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2006年大斎講話 福音の香り

2014-04-11 08:19:11 | 説教
2006年 大斎講話
福音の香り   2コリント2:14-3:6
1. キリストを知るという知識の香り
本日は特に、14節から16節までの部分を取り上げる。
パウロはキリスト者の本質を「香り」という比喩で表現している。わたしたちが存在しているすべての場所で、わたしたちは「キリストを知るという知識の香り」を漂わせている、とパウロは宣言している。キリスト者が生活しているあらゆるところに、キリストの匂いがする。わたしたちが家にいるときは家中にキリストの香りが漂い、市場に買い物に行けば、そこにキリストの香りが溢れる。どこでも、誰に対してもわたしたちはキリストを知らせる香りである。


2. 香りの不思議
そこで、本日はこの香りというものについて共に考えたい。考えてみると、この「香り」というものは非常に不思議なものである。先ず、香りというものの不思議さについて思いつくままに列挙してみたい。
(1)香りというものはその発生源がある限り必ず匂う。つまり香りとはその存在を主張する。
(2)香りの源を取り去っても香りは暫くの間残る。見える物は取り除けば瞬間的に見えなくなる。当たり前である。音も同様である。ところが香りは取り除いても暫くその香りは残る。
(3)香りは見える範囲だけでなく、それが置かれている空間のすべての隅々まで行き渡る。その意味では音と似ている。つまり音も香りもそれが置かれている空間を支配する。
(4)香りはそこに共に存在したものに移り、それが移動したら移動した先でも香りを放つ。この作用によって、その人がどこに立ち寄ったのかすぐにばれてしまう。
(5)鼻の悪い人にとっては香りは無いに等しい。香りというものを感じるのは人によって非常に異なる。人だけではない。たとえば犬の臭覚は人の何倍もあることはよく知られていることであるが、人間同士でも相当の差があることも事実であり、臭覚の鈍い人にとっては香りとは無に等しい。
(6)香りによって物の違いが識別される。まったく同じように見えていても、色も形も同じでも香りによって違いが分かる。しかも香りは長く記憶にとどまる。一度嗅いだ匂いはなかなか忘れない。忘れないどころか同じような色、形をしている物を見ると以前に感じた匂いを思い出す。
(7)どんなに良い香りでも過剰な香りは不快である。どんなに高価な香水でも着けすぎると周りの人に不快感を与える。特に自動車などの狭い空間ではもう二度とその人を乗せるのがいやになることもある。
(8)香りは非常に主観的である。感じ方がひとりひとり異なる。ある人にとって「よい香り」でも他の人にとっては「いやな匂い」ということもある。
(9)香りはその場の雰囲気を変える。よい香りは人間の情緒に影響を及ぼす。気持ちを安らぐような沈静作用がある。
(10)臭覚は自分自身の安全のための有効な武器である。「変な匂い」は危険信号であり、「よい香り」は安全のしるしとなる。


3. 現代人と香り
さて、人間には5感というものがある。聴覚、視覚、味覚、触覚、臭覚の5感である。その内で、最も原始的なものは聴覚といわれている。胎児が母親の胎内で感じるのは聴覚である。そして、出産すると視覚が発達する。同時に触覚も発達する。母親の暖かい体温は乳児にとって安心のしるしである。そして母乳を飲むことによって味覚が発達する。初めは美味しいとか美味しくないという違いは分からないが、やがて母乳以外のものを口にし始めると違いが分かって来る。最後に、臭覚が発達する。つまり臭覚というものは人間にとって最後に得られる感覚であり、その意味ではそれまでの成長過程において経験したことの影響が大きく、また個人差・文化の差が非常に大きい。日本人にとって「よい香り」も外国人には「いやな匂い」ということもある。その意味で福音の土着化という場合、その福音がもたらす香りというものが非常に大きい役割を果たすということが言えるのではないだろうか。


4. ナルドの香り
さて福音と香りとは切っても切れない重要な関係がある。いよいよ主イエスが十字架を前にして、おそらく3日ほど前に「ベタニヤのシモン」という人の家で親しい人たちと共に食事をされた。そこに居合わせた人はその食事の意味を理解していなかった。実はこれが一般の人たちと共に食事をする最後の場であった。明くる日の夕食は例の弟子たちとだけの「最後の晩餐」である。イエスにとってこの食事は非常に複雑な気持ちであった。しかしそのことを知らない人たちははしゃいでいた。そもそもイエスと共に食事をするということはとても楽しいことであった。
そのとき一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスに注いだ。おそらくその香りは部屋中に充満し、そこに居合わせた人々に心地よい香りを与えたであろう。ところが、どこにでもいやな奴はいるもので、それを見てそこにいた人の何人かが憤慨して「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油を300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と、彼女を厳しくとがめたという。マタイもマルコもそんな嫌みをいう人物をぼかしているが、ヨハネはその人物を暴露している。しかも丁寧に「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った」。本人は正しいことを言っているつもりかも知れないが、長い歴史の目で見ると実につまらないことを言ったものだ。それに対してイエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかしわたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり前もってわたしの体に香油を注ぎ埋葬の準備をしてくれたのだ。この女性にしても、そんなつもりは毛頭無かったかも知れない。そんな理由付けよりも単純にこの場を和やかな場所にしたいというただそれだけの目的で高価な香油の壺を割ったのであろう。というよりも彼女が「今、ここで」イエスにできることはそれだけだったのかも知れない。それ以外のものは何もなくなってしまったのかも知れない。聖書はそのことについて何も語らない。
その次のイエスの言葉が重要である。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14:3-9)。彼女が割った香油の香り、それが福音の香りである。福音が伝わるところ世界中のどこでも「彼女がしたこと」が記念として語り伝えられる。


5. キリストの香り
パウロは、わたしたちはキリストの香りであると宣言する。それは、そのように生きよという命令でもなく、義務とか使命ではない。香りとは内から自然に発する生き方である。キリストにある者はこの世にあること自体がある独特の香りを発している。その香りはそれに接する人たちに「キリストを知る」とはどういうことかを直感させる。それは多くの議論で説得するよりも説得力がある。その人がただそこにいるだけで、その場が「安らぎの場」となる。安心の場となる。喜びの場となる。それがキリストの香りである。(2006.4.5、五条聖三一教会)

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