりしなければならないのです。さて、みなさん方は、「悪魔は堕ちた天使だ」と、キリスト教がいつも語ってきだ理由がおわかりになってきたことでしょう。これは、子供向きのお話ではないのです。悪魔とは寄生的な存在であり、独自の存在ではないということは事実の真の認識なのです。悪魔が行使できる力は善によって与えられた力なのです。 悪人を効果的に悪たらしめるすべてもの——決断、利発さ、美しき外見、そしてその存在自身——これらのものは、それ自身において善なのです。二元諭というものが、厳密な意味において成り立たないというのはこの理由によります。
でも,真のキリスト教というものが「水割りキリスト教」とは違って、人々が考えるよりずっと二元論に近づくということもまた十分に認めます。私がはじめて新約聖書を真剣に読んだ時に驚いたことのの一つは、宇宙のなかの暗い力、死と病と罪の背後の力とされた、強力な悪魔について聖書がしばしば語っていろことでありました。二元論と違っているのはキリスト教ではこの暗い力が神によって作られにものであり創造された時には善であったものが間違ってしまったと考えることです。この宇宙が戦争の場であるということにおいてキリスト教は二元論と同調いたします。だが独立した二つの力の間の戦争であるとは考えません。それは内戦であり反乱であり、われわれは反乱軍によって占領された宇宙の一角に住んでいると考えます。
敵に占領された地域、それがこの世界です。キリスト教とはその世界に正統な王が上陸し——変装して上陸したといってもいいでしょう—— われわれに向かって今している仕事を放棄して偉大なキャンペーンに参集することを求めている物語であります。教会ヘ行くということは、友軍からの秘密の電波を聞くことであります。だからこそ、敵はそこヘ行くことを妨害しようと気を使っています。敵はわれわれの高慢、怠惰、浅知恵に働きかけてきます。「あなたは一体この時代に角をはやしひずめの割れたあのなつかしい悪魔をもう一度紹介しようとするのですか」と、どなたかお尋ねになるだろうと思います。この時代とどういうかかわりがあるのか分かりません。また角やひずめについてもよく知りません。でも、一面において私の答は「然り」なのです。その悪魔の顔付きを知っているとはいいません。もしもっと知りたい方がおられれば、次のように申しましょう。「御心配なく。もし本当に知りたければ判ります。でもその時、その顔が好きになるかどうかは別ですが」。(51頁)
宇宙についても、多分同じであろうと思います。神は自由意志を持つものを創造されたのです。ですから被造物は善にも悪にも走ることができるのです。自由でありながら悪ヘ走る可能性のない存在というものを考える人がしいますが、私には考えられません.。善ヘむかう自由があれば、 悪ヘむかう自由もあるのです。その自由意志が悪魔の存在を可能にしているのです。
それならば、なぜ神は自由意志を与えられたのでしょうか。なぜならば,悪を可能にするものではありますが,自由意志こそ愛とか喜びという価値あるものを可能にするものであるからです。機械のように動く被造物の世界は創造に値いしません。この世における男女の愛の喜びも気の抜けたものに思われるような愛と喜びのなかで自由に自ら進んで神と他と交わる幸福が、より高度な被造物について神がデザインされた幸福なのであります。そのために人々は自由であらねばならないのです。
もちろん、その自由を悪い方向ヘ使ったらどうなるか神は知っておられます。その危険に価いするものと考えておられたと思われます。そういう神に同意できないように感ずるかも知れません。でも神に同意しないことはむずかしいことです。われわれの判断力のよって来るところが神にあるからです。(53頁)
暗黒の力はいかにして悪に走ったのか。これは人類が確かな答えを山すことができない問いです。でもわれわれ自身が悪に走った時の経験からーつの合理的かつつ伝統的な推測をひき出すことができます。われわれが自己というものを持った瞬間、自分自身を第一とする可能性があります。それは自分が中心となることを欲することであり、そして事実上自分を神とするこを欲することです。それはサタンの罪であり、サタンが人間に教え込んだものであります。人間の堕落は性に関係あるように考える人がいますが、そは間違いです。創世紀の物語はわれわれの性的退廃は堕落の結果であって原因ではないことを示していろように思われます。サタンがわれわれの遠い先祖の頭に吹き込んだものはわれわれが「神のように」なり得ること、あたかも 自分自身を創ったかのように自分自身でやって行けること、自ら主人であること、神のほかに、自らの幸福を作り得るということでありました。そのような試みから出てきたのが、金、貧困、野心、戦争、売春、階級、帝国、奴隷の歴史なのであり、神以外のところに人間を幸福にさせると思うなにかを求めようとした長い、耐えがたい人間の物語りであるのです。
<中略>
それでは神は何をなされたのでしょうか。第1に、神は我々に良心を与えられました。善と悪とに関する感覚です。歴史を通してそれに従おうとする人々がおりました。ある人々は非常に厳格に従おうとしました。だが、だれも成功した人はいません。第2に、神は人類に良い夢を与えました。異教徒に一般的な話なのですがある神がいったん死んで生き返り、その死によって人々に新しい生命を与えるというものです。第3に、神はある特定の人々を選び、何世紀にもわたって彼らの頭のなかに唯一であり、善を欲するという神の性格を叩き込まれました。この人々というのがユダヤ人であり、その叩き込む仕方は、旧約聖書が説明をしています。
その後に真の衝撃がきました。ユダヤ人の中にあたかも自分が神であるように語って歩く人が、突然、出現したのです。その人は罪を赦すといいました。その人は始めから存在したといいました。時の終りにきて世を裁くといいます。この点を明らかにしてみましょう。たとえばインド人のように汎神論者のなかでは自分が神の子であるとか、神とともにあるとかいうことができるかも知れません。それはとくに奇妙なことではありません。しかし、その人はユダヤ人なのですから、そういう意味での神を考えることはできません。ユダヤ人のランゲージでは神とは世界の外にあって、世界を創ったものであり、他のいかなるものとも異なっている存在を意味します。このことを理解されるならばこの人の語ったことがかつて人間の口から発せられたことのない、もっとも衝撃的なことだということも埋解されるでしょう。(55頁)
キリスト教徒の信仰の中心はキリストの死がわれわれと神との関係を正し、われわれに新しい出発を与えたということです。実際いかにしてそのことがおこなわれたかという理論はまた別のことです。いかに行なわれているかということについては、たくさんの理論がありますがすべてのキリスト教徒は、ともかく そのことがおこなわれているという点で意見が一致しています。
どんな風であると私が考えているかお話ししてみましょう。ふつうの感覚持っている人ならば、疲れたりお腹がすいている時に食事をとることがいいことはだれでも知っています。ビタミンとか蛋白質とかに関する栄養学の新しい理論というのは、また別のものです。ビタミン理論の発見されるずっと前に人間はタ食をたべて調子の良くなるのを感じておりました。
ビタミン説が、仮に放棄されたとしても前と同じように夕食をとりつづけるでしょう。同じようにしてキリストの死に関する理論はキリスト信仰とは違うものです。いかに作用しているかという説明にすぎないのです。キリスト教徒はこれらの理諭が重要なものであるという考えには同調しないでしょう。私自身の所属している英国教会はこれらの理論のどれかーつに組しようとしていません。カトリック教会はほんの少し違うようですが、だが事柄自体が神学者の生産したいかなる説明よりもはるかに重要であるということはみな同意すると思います。いかなる説明も現実と全く適合することは決してないであろうと、みな認めることと思います。でも、この本の序文に述べたように、私は一人の平信徒でありますから、このことには深入りしすぎているように思いますが、このことについて、私が個人的にどの見ているか、お話しするだけです。(58頁)
<中略>キリストは我々のために殺され、その死は我々の罪を洗い清め、キリストは死ぬことによって、死そのものを無効にしたと教わっています。これが数式です。これがキリスト信仰です。これが信ずることの内容です。キリストの死が、いかにしてこれらのことをなし得たのかということについて、我々が作り上げる理論は、全く二次的なことにすぎないと私は考えます。(60頁)
全き従順と謙りとはキリストにおいてなされました。それが完全であったのは神であったからです。また従順と謙りとは人であったからです。さてキリスト教徒の信仰はもし我々がキリストの従順と謙りをいくらかでも共有するのであれば、キリストが死を克服したことをも共有し、死の後に新しい生命を得、それによって我々は完全な、そして全く幸福な被造物になるということです。このことは我々がキリストの教えに従おうと努力することよりも、もっと大きいものを意味しています。よく人は進化論的にみて人間はいつ人間を超える存在になるのだろうという質問を発しますが、キリスト教的に考えるならば、そのことは既に起こっていることなのです。キリストにおいて新しい種類の人間が出現しているのであり、キリストにはじまる新しい種類の生命が我々のなかに注がれることになっているのです。(63頁)
キリストの生命を我々に伝えるものに、3っあります。洗礼と信仰と,そしていろいろな宗派のキリスト教徒が別々の名で呼んでいろ神秘的な行為——すなわち、聖餐、ミサ、主の夕食がそれです。少なくもこの3つが通常の方法です。この3つのうちどれか1つか2つが欠けている特別な例がないとはいいません。そういう特殊例をのべる時間もなく、また十分な知識も持っていません。エジンバラヘはどうやって行ったらいいのか、と聞かれた時、短かい時間で答えようとするならば、汽車にお乗りなさいと言うでしょう。たしかに、船でも飛行機でも行けるのですが、そう答えることは、ほとんどないでしょう。この3つのうちどれがもっとも重要であるかということは申しておりません。メソジストの友人はそのうち信仰をもっとも重要というでしょう。でもそのことについてはあまり議論いたしたいとは思いません。キリスト教徒の信仰個条を示そうとする人は、軽重は別として、その3つの全部を語るはずです。さしあたり、そのことだけで十分です。(64頁)
善であろうと努力しているほかの人々とキリスト教徒が違う場所にあるというのは、この点にあります。その他の人々というのは、もし神があるとするならば、神を喜ばすために善をおこないます。もし神がいないと考えるならば、少なくとも善人からの承認を得ることを期待しています。
しかしキリスト教徒は自分のしている善が内にあるキリストに発していると考えています。我々が善をおこなうから神が我々を愛するのではなく、神が我々を愛されるから我々に善をなさしめているのだと考えます。温室の屋根が輝いているから太腸の光を集めているのではなく、太陽が照らしているから輝いているのと同じです。(66頁)
この新しい生命というものが,信仰といったように純粋に精神的な行為によってだけではなく、洗礼とかミサとかの身体的行為によっても広がっているということを説明しています。それは、ある思想の伝播であるだけではなく、進化といったような、もっと生物学的、超生物学的なことがらなのです。神以上に精神的であろうと努力することは、よいことではありません。人間が純粋に精神的な存在であるべきとは決して神は思われなかったはずです。新しい生命を我々に注ぎ込まれるためにパンとぷどう酒というた物質を使われるのは、そのためです。我々ゎれゎれはこのことを何か洗練されておらず,精神的でないことのように思うかも知れませんが、神はそう思われません。食ベるということも神が創られたことです。神は物質も好まれます。それを創られたのです。(67頁)
もう一つの、あり得ベき反諭があります。神はこの敵地になぜ密かに上陸し、いわば悪魔をほろぼす秘密結社のようなものを作られたのであろうか。なぜ強力な軍隊とともに侵攻されなかったのか。神はそれほど強くはないのだろうか。キリスト教徒はキリストがそのように上陸されようとしていると考えます。だが、いつのことであるか判りません。でも、それが遅れている理由は想像することができます。我々が神の側に自由意志で参加する機会を与えようと欲しておられるのです。(68頁)


文屋 善明
8月11日 19:12 ·

二人だけになると食べられないもの、大玉のスイカ。今日の夕方、ご近所の方から、自家製の大玉スイカを頂きました。直径30センチ。早速、息子を呼び、半分お裾分け、そのまた半分(1/4)をマンションの友人宅にお裾分け。このスイカ、あまりの重くて、入口から3階の部屋まで持ってこれなかったのを若い奥様が運んでくれたのです。チョット、試食すると、甘いこと、甘いこと、大感謝です。
画像に含まれている可能性があるもの:食べ物

48加藤 治さん、濱 和弘さん、他46人
コメント

播 稔 たしかに大きい。

播 稔 皮の近くまで、赤いですね。

最新の画像もっと見る