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ローマ教皇の権威への疑問

2017-04-13 14:21:35 | 雑文
ローマ教皇の権威への疑問
私がどうしても理解できないことは、使徒ペトロが初代ローマ教皇になったという点である。パウロがローマに行ったということについては使徒言行録にも記録があり、否定できないでしょうが、使徒ペトロが、いつ、どういう形でローマに行ったのかわからない。というより、それはほとんどあり得ないだろうと推測する。
初期の教会の中心はあくまでもエルサレム教会(「母なる教会」)であり、そこの実権はイエスの弟とされるヤコブが握っており、晩年の使徒ペトロはエルサレム教会の形式的代表者であり、そこで殉教したのではないだろうか。
この世の政治権力の中心はローマにあり、その意味ではローマにある教会はキリスト教の宣教活動としては拠点的な意味があったであろうが、それ以上ではない。あくまでも西の端の地方教会にすぎない。
当時のキリスト教世界は、エルサレム教会を中心にしてエフェソ、コリント、コロサイ、フィリピ等のそれぞれ半分独立した形で分散しており、それぞれがいわば「主教(エピスコポ)」によって指導されていたであろう。そういう状況が2〜3世紀ほど続き、ローマ帝国がキリスト教を公認し、ローマ帝国の宗教という地位を確立して以後、一挙にローマ教会が「キリスト教世界の中心的機能」を持ち始めたのであろうが、各地の教会はそれぞれ独立性を保ってたものと思われる。
その意味では、ニケア会議の結果、諸地方の教会がそれぞれ独立したままでローマ教会の指導性を承認したものと思われる。
しかし、その段階でもローマ教皇の「唯一性」が確立されたわけではなく、むしろ神学的な中心はアレキサンドリア辺りの東方教会にあったものと思われる。いわゆる「ギリシャ語のキリスト教」である。
従って、11世紀の東西教会の分裂も東方教会はローマから分離したというようなことではなかったのはないだろうか。
この一連の歴史のスケッチにおいて「ペテロの座」の成立の根拠は非常に薄弱である。(2017年4月11日)

コメント
文屋 善明 「使徒ペトロ」は、日本における歌舞伎世界のように、一種の芸名で「初代ペトロ」「3代目」「5代目」とかそれはあり得るでしょうが、そうなると、西と東とで「ペトロの座」の争奪戦があって、金の力で西が勝ったとか。

文屋 善明 どさくさに紛れて、もう一つわからないこと。カトリック教会っていつからカトリック教会と言い始めたのでしょうね。ご承知にように、これはこれはカトリケー、つまり普遍的、現代的にいうと「グローバル」、これは明らかにギリシャ語系の教会の「オーソドクシー」つまり、伝承ということを大切にしているということで、「オーソドクシー」は時間の流れ、「カトリケー」は広さの概念、どちらが咲きかわかりませんが明らかに相互に意識している、「本店争い」みたいなもの。この辺の歴史的な経過がわかりません。


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