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読書記録:小田実『日本の知識人』

2015-11-05 10:27:15 | 雑文
小田実『日本の知識人』(筑摩叢書)読書記録(2015年10月24日〜11月4日)

知識人の古典型、中世型、近代型。これは時代的変遷というよりも、「類型的」区分である。

知識人についての暫定的定義。「単に自分の専門に関してだけでない広いさまざまな分野の知識を持ち、その知識に広がりを自分の判断の道具に使い、さまざまなものごとに対して、そのものごとが何であれ、自分自身の判断を下し、分からないときには分からないとはっきり言い、その分からないという理由を明白にすることが出来る人間」。46頁

小田実が日本人とフランス人のいわゆる「知識人」と呼ばれるであろう人とを対比している面白文章がある。多少、戯画化しているが、まさにその通りであろう。これは近代型知識人の中にある古典型知識人について論じている文脈で、知識人論の核心的部分でもある。
<以下、引用>
簡単に言えばこうなる。フランスの医学部教授、工場の技師、会社重役の知識は、日本の彼らに比べてはるかに広いであろう。また、専門知識のことはいざ知らず、一般的な知識は深い。3人ともブルーストを読み(あるいは読んだふうなふりをし)、「反小説」の話をチヨイとほのめかし、ポードレールの詩句の切れはしを会話にはさみ込んだりするだろうが、彼らはそうかといって何も文学が好きなのではない。日本にもそういう人はたしかにいるだろうが、それは文学を読むことを趣味にしている人で、会社では「あの重役は少し変ってるんでね」ということになっているにちがいない。もう少し突っこんでいうと、重役のデスクの上に『エコノミスト』がおいてあれば、あるいは『徳川家康』がおいてあれば、彼は「変った人」にはならない。しかし、そこに読みさしの「森臨外集」があったらどうだろうか。フランスの場合は、文学が好きであろうと嫌いであろうと、それはどの「専門」の人にとっても「知識人」の資格獲得、保持のために必要なことがらであるという意識が、まるで空気のように目立たないまでに普遍化していて、彼らはそのなかで育って来ているのだろう。ことはもちろん文学だけにかぎらない。コメデイ・フランセーズヘ行くこと、そうでなければサルトルの新作を話題にすること(ベつに見に行かなくてもいいが)も必要なのだろう。日本の重役なら、歌舞伎は「きみ、切符を貫ったからね」であり、新劇は、それこそ、女の子の見るものであろう。音楽についても同じ。フランスては メシアンのことでも言っていれば知識人の資格十分だということになる。クセナキスのこととなると、少しぶっていすぎる。(106頁)


西欧型知識人の典型としてのフランス人、後進国の典型としての日本人。

フランスにおける知識人とは西欧における知識人の典型モデルであるが、その意味ではアメリカの知識人は古代型はおろか中世型の知識人とも縁遠い。その意味では日本における知識人と最も近い関係にある。そのことについて小田は次のように述べている。
<以下、引用>
こうして、日本の社会は、近代型知識人万能の社会となるのだが、この日本と比ベると、アメリカでさえが、 「知識人の近代化L」という点ではまだまだ見劣りがする。 アメリカで、 たとえば医者の寄り合いがある。そうすると、必ずそこで、「人類の未来と医学の使命について」というようなことを論ずる人が出て来る。浅薄かもしれない。本気で考えていない、たんにスノビズムの発露にすぎないのかもしれない。しかしすくなくとも、医者はそうしたことを考えなければならぬ、考えないと医者という知的職業についていることにはならないという意識が、世間には一応の通念としてどこかにあるようだ。あるいは、もっと口をわるくすれば、そうした論題をかかげて論ずる人がいなけれぱ怜好がつかぬという意識はある。なにしろ、医師の免許をとるために「ヒポクラテスの誓い」を誓わされるという古風な社会だ。近代的な日本には、そうしたまだるこしいものはきれいさっぱりとない。医者は寄り合いで、ガンについて、ノイローゼについて、子宮内膜炎について論ずるだろうが、「人類の未来と医学の使命について」——ふん、大人げない、馬鹿も休み休み言うがよろしい。わしは忙しいのじゃ。
このような西洋一般の風潮は、それを助長させるような社会の制度と結びつき、おたがいがおたがいを強化し、維持させようとするのだろう。たとえば、概して言って西洋は日本と比ベて階級差別の大きいところだが、ことにそれがはなはだしいイギリスの場合などでは、経済的に余裕があり、つまり、「ひま」が比較的あって古典型教養を身につけることができる上層階級が知識人となり、あるいはそんなふうにみなされ、よくいってしゃにむに専門知識を身につけるほかはない下層階級は知識人とはみなされないし、また、なれないような教育の制度をつくり上げているのだ。つまり、前者はパブリック・スクールから大学へ行き、紳士として必要な全人的教育を受けるのだが、後者の教育は、職業教育をほどこす機関にゆだねられる。(108頁)

近代化と知識人。日本における知識人と非知識人。

小田実は、東京大学法学部の成り立ちとその役割について縷々語り、その結論として、次のように述べる。
<以下引用>
有能な技術者である役人は、与えられた原理や事実(たとえば、社会体制そのもの)を規定のもの、不変のものとして容認し、部分的改良をそこに施すことはあっても、全体的にそれに懐疑を抱いたり、ましてやそれをひっくり返そうなどと試みるようなことがあってはならない。こうした人物をつくり出すのに、法学部はおそらく最適の場所であったにちがいない。すくなくとも、日本の大学の法学部は、そうであったにちがいない——一つの挿話を語ろう。それは、私のことばのウソでないことを立証してくれれるにちがいない。>

とのべて、次のようなエピソードを語る。

<以下引用>
私は1958年に東京大学を卒業したのだが、(ちなみに、私の出身は文学部言語学科、専攻は西洋古典学)、卒業式の席で、当時の矢内原忠雄氏が、真の学問は真理の存在を信じ、真理を愛することから生まれるのだと説かれたあとで、つぎのような挿話を述べられたことを今もありありと覚えている。
——最近、汽車のなかで、法学部出身の大蔵省の若い役人2、3人に会った。たいヘん気持のいい青年たちであった。四方山話のすえ、別れぎわにそのうちの一人が言った。「私はとうだいをでてよかったと思います。それは東大で真理を学ぶことができたからです」。
私は激しい怒りと気恥しさにとらえられた。なんという思い上った、また恥知らずなことばであるのか。真理は人が一生かかって、自分の全力をそこに投入することによってはじめて自分のものとすることができるものだろう。けつしてお手軽に、まるで英語の単語や法律の条文を暗記するように、学ぶことができるものではない。矢内原氏はたしかに真理のために自分の一生を賭けて来られたかもしれぬ。しかし、その若いお役人は、それまでいったい何をして来たというのだ。私は怒りと気恥しさにいたたまれない気がした。いや、私の感じたのは絶望でさえあった。こうした人間をつくり出して来たことに、日本のゆがみがあったのだろう。それは破局にまで日本を追いやったのだが。——
その若者は、維新以来きずき上げられた法科教育のみごとな産物なのであろう。そして、彼のマヤカシ性を見抜くことなしに逆に賞揚した矢内原氏も、その申し子の一人であったと言わざるを得ない。(148頁)

「喋る論理」、「書く論理」、「印刷する論理」、西洋受容の3類型。

鴎外、漱石、荷風の西洋体験の対比が面白い。

日本の知識人にとっての「思想の場」と「生活の場」

<以下引用>
すくなくともこれまでのところ日本の近代化の驚ろくべきスピードには、「思想の場」と「生活の場」の入れこ細工、そのあいだの自由交通があずかって力あったのだろう。むろん、そのゆがみに対しても同じことが言えるに違いないのだが、まず近代化しなければどうしようもないという絶対命題の下では、それはむしろ必然の運命であった。インドにはその入れこ細工、自由交通がなかった。また今もってないということは、長い眼で見ればともかく、現在においては、ことを近代化にかぎって言えばマイナスに働いていることを、私たちは認めるベきであろう。ネルーは、今日のインドの悲劇は、とにかく走らなければならぬことだということを述ベたことがあるそうだが、それを今日までの日本の知識人の姿に当てはめてみれぱ(実際、彼らも走って来たのだ)、「思想の場」と「生活の場」をあわただしく駆け抜けて来たことにほかならないのである。 「思想の場」に執着することを、 周囲の状況が彼らに許さなかったということも、 多分にあったにちがいないのだ。
もっとも「思想の場」に執着しないことは、根本的には国民性の間題であろう。ここでは、宗教も諭理や倫理の偉大な体系をうちたてることよりも、たとえば日常的な美意識と結びつき(中世の浄土観)、あるいは「生活の場」の儀式となって(今日の仏教)、「非合理なれどわれ信ず」といったふうな強烈な態度はついに生まれなかったと言えるだろう。 日本の宗教の世界にただようものは、 無常感に典型的に見られるように、様式化された絶望、悲哀の一形式である。これは宗教性の稀薄を生み出し、その稀薄はまた近代化の急速な達成に大きな役割を果す。
「思想の場」と「生活の場」とが入れこになって、たがいにあいおぎなっているとき、もし、「生活の場」が身分制度によって固定していたり、それを強力な一つの価値原理が支配していたり、あるいはまた文明上、文化上の理由によって画一化されているとき、「思想の場」も固定化、権威主義化、画一 化するだろう。前の二つが維新前の日本の知識人の状態であり (封建的身分制度と武士階級の価値原理)、あとの二つが維新後、敗戦までの状態(天皇制をその頂点とした価値原理、それにつけ加えて、近代化の進展とともに次第に力をまして来た社会の画一主義的傾向)、そして今日の状況は、主として最後者の状態であるととらえることができよう。
(中略)
こうした精神構造は、さっきからくり返し述べて来ているように、ある点では、近代化の急速な進展に大きな役割をはたしたと言えよう。こちらに強固な論理体系がないこと、あるいはそれをくみたてる習慣なり伝統なり態度なりがないことは、西洋の論理体系を自分の体内にくみ入れることに役立ったのだが、その場合でも、無制限、無限定にくみ入れたのではない。「自分に必要なものをとる」、「よいものをとる」という二つの原理は、この場合にも働いていた。それは、つまり日本の近代化にとって必要なものだけをとり入れるということだが、たとえぱその西洋の論理体系をとり入れるにあたっても、近代化にとって不要なものは容赦なく切捨てられて行ったのである。いや、言い方を正確にしょう、故意に、あるいは無意識的に、不要なものと世の指導者によって判断されたものを切り捨てて行ったと言ったほうがよい。「平等」という観念はある程度入ったが、その「平等」を実生活で、支える「契約」の観念はほとんど入らなかった。そして前者は、「神の前での平等」というのに似た、「天皇という絶対者の前での平等」という考え方の形成に役立ったようだ。
知識人が「判断者」でないとすれば、彼を「非知識人」から区別するのは、「知識の集積」だということになる。世間も自分自身も、その方向だけから評価する。私をときどき驚かせるのは、知識人だとふつう一般にみなされている人が、何かものごとを判断するとなると、横丁の八つつぁん、熊さんと同じような判断を下すことである。念のために言っておくが、私は八っつぁん、熊さんの判断のほうが価値が低いと言っているのではない。そこに知識人らしい片麟も見られない、いい意味でもわるい意味でも、素朴な判断が下されるということである。つまりその判断は自分の知識に結びついていないで、 「生活の場」の体験や信念だけによりどこるを求め、他人に伝達するために不可欠な論理的解明を欠いているのだ。 「生活の場L」が固定化、権威主義化」 画一化されるとき、体験も信念も同じ運命をたどり、判断もそのあとに従う。
近代化は、そして、そのための「技術」教育は、知識人を「判断者」の位置からともすれば引き離そうとするのだが、実際、それは、日本の知識人のその素地の上で大きな実をむすぶことができた。近代化の急速な達成には、思考の権威主義、画一化が必要なのだが、日本人の精神構造はよくその要請にこたえたものだと言えるだろう。知識の種類、集積の程度においては各人各様だが(戦後のマス状況はそれさえを画一化する傾向をもつ)、判断おいてはみんな同じ。これは支配者にとって都合のいい構造であるにちがいない(戦後の状況の一つの特徴は、判断に種類と程度の差ができて来たことだろう)。(174頁)

体験的知識の軽視

<以下引用>
実際の体験から得られたものは、それが誰か権威者の手によって、それもたぶん西洋の権威者の手によって「書かれた」ものとならないかぎり、どのように貴重な知識であり思想であろうと、ほとんど問題にされないのだ (しかし、 い ったん 「生活の場」に入り込めば、 そこではたとえぱ~、農民の実際の体験に弱く、今度は、それを不当に高く評価するきらいをもつ。 それでいて、それが一つの思想というかたちにまでたかめられたとき、逆に認めようとしない)。 知識とか思想とかは、あくまで「書かれた」ものでなくてはならない、それ、~西洋の権威者の手によって「書かれた」ものでなくてはならない——それは、たとえば桑原氏がこれまでくり返し指摘して来たことだし、また京都大学人文科学研究所による若い探険家の一団が、新鮮なおどろきを日本の社会にあたえたことで逆にうかがい知ることができるものだろう。(桑原氏はたとえばつぎのように書く。 アジア・アフリカについての日本の学界の理解があまりにも現実離れしていると述ベたあとで、「このようなことはなぜ起るのか、おそらく、日本の学者は左派も右派も文献学者であって、その発想の源は、多くの場合、西洋学者の本の中にあるが、たまたまそれらの名著に書いてないからであろう。慎重に読めば、大宅壮一、丸山静雄、梅沢忠夫、小田実などの文章の中には、 一貫した学説にはなっていないとしても、 その萌芽たりうベき微妙で深い洞察が見出されるのだが、日本の専門家は、そうした『非学術書』を参考文献とすることを拒否することから学問的出発をするようである。『植民地の独立』 にはくわしい文献目録がついているが、これらの人々の名はまったく出ていない」(『後進国問題の考え方』)。(177頁)

マルクス主義は倫理的な意味でも、リベラリズムの伝統のない社会では、知識人の良心を支える最後のトリデだった。その状態は今でも根本的に変わっていない。
知識人は良心的であればあるほど、マルクス主義に接近する。(184頁)

日本における知識人は、「思想の場」と「生活の場」を使い分け、行ったり来たりする。かくして「転向」が容易になる。


「戦後の知識人の状況と問題」

知識人と冒険、知識人の卑下と傲慢。

<以下、引用>
実際、戦後の日本の社会でまずめだつものは、マス・コミュニケイシヨンの異常なまでの発達だが、これはすでに、さきにも述ベたように、人類の歴史のなかで最初の現象といったところにまで達しているのである。1時間に何点かの割合で世に送り出されて来る出版物。さまざまな週刊誌。すさまじいテレビ の普及率。大都会では6つも7つにも達するチャンネルの数。たとえば日本には宗教的な抑圧がないから、性についての情報もきわめて自由にまき散らされる。それは読者の側にも、態度の変化をうながす。婦人雑誌が性についての手記を求めれば、読者もかっては口にすることさえもしなかったことがらをあからさまに書く。それを「生活綴方」的な即物的で生ま生ましい筆づかいで書き記す。
このマス・コミュニケイションの異常なまでの発達は、人をまずもの知りにする。すでに書いたように、日本ほどふつうの民衆が平均的にものをよく知っている国はない。テレビは「一億総白痴化」するものではなくて、むしろ「一億総もの知り化」するものなのだろう。私は、テレビによる教養がすでに私の教え子たちの体内に定着してしまっているのを明瞭に認める。彼らと言わず人々の知識は大きく幅をひろげている。ただ、その知識は、テレビの一日の番組がそうであるように、いわば断片の集積であり、有機的なつながりはない。しかし、とにかく人々は今、もの知りなのだし、これからもますますそうなって行くだろう。 行くよりほかないだろう。
「喋る論理」の影響は、社会の各層に及んでいる。「書かれた」論理にたよりきりだったアカデミズムの世界にも、ようやく「対話」の可能性が出て来たようだ。まだまだ理想的な状態からほど遠いとはいえ、学者の書く文章も戦前に比ベてよほどわかりやすいものになって来ている。引用をちりばめて、権威主義的にかさにかかったものの言い方をする態度も、かなりすくなくなって来ている。そしてその傾向は、新制教育の産物たちがアカデミズムの世界のなかで主導権をにぎるにつれて、次第に増大して行きつつある。(248頁)<以上引用>

この文章はそのまま現在のことを書いているといっても通じる。実際、この文章は1964年、東京にて書かれています。今から約50年前のことである。あの頃から、日本は少しも違っていない。というより、悪いところは増大し、良いところは減少している。


小田実は本書の最後近くで次のようなことを述べている。私も最近、軍隊の恐ろしさ、軍隊によるクーデターの可能性に触れた言葉を述べたが、彼はすでに50年前にこれを書いている。

<以下引用>
平和思想——日本の知識人がもつ平和思想は、「思想の場」と「生活の場」の密接な結びつきの一つの例であろう。そこでは、思想は「生活の場」の裏づけをもち(それだけの経験を日本の知識人はもち、それが思想をかたちづくった)、また、逆に「生活の場」の知識人の行動は大きく「思想の場」の平和思想によって支えられている。平和思想ならどこの国の知識人だってもっているということばに対しては、戦争放棄を明記した憲法をとにもかくにも護って来た国は日本だけであると、そして、その護ることに果した知識人の役割はけっして小さいものでなかったという一事で答えよう。他の多くの国にあって、平和は、銃を手にもった平和だった。しかし日本人が考える、日本の知識人が考える平和はそうではない。それを現実ばなれのした白昼夢的平和である、げんにアメリカが日本を護ってやっているのではないか、という気の利いた意見に対しては、そうかもしれない、しかしそうした武装せざる「大国」日本の存在が、これからの世界情勢に大きな影響をあたえ得るだろう、そんなふうに日本の知識人は、その一人である私は、日本の政治に働きかけるつもりであると答えよう。

大熊信行氏は、戦後の知識人の思考の一つの特徴 (というよりは欠陥)に、「国家」の観念の欠如、「忠誠」問題の無意織的な無視をあげられているが、私は、さらにもう一つ重要な特徴をつけ加えたい。それ
は、彼らの思考に「軍備」ということがらがおちていることである。世界平和の問題であれ、国際情勢についてであれ、彼らの視点は、たしかに「軍備」をもたないユートピア人の視点だろう。再軍備論者の言説にも、私はそれを認める。たとえば、自衛隊の増強を説くとき、クー・デターの可能性を等閑視してしまっているかのような説である。「軍隊」の怖しさを彼らは知らないので はない か——ときどきそんなふうに思える言説に、私は出会った。ことに、それは若い戦後派知識人の問題であるのだろう。中国や北朝鮮ヘ出かけて、人々は軍隊の規律正しさに感嘆するのだが、そのとき、彼らの眼には、イデオロギーや体制のちがいを超越する軍隊の怖しさ(規律正しさ、みごとさも、イデオロギーや体制のちがいを超越する)が入って来ていないのだろう。63年8月、韓国ヘ出かけたとき、私ははじめてそれに触れた。

けれども、この「軍備」の背景のない戦後の日本の知識人の思考は、すベての思考がそこにまだとらわれている世界の現状のなかで、逆に大きな積極的価値をもつこともできる。それにはどうすればよいか。ここでそれを具体的に考えてみる必要があろう。(287頁)

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