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諸聖徒日説教

2015-11-01 14:12:50 | 説教
諸聖徒日説教 (2005.10.30)

座るのも立つのも 詩139:1-24
  <この説教では原則として祈祷書の詩編を用いる>

1. 葬送式と逝去者記念で用いられる詩編
日本聖公会祈祷書には葬送式や逝去者記念礼拝あるいはそれに関連する諸式において用いられるにふさわしいものとして11編の詩が選ばれている。ちなみに、番号だけ紹介すると、23編、27編、42編、46編、90編、106編、116編、118編、121編、130編、139編。いずれも人の一生を考えさせる優れた詩である。

普段の主日の説教では、聖餐式の日課に選ばれているテキストを取り上げているので詩編から説教をするという機会はほとんどない。その意味では聖書の中の貴重な宝物を見落としているということでもある。それで毎年この季節に迎える逝去者記念聖餐式ではこれらの詩編の中から一つを選んで共に人生について考えたいと思う。これから毎年一つずつ取り上げても11年かかるので私自身の葬送式までに全部取り上げることができるのか疑問である。その意味では私自身の葬送式の準備でもある。
さて今年は最後の第139編を取り上げる。どの詩でも同じことであるが、詩は当然のことであるが、美しい言葉で述べられている。それだけに非常に抽象的で、どこに焦点があるのかはっきりしない。詩人の心がどこにあるのか、この詩はどういう問題意識から生まれたものなのか、それがはっきりしないと、ただ美しい言葉の連続に終わってしまう。もちろん優れた詩は、言葉の端々、その裏側に秘密が隠されており、読み、詠う人の経験により、より深い理解が生まれる。

2. 詩が生まれた背景

詩139編の場合、特にそのことが重要である。詩人は「神よ、悪人を葬り去り、血を流す者をわたしから離れ去らせてください」(19節)と言う。端的に「彼を殺してください」という祈りである。これほど激しい詩、あるいは祈りは他に見られない。それ程この詩の作者は追いつめられている。何故だろう。それが分からなければ、ただ「ひどい詩」に過ぎない。その秘密は最後の一節に隠されている。「わたしの内に悪への道があるかないかを見、永遠の道に導いてください」(24節)。ここで「悪への道」と訳されている言葉は「偶像礼拝」を意味する(関根正雄「詩編注解下」教文館)と言われている。その解釈が正しいかどうかということは問題ではない。要するに詩人は彼自身の人格を決定的に「悪」とされるような犯罪者として告発されているのである。詩人は被告である。原告は「みだりに神のみ名を口に」(20節)にして、詩人を偶像礼拝者に仕立て上げ、執拗に告発している。詩人はその反論に疲れ果て、「神よ、悪人を葬り去り、血を流す者をわたしから離れ去らせてください」(19節)と神に祈る。まさか、自分の手で殺すわけにはいかない。だから神に「殺してくれ」と祈る。彼は神に縋るほかにすべがない。22節の「わたしは彼らを限りなく憎む」という激しい言葉はそういう背景でのみ、意味を持つ。続いて、23節では詩人の真情が述べられている。「わたしを試し、わたしの不安な思いを知ってください」。恐らく、この言葉を口にするとき、詩人は涙を流していたであろう。そういう激しい感情の起伏のもとに、この詩は成立したものである。尋常の詩ではない。そうだとすると、この詩の一言一言が非常な重みを持つ。

3. 神はわたしのすべてを知っておられる

1節から4節までの言葉には切実さが込められている。神以外に私の本当の姿を知っている者はいない。しかし神だけは私のすべてを完全に知っておられる。「わたしが座るのも、立つのも」知っておられる。外面的な行動だけではない。神は「わたしの思い」も知っておられる。神の前にはすべてがお見通しである。その神はただ単に私のすべてを知っておられるだけではなく、私を「守ってくださる」(5節)。
しかし、それをいかにして証明するのか。誰がそのことを知ることができるのか。神がすべてのことを見ておられること、知っておられることは、誰にとっても明白な事実ではなく、一種の「神秘」(6節)であり、そのことを誰も証明できない。
神が知っておられることの範囲は人間の認識の限界を超えている。何処まで神はご存じなのか、その知識の空間的範囲は誰にも分からない。ここでは神の認識の範囲と「神の支配」の範囲とが重なって語られている(7~10節)。もちろん、この「神の支配」とは「神の守り御手」ということである。空間的範囲だけではなく、同時に、神の支配の時間的範囲も述べられる。夜も昼も、明るいときも、暗いときも。それだけではない、私が生まれる前から「母の胎内でわたしを組み立てられた」(13節)のは神である。私自身のことを神は私自身より深く、広く、長く知っておられる。もう一度、繰り返し詩人は神の知識の神秘性を讃える。「わたしの生涯の一日がまだなかったとき、わたしの日々は定められていた」(16節)。これで決定的である。ただ、神は知っていただけではない、定めていたのである。しかも、その一日一日はすべて恵みに満ち、その恵みを数えても数え切れない(17節)。神の恵みを計算するためには私の計算機の限界を超えている。

4. 「私が終わりだと思う時に」

18節の「それを数えれば砂の数よりも多く、目覚めればわたしはあなたとともにいる」という言葉の訳文については、いろいろな議論がある。特に「目覚めれば」をどう訳すか。新共同訳では 「その果てを極めた」と訳している。(フランシスコ会訳では「数え終えても」)。専門的な議論は専門家に任せるとして、文脈から考えて、「数えて、数えて、もう数え切れないと思うその時に」という意味であろう。要するに、もうこれ以上、私が出来ることはない、その時。私の思想も私の人生も「これで最後と思うその時」という意味であろう。もうこれで私の認識も、証明も、反論もお終いだと思うその時に、「まだ」神は共におられる。と言うより、神は、もっともっと先まで私と共におられる。

5. 逝去者記念の日に

逝去者記念の日にこの詩を読むと、作者である詩人のすべての個人的な涙や、悩みや、憎しみが抽象化され、すべての人に共通する一つの普遍的な真理として、私たちと神との切っても切れない関係が明らかにすされる。「わたしが座るのも、立つのも」(2節)知り、何時でも、何処でも「あなたの手はわたしを導き、あなたの右の手はわたしを離さない」(10節)。「恐るべきみ力によって造られたわたしの存在は不思議、あなたのみ業は不思議」(14節)という言葉は、私の賛美の言葉となる。私の人生の最後の日に「わたしはあなたとともにいる」(18節)という神の言葉を聞く。

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